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1930年代中期の日本映画と時代の交差点Japanese Films of the Mid-1930s at a Crossroads of Eras

1930年代中期から後期の日本映画を見ていると、時代が大きく変わった交差点を感じます。それは俳優の姿に顕著なのですが、日本固有の時代区分である二つの時代に生まれた人々が身に纏う気風の差異と言えます。それが明治と大正です。視方を変えれば、この時代の映画は時代の貴重な記録史料でもあり、二つの異なる時代性を前提とする日本人像が生まれていたことを示唆する痕跡でもあります。そしてこの時代の性質を考究することができれば、現在私たちが普遍だと信じさせられている虚構の存在を暴く力となるだろうと考えています。なぜならば、この時代の人々の心の揺れ動きの中にこそ、普遍は普遍ではないことの真理が持っていると感じるからです。

1912年7月30日から1926年12月25日までが大正天皇の在位期間であったため、この時代を日本の時代区分では大正と呼びますが、この15年程度の短い歳月の中には大きな時代潮流がありました。それは広義に大正ロマンと呼ばれており、似た言葉としては大正モダンや大正レトロなどが使用されます。要するに大正時代の趣を伝える思潮や文化事象を指す広義の用語です。この大正ロマンの最も大きな特徴としては、個人の解放、新たな時代への理想に満ちた思想風潮や、あるいは日本と西洋を巧みにミックスする和洋折衷という考え方などが出てきたことにあります。

これらは基本的には大衆文化として登場したものですが、こうした性質はそれ以前の明治とは大きく異なるものでした。まず、明治の時代性質における根幹には、約300年続いた江戸時代の幕府システムに対して軍事革命を起こして樹立したクーデターの要素があります。そして幕府システムを崩壊させて新たに新政府が樹立すると、積極的に日本側の初期近代の形成を目指して、西洋を模範とした様々なシステムが導入される活発な時期を迎えます。しかし、明治は江戸時代に生まれた人々が多く残っていたため、こうした急速な潮流に対する強い反発が起きます。なぜならば、日本の歴史文脈を無視した形で西洋式のシステムに全てを置き換える方法は、彼らからすれば植民地や侵略と何も変わらないからです。ここで厄介な点は、西洋化の推進者たちも反動者たちも、双方共に場所が見えておらず、一元的な日本国家の空間が想定されていることです。

これは妥当な反発ですが、おそらく要点として掴んでおくことは次です。日本側の近代の始まりは、他国で典型的だった外からの植民地化という形ではなく、国内の一部の担い手が西洋の制度を用いて社会の仕組みを組み替えていく形で進んだことに特徴があります。つまり、同じ場所の内側で仕組みの置き換えが進み、その内部に強い緊張が生じたところに近代日本の大きな特徴があるのです。ゆえに一部の政治家、官僚、学者が主導した西洋式システムによる仕組みの組み替えに対する強烈な反発として、後に右翼として台頭する在野の勢力が勃興する機会が生まれていき、やがて日本主義として第二次世界大戦まで影を落とすことになります。大きく見れば、明治では日本と西洋の二つの枠組みを常に人々は想定し、その範疇において分離した立場からこれらをどうやって近代国家に取り込むかということが非常に重要な問題だったのです。

実際、この時代には西洋主義や日本主義というイデオロギー用語が登場して激しい衝突が起きています。そして勘違いされやすいのですが、当時の西洋主義とは名前だけで実態は反デモクラシーです。この実態を想定した時、近代化の過程を経る明治の段階で行われた西洋式システムの日本側への移植と構造化は、果たして中身があったのかという疑念が私の中に生まれてくるのです。事実、西洋主義と日本主義の人々は、二元論的な対立構造で物事を見ることが研ぎ澄まされているようには見えますが、実のところ自分たちの主義主張に対しては、かなりあいまいだったことが彼らの残した言葉の随所から感じます。いわば明治という時代潮流として、西洋か日本かという極端な分裂が生まれていたのですが、これはあくまでも表向きの形であって、裏を返して見ると、近代国家を形成していく初期の過程において、中央が社会全体を一元的に統べる構造を作り上げようとする動きが起きていたと捉えれば分かりやすいでしょう。この中心となったのが明治新政府の指導者層だったのですが、明治は1868年から1912年まで45年も続いたため、長い時間をかけて様々なイデオロギーが発展し、研ぎ澄まされていく過程を経ていました。

この歳月を通じて近代国家の問題が国内で明確になってきた明治の終わり頃から、新たな時代潮流が生まれていき、やがて大正に入って開花します。一概には言えませんが、大正は和洋折衷という言葉が大きな性格として一部で語られるため、ここを見ていきます。大前提として大正の思想観点では、明治の日本主義も西洋主義も両方共に問題であって、それは近代日本にとっての解決策にならない捉えたことに特徴があります。そこで明治のようにどちらかが正しいという二元論に陥っていても、結局は先に進むことができないという確信があったため、大正の人々は両方の良いところをミックスすれば良いという割り切った考え方を徹底させます。これが和洋折衷という言葉に象徴されたのですが、要するに明治は分離傾向が強かったため、一度日本の本来的な性格である非分離に引き戻そうとしたということです。この潮流の中心が女性であったことが、分離から非分離への特徴を表しています。

明治は江戸時代に生きた人々が中心であったため、一貫した思想や態度に固執する性格を放棄できない人々が多かったのですが、大正に入ると江戸時代を生きていた人々は在命していても高齢者でしたから、かつてのような社会的な影響力は持っていません。さらに大正は明治の後期に生まれた人々によって構成されていたため、日本主義と西洋主義という大きな二つの枠組みの緊張感の中で育った世代が、この問題に向き合いながら、やがて大正ロマンを開花させる原動力になったと言えます。言い換えれば、明治の思想的緊張感への回答が大正ロマンの本質です。

しかし一方で、この大正は続く昭和という激動の時代に入る不安を抱えた直前の時代に位置しており、迫り来る得体の知れない不安の中で人々は生きていました。それは自分たちがこのまま進むと良くない未来になるのではないかという漠然とした不安だったのですが、いつの時代も漠然とした得体の知れない不安が先鋭的な文化を生み出す源泉となります。彼らは漠然と迫り来る不安に答えるために、明治以上にイデオロギーに傾倒していき、社会主義、共産主義、無政府主義などを積極的に取り入れながら、次々と消化していく代謝の早い時期へと向かいます。ある意味では加速主義的な世界観だったのですが、近代日本の行き詰まりに対して、突破するには加速するしか方法はないという考え方です。実はこの大正の加速主義的潮流が、同時期に伝統意識が芽生えていた日本主義側の勢力の利害と真っ向から対立し、やがて社会主義、共産主義、無政府主義は危険だと見做されて国家的弾圧へと結びつきます。こうして大正時代を通じて全ての速度が非常に速まるのですが、それが後の1930年代中期や後期に入ると映画に登場してくる俳優の姿に顕著に現れるようになります。

逆に言えば、大正は加速主義的性格を有していたため、和洋折衷が無意味に賛美されると危険だということです。なぜならば、大正の人々はかなりの速度感の中で生きていたため、この和洋折衷も高速で取捨選択が行われており、じっくりと吟味することはなかったと言えるからです。さらに大正はまだ昭和的な一元的国家システムが樹立しておらず、場所や地域の固有性が強い時代ですから、こうした潮流も所詮は東京と大阪の大都市に限定される傾向が強く、日本という全体軸では明治的性格を強く残渣していたと言えます。また1923年9月1日に関東大震災が起きたことを契機として文化人が拠点を西へ移動させたため、大正ロマンの文化発信地は東京から関西へ転移し、大阪から神戸にかけて阪神間モダニズムという新たな潮流が生まれています。

この大正時代の文化は今も多くの人々に愛されていますが、私が考えたいことは、この時代にはもう一つの大きな特徴として「大正デモクラシー」が喧伝されていたことです。そこで問いたいことは、デモクラシーは日本に存在したことがあったのかという問題です。現在の日本でも、西洋のデモクラシーは【民主主義】として日本化されていますが、今回の自民党が圧勝した選挙を見ても、デモクラシーが都合よく使われているに過ぎないことは明らかです。日本にデモクラシーが本当にあったのかということを問い返すことに意味があると私が考えているのは、グローバルな世界におけるデモクラシーの一貫的な理解は、実は場所における限定性に必ず規定されるため、他国にまで同じ考えを及ぼすことは不可能なのではないかという疑念があるからです。

これはある意味では、大正の人々が感じた違和感に近いと私は感じています。西洋で始まった伝統的なデモクラシーの文脈とは、そもそもが場所に根ざして形成された歳月と鍛錬の結果の賜物であって、そうした地域においては普遍であり、効果的に機能するものです。ですが冷酷な事実として、それが広域的、ましてや他国にまで波及した時に同じ影響力を持つことはありえません。これは非西洋でありながら、いち早く近代化を遂げた日本という対象を160年程度俯瞰した時に見えてくる確固たる事実であって、まさに今問われるべき重大な問題です。よく現在の日本の衰亡を資本主義の問題へと転移して恣意的に論じる人々を見かけますが、問題はそこではなく、その人々自体が信じて疑わない普遍の虚偽にあります。

ここは普遍の問題が深く関わってくる重要な所です。一般的に考えられている西洋的な普遍は、あくまでも場所に根ざしたものでしかないという視点が、もう一度必要になる時期を迎えているように思います。それは西洋自体の解体であり、西洋など存在しないことの再解釈ですが、それは東洋という解体において象徴的に現れてくるでしょう。この時、普遍の定義自体が変わるため、そもそも今まで信じられてきた普遍は普遍ではなかったことが暴かれていきます。そしてこの種の問題は、場所の考え方を自分たちの思考に実装しなければ、解くことができません。極言すれば、グローバル次元での普遍はありえないという理解です。ただ注意が要されるのは、この普遍はあり得ないのですが、あり得るように装うことができることです。なぜならば、どこかの場所に根ざした限定的な普遍性を、都合よくかいつまんで利用する為政者が各国で登場するからです。これが問題の元凶であると想定すれば、普遍は為政者の私利私欲を担保するシステムを守るために悪用されるツールでしかない。

現代日本はまさにこの象徴と言えるため、次は普遍として扱われやすいデモクラシーの問題を見ていきます。