文化偽装の終わり:淘汰の予兆The End of Cultural Camouflage: Signs of a Shakeout
日本の国債市場で発生した大暴落と、既に日本側で制御不能となった為替。これは高度経済成長期から長らく維持されてきた「日本の信頼」が崩壊した決定的瞬間であり、ようやく始まった終わりへの号砲となりました。「ようやく始まった」と言ったのは、一度終わることでしか日本は真の意味で再生する気力を持たないからです。しかし、最近起きている出来事はテクニカリーには日本が既に国家財政破綻していることを世界に曝け出したにも関わらず、なぜか国家財政破綻には陥っていません。日常を見ていても、国民生活は明らかに破綻していますが、それでもまだ底が抜けたような事態にはなっていません。つまり、何かが理由で持ち堪えている。
おそらく他国であれば、この規模のショックに直面すると国家財政破綻に陥っている可能性が高いはずです。ですが日本の場合は、高度経済成長という劇的な発展を戦後に遂げたことが良くも悪くも現代世代の足枷となっており、この時期に貯め込まれた外貨準備高などの資金をまだ保有しているため、破綻することができません。つまり、現在の日本の姿は、破綻しなければならないはずの国家が、過去の特殊な事情から破綻できなくなって苦しんでいる状況と言えます。
この辺りの現象は国際的に深刻な問題として議論が加熱していますが、いつも通り日本国内のマスメディアは沈黙を貫いており、まともに報道した形跡がありません。日本のマスメディアは真実も真相も追求せず、「報道しないこと」を唯一の職務の理念に据えて電波を占有しているため、ここまでの危機にあっても国民は何が起きているのか理解していません。これは超高齢化社会の日本で圧倒的マジョリティの高齢者層が、インターネットを使用できず、スマートフォンを扱えないため、新聞やテレビのマスメディアの情報源に大きな信用を置いているからです。そして政治家はこの状況を理解していますから、問題対処にあたらず、選挙に大金をばら撒く状況が展開されているのが現在です。返しきれない借金を抱えて破綻を迎えている国家状況にありながら、一部の為政者がシステムを私物化するためだけに選挙が行われ、そこで多額の資金がばら撒かれている状況も、マスメディアの情報偽装によって超高齢化社会の日本では平然と許容されています。既に日本は国家として成立していないのですが、それでも生存し得る日本国家の異質さがあります。ただ今回の記事では、論点を「日本の信用」という50年程度続いた虚構が崩壊したことによって、近く波及するであろう領域に焦点をあてていきます。
まず、マスメディア同様に政府は、この渦中でもシステムの私物化だけを考えて解散総選挙に突入しており、この財政危機の事実を全て無視して、食品の消費税率をゼロにするというばら撒きを徹底することの宣言を行っています。こうした末期の国家に起きる典型的病理は、国民生活を完全に破綻させる近未来へ向かって邁進していますが、未だに多くの人々が金の問題ばかりに注目を向け過ぎていることから、全く考慮されていない深刻な問題があります。それが文化です。
私は何度か書いていますが、国家と日本を同一視しないことを立脚点に据えており、同時に「日本はない」という観点から、誰よりも深く日本の考究を行なう決意を持って日々を生きています。これは日本はないことを徹底的に考究することによって、そこにある日本を掴み取ることを表しますが、馬鹿げたレトリックとは異なり、ここに真の普遍があることを察知しているからです。よって、政府と日本は異なるという位相から問題を独自に考究し続けているのですが、これは最近集中して論じている幻想世界の構造と深く関わっています。つまり、共同利害における共同幻想側と、個人幻想と対幻想の位相が異なることへの徹底した自覚と識別です。ただし、殆ど全ての人々は幻想の形態にまで思考を向けていないことから、ここは完全に渾融としたまま放置されたままの未開の領域となっています。ゆえに、この渾融状態への識別を持たずに展開される一般的な日本論の諸問題は、常にシニフィエに留まり、本質において何が起きているのかを知るための力には絶対になり得ません。悪い言い方をすれば、茶番です。
実際、ここで起きている一連の日本国家の信用破綻を、単なる国家財政の範疇に限定して見ることは短絡的かつ致命的な誤りの原因となります。また、この動揺は突如起きたのではなく、長年先送りにされてきた広義の意味での負債が、2020年代中盤に入って表面化したに過ぎません。しかし、国家が既に終わりという刃を喉元に突きつけられているにも関わらず、この問題を直視して抜本的な処置を為そうとする意欲を持った政治家は一人もいません。なぜならば、既に彼らのようにシステムを私物化することに依存した人々は、自分たちの人生の範疇において、この問題が解決されては困るからです。別の観点で言えば、一度でも他者のルールに迎合した甘さを持つ人々は、二度と立ち上がることはできません。なぜならば、迎合は自分自身への甘さであり、安易さであり、簡潔さだからです。誰もが理解している通り、人生は楽な道に一度でも陥ると、本来持っていた意欲を二度と回復することはできない厳しさを持っています。マーケティングやブランディングなどと過去の美化を現在でも平然と語る人々がいますが、それは自分への虚偽であり、欺きの隠蔽でしかない。真に信念を持っている人々は、マーケティングもブランディングもなしに孤高の存在になっていますし、最も信頼が置けるのは、いつの時代もそうした一部の人々です。
この問題が今後文化に表れると個人的に考えている根拠は、高市早苗首相が安倍晋三の正統な後継者だからです。実際、石破茂前首相は国民からの支持は高かったにも関わらず、半ば強硬的に2025年9月に辞任させられています。その空いたポストに新首相として高市早苗が就任したのも、安倍晋三の系譜にある一部の政治家と支持者が喪失した実権を取り戻すための措置です。今日の日本崩壊の立役者は、間違いなく2010年代の第二次安倍政権の指導者・安倍晋三です。彼の責任は今も追求されることなく放置されており、あろうことか正統な後継者である高市首相へと引き継がれましたが、この国家財政のテクニカリーな破綻だけが当時の安倍政権が播いた種ではないことを、一体どれだけの人々が理解していると言えるでしょうか。つまり、第二次安倍政権の主要政策であったアベノミクスの結果としての今日の国家財政の事態の表面化を前提した時、当時のもう一つの主要政策の軸となっていた側面が連動して崩壊するだろうと私は見ているのです。なぜならば、問題の根底にあるのは「日本の信用」の崩壊だからです。ここを掴み損ねると、何が起きるかは見えてきません。そしてその大きな崩壊が起きる領域が文化だと明言できる理由は、当時の安倍晋三が展開したクールジャパンという文化戦略の大失敗に典型的に現れています。
いわば、現在の日本で起きている危機は、第二次安倍政権が国際社会に対して展開した日本ブランディングの完全失敗の結果が、時差を伴って回ってきたものだということです。ゆえに、日本の国家財政が世界に対して虚偽をばら撒いてきたこと同様に、日本文化も虚偽をばら撒いてきたことが今後急速に暴かれていくことが想定されます。これは、かつて日本と海外のあいだの物理的な壁となっていた地理的距離と言語の二つの絶対的な壁が、円安に伴うオーバーツーリズムとAIによって瓦解したからです。この潮流に乗って大量に押し寄せた外国人観光客の存在を思案する時に最も重要となることは、彼らがこれまで肌で感じることのできなかった日本の実際経験を得たことに尽きます。つまり、世界各地の人々が日本に対する実感を経験則で持ったことが決定的だと据えるべきなのです。2024年頃からのたった2年程度の期間に起きた極端な日本でのオーバーツーリズムにおいて、多くの外国人旅行者が初めて日本各地を巡る機会が到来したことで、これまで日本のイメージとして漠然と抱かれていた姿との極端な乖離に直面したのです。もちろん、ほとんどの旅行者にはそのようなことを感じ取る力はなく、単なるオーバーツーリズムの中の構成員でしかありませんが、このような世界にあっても思考の力を信じる一部の人々にとって、これほど強烈な事態はありません。
言い換えれば、彼らが無意識に持っていた「日本のイメージ」と「日本の現実」が極度に乖離している事実に直面した衝撃です。この衝撃が、上述の国債暴落に現れたという捉え方です。この乖離の原因を各々が処理するためには思考作業に歳月を要しますが、その時代の思考が既に日本国家に対する不信として現れて国債市場が暴落した現在の状況を鑑みると、時代の加速の影響でタイムラグが極めて微小になっていることを感じます。このケースを軸に思考すれば、今後若干の時差を伴いながら急速に展開されるのは、虚偽の文化への告発であることが見えてきます。
私が見る限り、ほとんど100%の日本を発信するコンテンツは、そのメディア形態がテキスト・動画・写真であろうが何であろうが、例外なくこの虚偽の日本ブランドを前提に配備する仕組みの中で展開されています。特に第二次安倍政権が打ち出したクールジャパンに典型なのですが、実は現在の日本関連コンテンツのほぼ全ては、このクールジャパンという文化を持たない次元から生まれたものでしかありません。それは別の言い方をすれば、「日本ではない日本」をコンテンツにして輸出したものです。そして「日本ではない日本」の生産・再生産は、言語の橋渡しのしやすさと、売りやすい日本像の型とが結びつく仕組みの中で進んできました。英語で発信できることと、日本の実像に根を下ろして考えることは別の事柄であるにもかかわらず、前者だけで日本文化を国際市場に紹介する母体が形づくられてきたのです。その仕組みの中では、「日本ではない日本」が日本として疑われないまま流通していきます。一体、なぜこうしたことが起きるのか。
この仕組みの根底には、一つの共有前提が設定されています。それが、過去の遺構であるオリエンタリズムの構図です。この構図が今も大前提にあるのですが、文化コンテンツを語る当事者たち自身はこれに気付かないまま、それは見過ごされて日本としてコンテンツが展開されています。この結果、似たり寄ったりの日本コンテンツが氾濫し、あたかもそれが日本文化、あるいは日本の歴史や哲学の総体であるかのような虚偽が形成されて拡散されていきました。虚偽の厄介な点は、虚偽もマジョリティになると真理と錯合され得ることです。私の基本姿勢は、この仕組みに対して、日本の実像を場に立って語り直すことにあります。より明確に言えば、「流通している日本像は、日本そのものではない」ことを、一つひとつの場所から示していくことです。つまり、現在までに起きていたことは、クールジャパン的な態度を日本文化として疑わずに前提し、その観点のままコンテンツを再生産するという循環であり、そこには文化への理解や共鳴や敬意が育つ余地がなかった。
当時のクールジャパンが如何にセンスがなかったかについては膨大に語れますが、要点は比較対象にクールジャパン戦略のモデルとなった英国のクール・ブリタニアを考察すれば十分です。これは英国病に苦しんでいた1997年に、トニー・ブレア率いる新労働党が第三の道を掲げ、伝統的な社会主義や保守主義を超えた新しい英国像を提案する中で、文化を国家のソフトパワーとして活用した画期的な国家ブランディングの原点です。この時、トニー・ブレア率いる政治体制が旧来の体制に依存していなかったため、それまでとは異なる斬新かつ抜本的なアイデアが必要とされたのですが、重要なのは当時まだ43歳と若かったトニー・ブレアでさえ、時代に追いつけているか疑問を感じていたことです。ここで彼が取った戦略は、新時代に相応しい存在としてシンクタンクに勤務する23歳の研究員であったマーク・レナードを抜擢し、全てを23歳に任せる英断を行ったことです。ここでレナードは期待に答えて「Britain(TM): Renewing our Identity」という素晴らしいコンセプトを提唱し、英国を従来の伝統的イメージから刷新し、クールで現代的な国としての再定義を行います。ユニオンジャックをポップに使い、ファッションのPaul Smith、ブリットポップのOasisやBlur、ダンスミュージックのFatboy Slimまでに税金が投入されて世界に売り込まれていき、見事に大成功を収めます。この結果として、観光や文化輸出が全方向でブーストされ、英国のイメージが一新されたのです。
実はこのクール・ブリタニアが展開されていた当時、日本もバブル崩壊後の新時代に相応しい戦略として、このクール・ブリタニアから学んだ国家ブランディングの提言が一部の理解ある人々によって水面化で行われていました。しかし、当時の政治家や官僚はクール・ブリタニアの存在自体を知りませんし、文化が何かも分かりませんから、結果的に受け入れられることはありませんでした。これと全く同時期に、この英国の成功こそが新時代の潮流だと積極的に受け入れて再生の希望を賭けたのが隣国の韓国で、その後の韓国のソフトパワー戦略の大成功は誰もが知る通りです。しかし、日本側では前述の通り、高度経済成長期に貯め込まれた資金に当時は相当な余力があったため、トニー・ブレアのように新しいことを国家的に遂行するために若者に一任することもせず、韓国のように国家存続をかけて賭けることもなく、逆に何もしないことが政権維持の唯一の手段だと考え、やがて手段と目的が転倒して何もしないことが目的となります。
この政治家と官僚の何もしないことが唯一の目的であるという態度が、マスメディアを通じて日夜拡散されていき、やがて企業上層部も国民も何もしないことが唯一の目的となって機能不全に陥って象徴的な2011年3月11日の東日本大震災を契機とする2010年代を迎えます。この結果、時代の停滞を象徴する政治体制が、首相の座に返り咲きました。これが、第二次安倍政権の始まりです。
ただし、第二次安倍政権は成果を示す必要から、過去に提言されながらも当時の政治や官僚の中で受け入れられなかった戦略を取り出し、これを国家ブランディングの基礎に据えることを決定します。こうして最初の提言から十年以上が経った時、既に時代遅れとなっていた国家ブランディングの戦略を掘り返し、中身の研究もせずに安倍晋三の実績のためだけに展開したのがクールジャパンの真相です。クールジャパンは国家のソフトパワー戦略側に位置づけられましたが、日本の政治家はばら撒きだけが得意ですから、国家から次々と予算だけはばら撒かれていきました。こうして「日本ではない日本」の文化が、世界中に拡散されていったのです。ですが、言うまでもなくそれは「日本ではない日本」であり、中身は最初から入っていませんから、先行していた韓国をソフトパワーの観点で追従することにはならず、国民はマスメディアが日々語るクールジャパンという聞き慣れない用語の意図を理解できず、いつの間にか終わりを迎えます。この国家的なクールジャパンの結果、国際的に日本文化として広まったのはHentaiとKaroshiだったという不都合な事実は、当然ながらクールジャパンを主導した政府関係者には知られていません。当時、私も国外でこのワードを聞かされる度、辟易したことを覚えています。
そして、ここでクールジャパン戦略に便乗して台頭してきたのが、前述のオリエンタリズムを引き継ぐ構図です。ですが、文化の根に立たないまま進められたため、結果的にソフトパワーの輸出戦略は大きな成果を得られずに終わります。そうした中、クールジャパン戦略は十分に検証されることがないまま、オリエンタリズムを引き継ぐ構図は生き続け、各種メディアに「日本ではない日本」がクールジャパンの延長として流れ続けています。ですが、この文化偽装も国債の暴落同様に、じきに終わりを迎えるでしょう。
何より、文化の暴落は既に国家のハードパワーを失った日本にとっては、最悪の自体を迎えます。文化が暴落した後の日本を想起すると、日本が何かを分からないかつての日本人らしき人々が、大量に島国を彷徨うような世界になることが考えられます。この時、再び文化の本質を真摯に理解する動きに向かうのか、或いは全てを断念して埋没してしまうのか。それがいつ起きるかは分からないものの、もう時間の問題だと思います。
日本の未来は、最近の国債の暴落以上に、文化の暴落によって決するでしょう。