倭人考 1On the Wajin, Part 1
今回は古代日本史において、日本人の民族基盤を構成すると考えられている「ワジン」なる存在について開示していきます。ただある程度書き終えた上で感じたのですが、この洞察は日本語で日本人に向けて行なっても相当難解で混乱してしまうため、いつものように比較的ロングフォームだと混乱してしまうリスクがあるため、ある程度の量でまとめながら、幾つかのピースに分けてリリースすることにしました。また誤解を避けるために先に冒頭で示唆しておきますが、ワジンという存在は日本における特定の民族固有名を指示する呼称ではなく、どこかの時代以降、歴史的な慣習において自然に使用されるようになったものであり、その姿は漠然・抽象化されたものでしかありません。ゆえに「この人はワジンに出自を持つ」という言い方は、日本では不適切という以上に不可能であって、その認識は最低限の問題にも議論にも達していないことから完全に無意味です。つまり、論点のポイントとして、ワジンの存在有無に焦点を置くのではなく、そもそもワジンとは何なのかをベースに問いを深めていくことです。
もう一つの要点は、日本の初期歴史時代において、そもそもワジンと呼ばれた民族、あるいはワジンと実定され得る特定の民族が居たのか否かを問うことです。つまり、ワジンがイコールで特定の民族、あるいは部族集団を指示する厳密な概念として、歴史的に機能していたのかということが問われて然るべきです。しかし、実際問題として現代までのワジンの考察は酷過ぎます。現在でも、この抽象化されて漠然となったまま放置されているワジンの概念を悪用して、恣意的に多方面で使用される傾向がかなり強い。誰もワジンを知らないままワジンについて語っている奇妙な状況には辟易しますが、これによって日本の歴史的な像が歪められているとも言えます。或いは、歪められているというよりも、そもそも立脚点からして間違っていると言えるでしょう。この基本を無視した概念形成を前提に歴史議論を展開すれば、確実に無知な人々を狙う現代の無数に展開されたイデオロギーが介入して絡みとられてしまうため、必然的に民族的な問題を無意味に生産し続ける暴挙が肯定的に生産されます。ですが、シニフィエしか歴史において見ない人々の態度を、私は完全に切り捨てて進めていきます。こうした馬鹿げた見方に迎合しないという強い立場から、誤解だらけの虚像となって浮遊するワジンについての考察を深めていきたいのです。その理由は、ワジンが先住民問題という日本では通用しない問題へ悪用されているからです。
まず、頻繁に前提とされるワジンなる民族の姿は次のように語られます。それは江戸時代後期頃の北海道における幕府側勢力の入植という歴史において、北海道在来の先住民族であるアイヌの土地を侵略したワジンという二項対立の関係構造です。実際、その主張は常に、あたかもアメリカやオーストラリアなどに西洋人が入植した植民地的な意味とイコールになって語られるのですが、これは根本的に間違っています。大前提ですが、このアイヌ自身も極めて粗雑な誤解の上で成り立っている捏造された虚像の民族です。今回は触れませんが、「日本人という民族構成において、いつの段階でどの民族が成立したか」に焦点を当てるのであれば、実はアイヌが最も日本列島では新しい民族となります。ですがこの事実は無視されており、特に植民地主義的なニュアンスを日本国内から国際舞台へ誇張したい意図を持つ人々は、「アイヌ=縄文人」と設定することに固執し、ここを援用する形で「アイヌは日本最古層の民族の血筋を正当に継いでいる先住民族」と捉えます。これまで多方面にこの一方的解釈が間違っていることは様々な分野から開示されており、近年では遺伝子の観点からも誤りであることは判明しています。一方的解釈とは、「アイヌ=縄文人」の構図で語る無意味さです。より簡易に言えば、縄文人という日本最古層の先住民族の純粋な子孫をアイヌと位置付けてしまうことです。実際にアイヌが縄文人の系統を引いていることは事実であっても、縄文人の系統を引く人々と見るならば、別にアイヌ以外にも広く存在します。むしろアイヌとは、非常に複雑な交雑によって生まれた日本列島の中では新しい民族に位置しており、その成立は13世紀頃です。
実際、西洋の植民地主義の反省という近年起きた大規模な現象を碌に考究せず、ただ西洋でトレンドになっているという理由だけで日本にも援用した人々が、この西洋の歴史におけるアメリカや南米やオーストラリアなどの植民地主義的議論の格闘や葛藤を考察もせずに安易に使用したため、「ワジンがアイヌを侵略した」という奇妙な構図が主張されました。ここで奇妙な構図と言ったのは、アイヌの実態を調査することを怠っている上に、このワジンがなぜか日本人とイコールになってしまっているからです。しかも、ここでのワジンの表記は「和人」となりますが、これを音が一緒だからと考究もせずに歴史的な表記である「倭人」と同一視し、そこに天皇の万世一系説を前提に日本人を単一民族と位置付け、この日本人が縄文系先住民族であるアイヌを侵略したという構図を打ち立てました。つまり、現在ほとんどの人が考えるワジンなる姿が、奇妙なことに日本人とイコールだという構造になっており、その日本人という主要概念から逸脱した位置に「アイヌという先住民がいた」という構図が設定されています。これは個人的に日本を調査している私から見ても、あまりにも馬鹿げた無知な結論でしかなく、杜撰を極めたゴミでしかありません。ただ、この問題ほどワジンの考察に適した素材はない。なぜならば、ここには無数の問題が露呈しているからです。
第一に、この主張には、統一国家・日本、単一民族・日本人が頂点に据えられて中央集権的な日本像が前提に配備されています。しかし、Shitsuraeを通して多角的に開示している通り、日本で統一・単一概念が真の意味で成立したと言い得るのは、1960年代後半の学生運動の敗北以降のことです。第二次世界大戦前後でさえ、これは強度は持っていたとは言っても、多元的世界という日本の本質次元において中央集権との間に強い緊張関係が存在したため、それは現代的意味での日本・日本人の力には達していません。ましてや、江戸時代に統一国家・日本、単一民族・日本人が存在したと見るのは事実に合いません。江戸時代でさえ中央集権的統一国家は存在せず、多元的世界を強く有しています。ですが、アイヌ先住民問題を国際議論に挙げたい思惑を持つ人々は、このワジン侵略という文脈を日本人へとダイレクトに直結し、この侵略は日本が行ったものだと実定します。これを私は完全な誤り、つまり歴史に対する無知、何よりも思想的な無知と捉え、論点が根本的に間違ったところで捏造された議論だと設定します。この現象が安易に起きてしまう理由は、ワジンが何かを突き詰めないまま、よく分からないことを悪用し、好き勝手に使用され得るからです。そこで独自の視点でワジンについての実態解明を展開していきます。
ワジンの起源を遡るために重要な文献となるのは、日本最初期の姿を記した中国側の『魏志倭人伝』です。魏志倭人伝は『三国志』の中に含まれている付随的な文献ですが、魏志倭人伝の呼称は通称で、正確には【『三国志』の中の「魏」書「東夷」伝「倭人」条】のことです。ここで「魏」「東夷」「倭人」と強調しておいたのは、以下で理解できるはずです。まず、この文献の表記を見ても分かるのですが、既に「倭(ワ)」と「倭人(ワジン)」の表記が定まっています。「人」の表記は、この次元では民族と捉えて構いませんが、実態は複合部族です。つまり「倭」なる民族が存在したことを書いているということです。ここで重要なことは、倭人なる謎の存在を、当時の魏の使者が日本列島において、特定の民族的な次元で既に打ち立てて理解していることです。この認識の起源が重要となりますので、そこを探究していきます。魏志倭人伝によると、魏と接触があった日本の国々を治めていたのは、複数の国々の擁立のもとで即位した女王・卑弥呼だったことが語られています。そして、この女王・卑弥呼の統治下にある国々は「倭国(ワコク)」と設定されており、その国々に暮らす人々のことが倭人と設定されています。端的に言えば、古い時代の中国側の王朝にとって、現代の日本を意味する領域が「倭国」、日本人を意味する領域が「倭人」という具合に捉えられていたということですが、ここで中国側の官僚に「倭」という言葉が強く意識されていることに留意してください。
魏志倭人伝によると、魏の使者が日本で聞いたとこでは、この国は元々男王の統治にあったが、70-80年程度前に倭国では騒乱が起きて崩壊し、そこから互いの国々が対立・戦争を繰り返したため、諸国は共に一人の女王を擁立する形で卑弥呼を王にしたことが記しています。ややこしいのですが、確かに国々は基本的に男王の統治が存在していたが、だからと言って女王がいなかったわけではないということです。ただし、使者が聞いた次元での伝承次元では、倭国は基本は男王を軸に活動していたが、使者の記載では別に女王の存在を否定していないため、伝承次元ではそうした弁別がなかった可能性があります。ここの読解はかなり難しいのですが、各地の神話・伝承などを足を使って調査してきた感覚から読解すれば、実は魏の使者が語っている倭国とは、統一国家的な位置にあるのではなく、実は複数の国々による圏域を実態に持っているということです。つまり、倭国は歴史上日本に実在した国名ではなく、卑弥呼が治めていた国々の共同性の呼称だということです。ここに、このセクションの鍵である共同幻想が見えてきますが、これが意味することは重大です。読者の理解が馴染むために例に出しますが、古代日本における倭国は複数の国々の共同性の圏域を呼称したものですから、現在のEUに近い姿と言えます。EUも政治中枢をブリュッセルに置いているように、倭国も特定の国に執政の拠点を設けており、その頂点では王・卑弥呼が存在したということです。ですが、この例からも分かるでしょうが、EUとは言っても複数の国々、そしてルーツの異なる複雑な民族の集合体であり、画一的に断定できるようなことはありません。理念に包摂される形でヨーロッパ人とは言えても、ヨーロッパ人が実際には存在しないことと同義です。同じことが倭国の倭人も言えると言えば、少しは私の意図が分かるかもしれません。
しかし重要なことは、魏の使者は、今のように私が語った意味では捉えていません。彼らは倭国は特定の国だと見ています。この理由は明白です。個人的な理解では、中国側が歴史的に文明発展度が高かったことから、日本と比較すると相当早期から様々な国々との関わり、さらには幾度も王朝ができては潰れるを繰り返していたことに起因しています。中国側は、四方八方に広大に開かれた世界で王朝を維持しなければならないため、必然的に四方の天敵を異族として実定しなければならず、さらには同盟・服属・敵対などの次元で国々を配置設定する方法が高度に確立していました。典型的なのが古代中国における王朝を中心に考えた時の東西南北の異族の存在を表す「四夷」です。この四夷は北が「北狄」、東が「東夷」、南が「南蛮」、西が「西戎」となります。魏の使者が日本に来訪したのは三国志の時代ですから、特に中国側では国への帰属意識や民族意識が強固に高まった時代です。この中国的な大陸概念で育った認識を前提とする考察が、日本側において展開されたことが魏志倭人伝の持つ決定的特質です。ただこの時に私は最初の誤認が生じたと考えており、そこにおいて倭国や倭人を巡る日本側との裂け目が生じたと見ています。魏志倭人伝では、倭人という民族が倭国という国を形成していたと捉えていますが、これは極めて中国的というか大陸的な解釈です。言語間交通の困難だった当時では、魏の使者と日本在地の部族との間で行われた言語的交通には、当然ながらかなりの限界が想定されなければなりません。彼らは共通言語を持ちませんから、通訳がいたところで、当然ながらズレが生じることは避けられません。そして鍵は、この限界が存在する中で、卑弥呼の勢力圏の国々に暮らす人々が、魏の使者たちに対して自分たちのことをある共通用語で呼称していたことにあります。
それがWanです。日本は長らく文字文化を持っていなかったのですが、一方で現在知られるKotodamaに典型的なように、言葉が持つ音への繊細さが極めて高い民族的性格を持っています。しかし一方で、既に文字文化も文献技術も高度に有していた魏の使者は、未知の国々の人々が発するWanの音を幾度も聞いているうちに、Wanの音をそのまま卑弥呼の圏域に生きる人々の民族名・国名として漢字にあてたということです。この時にWanが中国側の表記で「倭(委)」となったのが原型です。前述の通り、中国側の事情で古くから異族において東の異族を指示する東夷という呼称がありますが、この東の異族の呼称を倭人と同定し、それらの異族が暮らす国を倭国として同定したということです。ただ注意が要されるのは、ここでは「東夷=倭人」ではないということです。東夷はかなり広範囲に抽象化されている呼称であり、王朝の所在地によって中国大陸東部から朝鮮半島側の民族なども含まれます。あくまでも当時の魏の王朝から見た位置付けとして、「東夷の中の倭人」という細分化された区分だということです。ゆえに、これが当時の魏にとっての日本像だと暫定的に位置付けることは可能です。
ですが、その実態を解き明かすならば、そこには複雑な問題が潜んでいます。何しろ、この呼称は当時の日本側のある限定的な人々が、自分たちのことをWanと呼ぶ音を取って付与された中国側の官僚的な呼称であり、倭人という固有民族がいたことを意味するものではないからです。いわば、中国側が四夷の事情を理解するための国家的な官僚用語でしかないのですが、これが同時に意味することは、倭国という国があったのではないということです。しかし、ここにもう一つの厄介な事情があります。実は、この倭国に冠されている「倭」の用語自体は魏(220-265)が発明したものではなく、それ以前から中国側で使用されていた可能性が高いからです。それを示すのは文献ではなく物証です。その物証は、日本の国宝に指定されている漢委奴国王印です。これは【漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)】と文字が刻まれているのですが、西暦57年に中国側の後漢の光武帝が「倭」の「奴国」の王に付与した金印です。重要なことは、ここでは前述の問題視している「倭国」という呼称が使用されていないことです。仮に倭国が存在したのであれば、表記は【委国王】となりますが、実際には【委奴国王】となっています。これは「漢(光武帝)」から「委・倭」の「奴国」の王に贈られたものだという意味ですが、要するに倭は複数の国々の共同性における圏域の古い呼称に由来するということです。ある意味では古代中国王朝にとって、最も東に存在を位置付けた異民族の暮らす領域のような認識でしかないということです。その国の一つを構成し、当時の光武帝に近かったのが奴国を治める王だったということですから、この奴国の王は卑弥呼登場以前の日本の「倭」なる共同性の圏域における統治的位置に立っていたということです。実際、この奴国は後の魏志倭人伝側にも登場します。
古代史のややこしさと面白さは、ここからです。中国の後漢(25-220)の光武帝の在位は25-57年であり、三国志の動乱は大体180-280年頃ですから、少なくともこの金印の刻印の方が「倭」の存在を最初期に示している重要な物証だと言えます。しかし、文献的には『三国志』の編纂・成立が大体3世紀後半であることに対して、『後漢書』は5世紀前半の編纂・成立です。この『後漢書』にも「倭伝」があるのですが、先に成立している『三国志』側からの引用も多いと考えられることから、実態が掴めません。つまり、この後漢と魏の歴史編纂・成立のねじれが日本側の古層読解にも強く影響してくるのですが、私には中国側の調査まで賄える力はありませんから、ここでは最低限に留めておきます。後漢書の倭伝は冒頭で「倭」についての概観を示していますが、ここで表記は「倭国」とはなっていません。ただ当時の「倭」に暮らす人々の風俗を書いた後、政治的記述が始まる辺りから「倭国」という用語が資料に用いられています。ここでは「倭」と「倭国」を論じることは実態解明に際しては無意味ですが、少なくとも中国側の歴史書において、日本側で発声された「Wan」の音が、漢字で「倭(委)」と実定されて官僚文書に扱われている点だけは留意してください。中国王朝から見た場合、それは東夷という巨大な領域の中の倭という具合に置かれています。日本側からすれば、この倭が最も大きな共同性であると言えますが、それはあくまでも中国側の王朝の視線を前提に逆輸入した形になっていることにも注意してください。この逆方向の視座から建造されていく倭を冠した倭人や倭国の実像に対して、日本の歴史的な反動が始まり、やがてこの呼称は中国側からの蔑称だと見做されていき、その国名刷新を目指して天皇制システムの樹立が高まる時代が来るからです。こうして国名に打ち立てられるのが現在の「日本」です。
つまり、ここで示した通り、これらは心的な問題とも言えます。
今回はここで止めておきますが、ここで展開している「倭」の問題が、実は後にYamatoの問題を経由してNipponへと結び付く流れの初源にあたります。次回は、今回の内容を前提に魏志倭人伝の卑弥呼が治めていたとされる国の姿を解明していきます。