心中論 1On Shinju, Part 1
武士の身分を自らの意志によって捨て、新たに勃興した町人と生きる覚悟を決めた近松門左衛門。彼は浄瑠璃や歌舞伎という大きな二本の文化軸を動きながら、両者を中世的な停滞から脱した新たなる芸術の境地へと高める原動力となります。私は近松門左衛門の真価は、当時の現実を誰よりも抉りながら、その本質的位置や源泉がどこにあるのかということを己の存在で探求し抜いた稀有な人物だったと見ています。現在も近松門左衛門の名前は人形浄瑠璃などの世界で圧倒的な位置を占めており、没後から300年が経った今も、近松門左衛門の輝きは伝統文化と呼ばれる領域では続いていると言えます。しかし、もはや伝統文化の荒廃は惨状を極めており、当事者たちが伝統文化の伝統的規範に固執するあまり、その文化的本質を忘却するという事態に陥っています。ゆえに、今や近松門左衛門を知る人は少なく、知っていても誰も作品を知らないというレベルにまで文化荒廃は進んでいます。
伝統文化の衰亡は避け難い潮流であるため、私が何かすることはできませんが、少なくとも私には近松門左衛門が為そうとしたことは誰よりも掴めていると自負しています。つまり、伝統文化への作法や習慣や慣習などの規範は何一つ知らないが、近松門左衛門の心は誰よりも掴んでいるということです。文化は形式が後に廃れても、心だけは形を変えて生き続けるものです。これは伝統文化に固執する人々には理解されるものではないのですが、浄瑠璃や歌舞伎に限らず全ての日本文化に通じています。言い換えれば、真に私たちにとって重要なことは、伝統文化の規範を学ぶことにあるのではなく、あの元禄文化(1688-1704)という特異な文化隆盛の持っていた「熱」を掴み取ることなのです。この時代の「熱」を洞察する態度は、私がどの考察でも一貫して有しているものであり、この把捉と表現こそが何よりも重要だと前提しています。元禄文化は、江戸時代が始まって約一世紀程度が経つ最中に起きた潮流ですから、徳川将軍家による江戸幕府の樹立から生まれる新しい混乱や新しい息吹などの複雑なエネルギーが江戸・大阪・京都の都市部を中心に形成されて昇華したものです。その時代渦中の中で、武士階級に出自を持つ一人の人間が、己の意志によってその身分を捨て、熱を持って生きる町人の中に入り込みながら試行錯誤を行い、最後まで生き抜いた近松門左衛門。一体、この心はどのような世界を見ていたのかということが問題になって然るべきです。
その一つのヒントは、近松門左衛門のテーマに設定されている死の問題に潜んでいます。死については、これまで無数の人々が論じてきたものですが、私たちにとって確かなことは一つだけです。それは、人間にとっての死は、自分自身の死でも他者の死でも、残念なことに自分のことのように切実に心に構成することのできない極限の形だということです。ここで私は心を問題に論じているのであって、生理的な死は問題視していません。心が死を構成することのできない不可能さの根源にあるのは、死において、人間の個人幻想や対幻想が極限の形で共同幻想から浸食されるからです。実際、吉本隆明は「人間の自己幻想や対幻想が極限の形で共同幻想に浸食された状態が「死」だと心的規定ができる」と論じています。重要なことは、これは心的な規定なので死の様式、あるいは死の感性というものが場所・地域ごとに異なる文化圏によって変容するということです。故に死の問題一つを21世紀のグローバルな世界から見ても、それぞれの地域や場所によって、あまりにもその死への差異が際立っているように見受けられることは当然です。この差異の原因は、死への幻想というか心的な規定は、長期的な歳月をかけて培われることで形成されるものですが、その伝播の古層には人間の移動がベースにあるからです。古代より連なる人間の移動が、文化的空間を組成する動力です。
そして古代人にとっての生理的な死を現代人が論じることの限界は、その死は生理的なものへと分離した位置で捉えられるものではなく、幻想の様態と未分化の状態を有しているからです。ゆえに彼らにとっての死は、私たちが考える死とは異なります。共同体としての共同性である共同幻想が、個人の自己幻想、あるいは自己幻想と自己幻想が結びついて形成される対幻想の世界を、完全に浸食すると共時的に生理的な死が起きるからです。幻想において分離しておらず、未分化な様態を有しているため、幻想的死であっても生理的死であっても、どちらの様態が起きてもどちらも同じ帰結に至るということです。こうした死の原理自体は人類の歴史においてどこも普遍的に有していたものです。しかし、文明が発展してくる過程でこの構造に変化が起きます。それは、個人の自己幻想、そして対の関係の対幻想という位相に対して、共同幻想が分離的な位置に独立して発生し始めることです。これは幻想の混沌とした様態から切り離すことによって、共同体の存続や発展などの利害が担保されるからです。ある意味、肥大化する共同体の利害を実現し続けるためには必要不可欠な段階だと言えますが、ここで厄介な問題が同時に起きています。
そもそも、自己幻想、対幻想、共同幻想の位相は各々違います。ですが、未分化な時期が人類史においてはほぼ大半であり、各々の幻想様態が完全に分離していない長期的な歳月を経ていました。しかし、近代社会を迎えて以降、ここでは完全な分離が起きてしまうことは避けられません。ゆえに、近代化に成功した国々に暮らす人々にとっての死は、かつての意味から異なる位置に転移せざるを得なくなります。この時、例外なく近代化を経験した人間にとっての死は、自己幻想あるいは対幻想自体の消滅だけを意味することになっていくのです。つまり、人類史を通じて経験してきた共同幻想からの侵食をなしに、自己幻想あるいは対幻想自体の独自消滅が死を表すものとなります。ここに近代世界が「未開」を軸に設定し得た根拠があることを見逃してはなりません。現代的な意味での差別をこの種の問題に持ち込むと、必ず理解を誤るからです。
近代以前の状態に暮らす人々にとっては、この共同幻想の浸食が極めて重大な問題であり、それはすなわち死への問題と直結しています。ゆえに、ここにおいては既に体系化されている宗教的な信仰や論理などが成立し得る土壌があるということです。しかし、近代社会の実現という一つの結節点を挟んだ時、従来の宗教が持つ作用や働きは、近代以前のものであっては通用しなくなります。この時、宗教は全く異なる位置で新たに展開されなければならない不具合を抱えますが、それまでの主要宗教はこの近代という閾に即した展開に着いていけなくなり、近代以前まで持っていたあの宗教的な強さを急速に失います。これは、信頼を失っていくということです。近代化にいち早く成功した西洋諸国で起きた無神論はその象徴に思えますし、各種イデオロギーの乱立も近代以前の宗教が失った信頼を急速に獲得して台頭したものと言えます。近代を経由すると、キリスト教であれ何であれ、それまでは深い信仰を持って生きていた人々が、宗教的な信仰における実際行為に対して信頼が置けなくなる現象が生じ、徐々にその信仰自体から引き裂かれて分離が露わになる過程に直面します。この分離が露わになった瞬間、社会的な共同幻想の浸食が自己幻想や対幻想をゼロにしていくということへの死、そして消滅することの不安は心的な強度を失うということです。なぜならば、共同幻想と自己幻想/対幻想は分離しており、直接的な関係作用が失われるからです。
この瞬間、完全に分離された位置で共同幻想は生育していきますが、重要なことは既に人間の個人的な意志が作用せず、働き得ない様態に変化しているということです。そして共同幻想と個人幻想/対幻想が非接触になった時、この未分化状態を維持する作用・働きを持っていた宗教的権威は弱体化します。この近代化で起きるもう一つの特徴は、共同幻想が自己幻想/対幻想と完全に切り離されたところで独自に発展していく段階に入ると、社会で生活を営む個人や対関係は、どんどんその内部に引きこもる現象を鋭化させていきます。これが近代的文脈での個人主義の発露です。共同幻想と自己幻想/対幻想を分離する近代化が起きると、共同幻想を社会や国家などとして組成する新たな力を獲得し得ます。新たな技術を獲得したとも言えますが、その代償による必然的な反作用は個人と対関係に生じます。ここでは、従来の「共同体/対関係/個人」から完全に分離された「個人としての個人」「対関係としての個人」という状態に内向きに向かっていきますので、ここにおいて「個人」が共同体である社会にどう関与するか」という分離を前提とした問題構造に転化されます。ただし、これが罠だということです。
吉本は至言として「共同幻想と自己幻想は逆立する」と指摘しています。要するに、共同幻想が持つ共同体の利害は、必ず個人の利害と逆立して一致しないということです。この主張は近代にとってある不都合な問題の確信を抉っています。ここが今日まで見抜かれていないからこそ、近代は永続的に延命し続けることができています。それは、個人の利害が個人内部で意識的に自覚されて近代自我を発現させたとしても、共同体それ自体を変革することは不可能だという冷徹な事実です。個人が国家や社会を変革する力と位置付けることは今も日常的に起きていますが、実はこれは誤謬であり、幻想自体の構造が不可視になったままです。この状態では如何なる実践行動を起こしても、必ず帰結は国家や社会の変革は暴力的な革命以外にあり得ないことになります。なぜならば、これを非暴力による革命行動として理念化しても、幻想次元において共同幻想と自己幻想は逆立するため、実現されることはないからです。しかし、最も簡易な方法として、この幻想を非科学的として無視してしまえば、如何にもこの変革が可能だと錯合してしまえるのです。この錯合は共同体の幻想を無視するのですが、すると共同体は法・制度などの実体的建造物と倒錯されて、改修・補強・解体が可能だと捉えられてしまいます。同時に個人の自己幻想も無視されるため、個人が被る社会的利害が共同体の利害を変革することの可能性という観点で誰もが偽装することができます。ですが、これは疲労困憊で山中を歩き回った時に誰もが経験する幻視と同様、所詮は幻視でしかない。なぜならば、近代社会を変革しようとしても、そもそも共同幻想と自己幻想の位相が全く違うところで展開されているため、これらは作用として共時的に反映する近代以前と同質の働きを生むことはないからです。
つまり、近代の個人がこの共同体と幻想次元で分離していることへの感覚を曖昧なままに放棄し、あるいは抽象的なまま変革を焦って中途半端に行動すると、必ず効果は反転するということです。自分の直接的な実践行為が社会や国家を変革すると考えたいのは近代人の常でしょうが、実はこれは個人の自己幻想によって共同幻想を変革することはできないという近代の初めに定められた限界に即座に行き当たることになります。ゆえに、ここで私たちは葛藤を抱えるのです。私はこの内的な葛藤にこそ可能性があると見ています。理由は以下に記していきます。
この限界が近代であると捉えた時、一体私たちが悟ることは何か。それは共同幻想が宗教的な仮象として現れるとしても、あるいは制度やイデオロギー的な仮象で現れるとしても、人間存在という最もラディカルな本質的課題に焦点を当てるならば、これらの共同幻想は全て消滅しなければならないという課題が残ることです。いわば真の変革を個人が求めるのであれば、そもそもこの共同幻想自体を消滅しなければならないという最も厄介な問題が、近代化を遂げた国に暮らす全員に問題となるということです。そして最大の問題は、近代においてこれは絶対に乗り越えられないということです。同時に注意が要されるのは、ここで「人間」や「人類」や「世界」のような抽象化された存在の設定を前提に変革を実践行動で直接展開しようとすると、即座に真に変革を望む個人存在を抽象化して、運動エネルギーを散逸させる作用を共同幻想は働かせます。よく大規模な社会運動が展開されても、時間耐久性を持たずにエネルギーが散逸してしまって運動の母体自体が離散する光景を見かけますが、これは「共同幻想と自己幻想は逆立する」という幻想の共同体と個人の関係において、真に変革を志す少数の人々の意志は必ず近代の罠によって抽象化されるからです。つまり、近代において展開されるこの種の社会運動は、長期間に及べば及ぶほど、変革の傾向は暴力革命以外にないという結論に向かいます。これは非暴力革命が理想でしかないと言っているのではなく、実体ではない幻想の様態自体において絡みとられる作用が既に準備されているからです。
特に共同幻想の仮象自体を論点にあげて議論や実践行動を始めてしまった時、既にそれは幻想であることが見抜かれておらず、実体的に理解される誤認から生み出された虚像でしかなくなります。虚像に対して如何なる変革行動を起こしても、それは初めから虚像でしかないため、実際的な成果を獲得することはありません。個人存在が真に生きることを心から願うのであれば、共同幻想の変革における最もラディカルな方法は、常に共同幻想の消滅以外にはないからです。ですが、国家や社会などを敵対的に仮象して展開される運動のほぼ全ては、大前提に変革は掲げても、必ず既成国家や社会などの共同体自体を完全消滅させることまでは考えていません。共同幻想を消滅させない限り、個人の利害が通じる世界は開かれてこないのに、近代以降の産物でしかない国家や社会などの共同体を普遍化しているため、これらを消滅させるまでのラディカルさには至らない甘さが残るからです。ゆえに近代は滅びず、延命どころか不老不死に至るところまで来ています。この場合、共同幻想の完全消滅に近づけるのは、おそらく最もラディカルな形でのアナキズム以外にはあり得ないことになりますが、それを集団規模で実行することは不可能ですので、実は既に私たち人類は解決方法を持っていないことが分かります。
なぜならば、近代というフレームワーク自体が分離した共同幻想における独立的な変容を性格自体を有しているため、分離が解消されない限りは近代が終わる日は来ないからです。そして現在では、もはやこの分離による共同幻想は私たち個人から見れば、遠い彼方まで行ってしまい、共同幻想自体に触れることが私たちにはできなくなるほどの事態に追い込まれています。私たちが呼吸をする空気自体が既に共同幻想の包摂的な界域になっているような錯誤を起こさせるほど全てに染み付いており、もはや私たちは個人主義的な意味での個人では、どうやっても社会や国家を改革するということができないという限界に直面し、最も絶望的に直面している世代を迎えています。
だとすれば、私たちはこの状況に絶望したまま、為す術なく全てを終えるしかないのか。或いは、終末論的な何かを待ち続けることしかできないのか。私はそれは違うと断言します。実は「共同幻想と自己幻想は逆立する」が、共同幻想に対峙する幻想の様態があるのです。そしてこの方法は、共同幻想を完全消滅させる必要さえなく、共同幻想自体を変革する必要さえなく、人間が真に生きる存在としての界域を能働的に創出することができる唯一のものです。後編では、この共同幻想に対峙する未来を示唆しながら、その切迫を最も見事に表現した近松門左衛門を見ていきます。