朱の世界 1The World of Vermilion, Part 1
四国八十八ヶ所として知られる全長1400キロの遍路は、古来より多くの仏教信者が歩き、今も人々を魅了し続けている古い信仰の巡礼地でもあります。この遍路を開いた開祖として知られているのは、日本で真言宗を開いた空海(774-835)に起源があると考えられています。ただし、空海が遍路を開いた理由や背景の歴史事情については、これまで確定的なことは判明していません。つまり、遍路は空海と結び付けられて考えられているが、実態は不明なのです。
四国全土の四十八ヶ所に寺院が設けられている「見える事実」に誰もが気を奪われがちですが、今回は私なりに問いを転移させてみます。それは「空海は、信仰の聖地を築くために四国全土を歩き回ったのか?」です。この時、遍路の源流となった背景には、空海が何者かの依頼を受けて「何か」を探していたのではないかという観点が持たれるべきです。
実際、こうした可能性については、以前から一部の人々によって探求されていますが、こちらも未だ確たることは分かっておらず、結論的に言えば、空海が遍路を開いた真の理由は不明です。ただ一つだけ確かなことは、若い時代の空海が無名の僧侶でしかなかったと考えられていることから、その頃の事績の大半が分からないということです。逆に言えば、これ以上のことは分からない。ゆえに、後代に多くの伝説が空海に紐付けられていき、現在の空海の実態を作り上げることができたのです。つまり、現在私たちが何となく理解している空海の姿は、かなり注意深く見なければならない可能性があるということです。
特に現在では高野山の空海や、即身成仏の印象的な世界と結びつけられることから、かなり誇張されているイメージが強い。ですが、彼の初期の時代について分かっていることは少なく、突然空海が歴史的に台頭することになった背景についても、誰も分かっていないのです。
そう考えると、空海について考えることができないように思われるでしょうが、重要なことは、空海が生きた時代が、平安京へ移る時代の過渡期に相当していたということです。おそらく、この点を見逃してはなりません。日本の場合は、歴史的に都がそのまま別の地域に移る「遷都」が行われる際、旧来の体制システムの一掃や改革が行われることが多い事実があります。これは遷都が単なる引越しではなく、旧来の為政者の利権を破棄する目的も持っていたからです。
そして空海は774年頃に生まれていますから、仮に平安京遷都までの20年を若い時代に位置付けると、まさに朝廷の激変が立て続いた動乱期に相当しています。空海が7歳頃の時に第50代・桓武天皇(781-806)が即位していますが、この時に都市は平城京(奈良県北部)にありました。しかし、天皇の皇位継承を巡る諸問題が皇族内部での激しい争いとなり、やがて710年から連なる平城京のシステムに寄生していた為政者の政治的目論みからの脱出を求めた桓武天皇は、平城京から北部の長岡京(京都府長岡京市)に遷宮を行います。
これが784年のことですから、桓武天皇は即位するなりその準備を推し進めたということです。ただし、歴史的に天皇の実権や裁量で遷都が行われることは稀で、ほぼ例外なく新たな為政者の意図のもとで展開されているため、この長岡京への遷都も同様の性質を持っていたと考えるべきでしょう。しかし、784年に長岡京へ遷都するも、問題が次々と生まれています。特に、平城京側の為政者であった藤原氏という最強の貴族と、露骨に藤原氏の権力構造と直結していた東大寺や興福寺などの平城京側の仏教勢力との関係断絶は、桓武天皇側の勢力にとって政治的不利な状況を招き、かつ統制するだけの予算確保が非常に困難となります。そして桓武天皇の実力だけでは、新たな政治体制の樹立と、同時に都市構造の開発を行う力はありませんでした。つまり、長岡京は土地条件には恵まれていたが、桓武天皇率いる新勢力側には致命的な予算不足が起きていたため、平城京を超える都市を建立するまでには至らなかったということです。
ここで桓武天皇側の新勢力が、表に裏に資金供給を為していた平城京的ネットワークの守護者である奈良側の藤原氏と仏教勢力との関係を切ろうとしたことは、文字通り財政難に直結するものであったという観点が重要です。何しろ、都市を別の場所に移動させるのですから、莫大な資金が必要となるからです。さらに785年9月には桓武天皇の右腕であり、実質的な長岡京遷都の立役者であった藤原種継が、夜半に暗殺される事件が起きています。この事件は平城京からの離脱によって利権構造が変移する過程で起きたことであるため、簡潔に言えば新勢力と旧勢力の利権争いです。
当時、急速な昇進を遂げて長岡京の政治実権を任されていた藤原種継に対して、平城京側の為政者からの嫉妬や恨みは絶えなかったからです。また長岡京の事実上の責任者である藤原種継を殺せば、平城京側の為政者が復権できる可能性があったと言えます。ですが、この暗殺を知らせを聞いた桓武天皇が憤激。暗殺が時期天皇と目されていた早良親王という皇太子の許可のもとで行われたことを聞きつけ、早良親王を幽閉して皇太子の位を廃した上で流罪に処すと、この措置に反抗した早良親王が絶食して配流中に死去する大事件が起きます。実はこの早良親王が桓武天皇に向けた深い怨念が、後の平安京最強の怨霊として数世紀の歴史の影となり、次々と事変をもたらす元凶となっていきます。
そして藤原種継暗殺事件から早良親王の怨霊という不吉な出来事が続いて桓武天皇側の体制が動揺する最中、792年に長岡京は大洪水に見舞われて機能不全に陥ります。当時、こうした厄災は指導者層の行動の結果だという信仰が強かったため、特に早良親王に対する桓武天皇の措置が問題視されます。ですが、彼らは今更平城京に帰ることもできません。しかし、長岡京を放棄して新天地に遷都をする資金もない。文字通り、財政難に喘いでいた桓武天皇側の勢力にとって、平城京の強い影響力から遠く離れた土地に遷都をして、全てのシステムを刷新することは、彼らの生命に直結する死活問題でした。鍵となるのは予算の確保です。
この予算は桓武天皇側だけでは到底賄えなかったため、奈良側の勢力に依存しない新たな資金源が必要となりました。ここで桓武天皇側の勢力に出資を依頼してきたのが、現在の京都市を事実上掌握していた一つの氏族でした。その氏族の名を秦氏と言います。秦氏は5-6世紀頃に日本へ渡ってきた新興移民の勢力で、養蚕・織機・治水・土木・酒造などの大陸技術を日本に持ち込んだ集団です。彼らの起源は未だ定かではないのですが、複数の系統が混在して成立したと私は考えています。秦氏は九州側に上陸して以降、革新的な技術を活用して次々と土地を切り開き、初期的な産業化を実現して莫大な利益をあげます。
そして着実に東へ向かって進出してきた秦氏は、やがて本流が現在の京都市西部の嵐山付近に留まり、分流は現在の京都市南部の有名な伏見稲荷大社の地に到達します。これはいつか書きますが、この時に新興勢力である秦氏が現在の京都市の西部から南部側にかけて進出した理由は、東部側は在地の勢力が既に居住していからです。しかし、後に彼らを軍事的に追い出して京都市を制圧しています。ここで莫大な資金を獲得した秦氏は、奈良側に朝廷が置かれていた時代から、資金供給や物資調達などを通じて皇族や古代氏族と接近し、既にそれなりの実力を持つに至っていました。それでも所詮は新興移民の氏族であり、奈良県南部側の大和に朝廷が置かれていた時代では、距離の関係と当時の古代氏族の存在によって、さほど強い影響力を獲得するには至りませんでした。
そこで秦氏は機会が巡ってくることをひたすら待っていたのですが、それがようやく桓武天皇の治世下で訪れたのです。これは秦氏にとっては千載一遇の機会であり、政治的実権を獲得する最大のチャンスです。ここで長岡京で絶望する桓武天皇とその周囲の為政者に対し、秦氏側は新たな都市の建立を自らが掌握している京都市内に転移するように働きかけ、表に裏に協力を焚き付けていきます。ここで秦氏側が提供したのは、都市建立の際の広大な土地と資金です。これは既に為す術を持たなかった桓武天皇にとっても魅力的なオファーであり、かつ京都市であれば平城京とは距離を取れる観点から、応じることになります。こうして794年に遷都されたのが平安京です。つまり、平安京の遷都の裏には秦氏が居ます。この秦氏は架空の氏族ではなく、日本では【秦氏】(【秦】が姓で【氏】はclan)と表記されますが、今も京都市西部側には【太秦】(Uzumasa)などの地名や、信仰地や古墳などが残っています。また京都市の松尾大社や伏見稲荷大社の建立にも彼らが関わっています。実際、松尾大社は明治に神職の世襲が禁止されるまでは、長らく秦氏の末裔が神主を務めていました(現在は神社運営から排斥されていますが、まだ【秦】の姓は残っています)。
大きく見ればこのような時代背景があるのですが、この動乱の渦中で空海が若い日々を過ごしていたことを理解してください。まだこの時に空海は無名の僧侶とされており、たかだか20歳の若者でしかないのですが、ここから空海は大躍進を遂げて、10年後の804年には国家事業である遣唐使の一員に選ばれています。そして当時、彼はまだ国家に認められた高貴な僧侶ではなく、一介の修行僧でしかありませんでした。
謎が謎を呼ぶ空海の生涯ですが、今回の記事で示した通り、平安京の遷都には旧来の為政者ではなく、多様な技術を産業化する力を有していた新興移民の秦氏が関わっており、表に裏に資金を供給しながら、覇権を絶対的なものにする動きを取っていたことが要点です。つまり私見では、空海に注目したのは桓武天皇ではなく、資金力を利用して次の覇権掌握を目論んでいた秦氏側だったのではないかと睨んでいます。
また空海は789年の15歳の時に、母方の叔父に儒教などを学んだ後、平城京の大学に進学しています。この母方の叔父が一説には桓武天皇の皇子の家庭教師だったと言われており、中国の儒教や歴史に関する素養が深い人物だったとされています。若き空海はこの叔父のもとで中国の学問を学び、そこから平城京の大学で学び始めたのですが、すぐに飽き足らなくなって独学に邁進しています。それらを前提すると、以下の問いが浮上します。
一体、なぜ空海は平安京遷都の激動の潮流に乗って大躍進を遂げることができたのか。
空海の台頭が桓武天皇の治世と完全に同期していることが示す事情は何なのか。
次回は、ここで示した平安京の実業家・秦氏と新たな朝廷の指導者となった桓武天皇の思惑が交差する新時代に、平安京システムの維持を目論んで抜擢された若き空海の見えない歴史を探っていきます。