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道元論9On Dogen, Part 9

重病などを経て、死期が近いことを悟った平清盛(1118-1181)は、1179年11月に平安京最後の天敵である院政の独裁者・後白河法皇(1127-1192)と直接対決。あっという間に平安京は平氏によって占拠され、院政内部の反平氏派の貴族は次々と追放・解任されて一網打尽となり、指導者・後白河法皇は捕えられて京都市南部の鳥羽殿に幽閉、平氏の管理下に置かれて身動きが取れなくなります。こうして院政という皇族の裏の独裁システムは、平清盛によって停止が宣言され、一世紀以上続いた上皇(院)と天皇の覇権争いは一時的に終結します。

しかしこの時、平清盛には心痛の種がありました。それが動乱が起きる直前の8月に、嫡男で既に家督を譲って平清盛の後継者として適任の素質を持っていた平重盛(1138-1179)が、病によって死去してしまったことです。一代で黄金時代を築いた平清盛ですから、当然、どのような人物に素質や未来があるかを瞬時に見抜くことができます。その彼にとってみれば、平氏繁栄における次のリーダーには平重盛以外になかったわけですが、それ以外の子供は後継者としては頼りなく、自らが亡き後の激動の時代の舵取りを取るに相応しいとは思えなかったのです。

ここで平清盛は、自ら最後の大仕事と位置付けて思い切った宣言を行います。それが院政を停止して平安京の権力システムを完全に抑止した1180年6月、現在の兵庫県神戸市付近にあった福原に遷都を行うというものでした。平清盛からすれば、親院政派とも言え、平氏と後白河法皇とのバランスを取ることに長けた平重盛が生きていれば、平安京で統治を行う可能性も考えたでしょうが、既にその可能性が潰えた以上、平氏に好意的な人々がマジョリティを占める福原に遷都してしまった方が、後継者となった平重盛の弟・平宗盛(1147-1185)の統治基盤形成の観点で利点があると考えます。

ですが、これは歴史を鑑みると大失敗となり、平清盛の時代を見抜く鋭い目が、遂に綻び始めた象徴的出来事だったと言えます。実際、福原遷都の宣言によって平安京市民は大混乱に陥り、一気に平安京市内が空き家だらけになったと伝えられています。同時に、貴族や皇族や比叡山ら旧勢力は、平安京を放棄されてしまうと自らの覇権は文字通り全て灰になるため、最後の激しい抵抗を行います。また福原は、元々遷都を目的に開拓されていたわけではなかったため、交通整備などを含めてとても大都市になる準備はできていませんでした。結果、福原遷都は半年で失敗し、1180年11月には再び平安京へ帰ることになります。これは事実上、旧勢力に時勢が優位に動いた転換点です。何しろ平氏内部での内部分裂を含めて、平氏の求心力低下の要因となったからです。これまで完璧に四方八方を固め、見事な戦略によって時代の覇権を次々と築いてきた平清盛にとって、最後の賭けとも言える大事業に失敗したことは致命傷となります。

こうして平氏繁栄を思うがあまり、私欲の介入によって未来の方向を見誤った平清盛の覇権が微動した時、その千載一遇のチャンスを次の覇権者たちが逃すはずがありません。何しろ、平清盛の覇権を獲得することは、事実上日本の君主になることとイコールだったからです。そこで平清盛は不穏な動きが起きていることを察知して、即座に皇族による執政という表看板を立て直すべく、1180年3月に自らの娘を嫁がせて生まれた皇族を第81代・安徳天皇(在位: 1180-1185)として即位させます。この時、安徳天皇の即位に一人の皇族が恨みを持っていたのですが、この出来事を契機に大規模な戦乱へと傾れ込み、平氏滅亡に帰結するため、この決断が平清盛にとっては自らの首を締めることになったということです。

この措置は、平清盛から見ると、自らが停止した院政システムにおける最高権力者・上皇を抑止するものであり、彼の生涯で最も煩わしい問題の一つだった皇族内の覇権争いを強制的に終わらせる目的がありました。今でこそ皇族は穏やかで平和に思えるでしょうが、歴史的にはとにかく皇位継承を巡る覇権争いでいつも分裂して内戦の原因になってきました。それに平清盛にとっては、天皇を自らの血筋から輩出することで、平氏の覇権を正統化する重要な根拠になります。天皇の血筋はいつの時代も、時代の為政者の正統化のための根拠となってきたからです。

つまり、ここで平氏の血筋が天皇ー武家において結託し、新たな時代を築く準備に入ったということですが、逆に言えば、平清盛はこの時期、自らの遷都などの宣言で混乱してしまった平安京をあまりにも凝視し過ぎたと言えます。その結果、彼の視界に入っておらず、平氏の統率力が手薄な地域から平氏滅亡の狼煙があがったのです。それが、平氏に唯一対抗し得る存在として歴史的に台頭していた武家の源氏です。

ただし、各地で平氏に対する反乱が起きたのは、安徳天皇即位の翌月1180年4月に、この安徳天皇即位を快く思わない以仁王(1151-1180)という皇族に出自を持つ人物の存在があったからです。以仁王は後白河法皇の子で、母を貴族に持つ皇族の血筋ですが、皇位継承権が武家の平氏側の血筋を引く人物に移ったことに対して強烈な不満を抱えていました。さらに平氏はクーデターで自らの父である後白河法皇を幽閉している上、このクーデター時には以仁王の領地も没収されています。このように、以仁王は平氏に対する反感が強かったのですが、だからと言って何者かが接近しない限り、彼に反乱を起こす力はありません。ここで接近した人物こそが、源氏に出自を持つ源頼政(1106-1180)です。

ただし、源氏と言っても勢力構成はややこしく、次回に詳述する予定ですが、端的に言えば、この源頼政は摂津源氏と呼ばれる関西の一部に地盤を持つ武家の出自です。この源頼政は、既に連載で書いた1156年と1160年の大乱で勝者側についた源氏の一人でしたから、ゆえに平氏政権が確立する過程で源氏の長老として政治的実権を任されており、平清盛からの信頼も厚かった人物です。実際、彼は平清盛のもとで公卿となっているわけですから、ある意味では平清盛の側近の一人だったと言えます。この側近の一人が、平清盛率いる平氏の実権が絶大になる姿に不満を抱え、同じ不満を抱える以仁王と密かに接近し、平氏に対する軍事クーデターの策謀を練ったのです。

しかし、平清盛の張り巡らせている情報網を侮ってしまい、このクーデター計画は呆気なく平氏側に洩れます。そのため、1180年5月に以仁王は平氏に対する反乱を企てた罪で皇族から排除され、平安京から遠く離れた土佐国(現・高知県)に配流が決定します。ただこの時、以仁王は罪に問われたのですが、なぜか謀反の共謀者であった源頼政の存在はバレませんでした。これが平氏にとって致命傷となります。さらに以仁王の配流決定は表向きで、密かに当日夜間に暗殺命令が下されていました。ですが、源頼政が共謀者だとバレていなかったこと、さらに以仁王の館に対する襲撃命令を受けていた人物が源頼政の子であったため、この暗殺計画は即座に以仁王側に伝わり、間一髪のところで逃れています。

こうして以仁王が逃れた先が平安京から東へ向かった滋賀県大津市の園城寺です。この園城寺は連載で触れたように、元々は天台宗の内部における派閥闘争で分裂し、延暦寺擁する比叡山とは敵対関係にあった寺院です。しかし、以仁王の園城寺潜伏も翌日には判明しており、即座に平氏は園城寺襲撃を目的とする軍勢を組織します。この時、平氏側はこの反乱計画が源頼政の謀反であることに気付いていなかったため、この軍勢を率いるリーダーに源頼政を任命しています。

仮に謀反であることが判明していれば、即日処刑だったでしょうが、難を逃れた源頼政は窮地を脱して園城寺で以仁王と合流し、どうにかして平氏への反乱を組織しようと画策します。しかし、園城寺側の勢力だけでは兵力は足りず、到底平氏に対峙することはできません。ここで彼らが目をつけたのが、長年平氏と対立してきた比叡山でした。

しかし、比叡山は園城寺と歴史的に対立している寺院であり、また長年の経験から平清盛と対立することは比叡山にとって破滅をもたらすことを熟知していました。さらに両者が比叡山に救援を要請するも、その動き自体が平氏側に筒抜けになっていたため、平清盛は即座に比叡山に使者を遣わせ、大量の賄賂を送り、宿敵の園城寺を攻撃するなら、平氏は全面協力するという甘言を投げかけます。この結果、比叡山はこの件に関しては中立を宣言し、源頼政と以仁王からの要請を公式に却下します。また園城寺の僧侶は、比叡山の暴走を抑止した実績を持つ平清盛に対して好意的な人々も多かったため、もはや平安京近郊では状況を変えられないと判断した源頼政と以仁王は、ここである勢力に協力を求めます。これが、とんでもない事態を引き起こす原因となったのです。

平安京に見捨てられ、園城寺や比叡山にも見捨てられた謀反の首謀者である源頼政と以仁王が逃れるように向かった先。それが平安京遷都以前、日本仏教確立の本拠地として大繁栄を遂げた旧・平城京(現在の奈良)を掌握していた寺院勢力でした。この奈良側の寺院勢力は、平安京システムとは距離を取っており、まだ古い貴族勢力がそれなりに力を持っていました。つまり、時代遅れの旧世代の人々の温床だったのですが、ゆえに未だに平安京で起きていることを遠い他国の話として考えており、武士は貴族の番犬だという古い認識に固執していました。結果的に見れば、奈良側の最大勢力であり、大規模な僧兵を抱えていた興福寺は、平安京の貴族システムを形成した藤原氏の氏寺であったことから、反平氏(というか反武家)の態度を持っていたため、源頼政と以仁王による平氏への反乱計画に即座に呼応し、救援を引き受けます。

しかし、両者が平氏の包囲網を掻い潜って奈良に逃れようとする道中、現在の宇治市・平等院付近で平氏の軍勢に追いつかれてしまい、奈良から僧兵が救援にくる前に源頼政と以仁王は討死してしまいます。ですが、事態はこれで終わりません。平氏に対する謀反の指導者が以仁王ではなく、側近の源頼政であったことに激昂した平清盛は、裏切り者の反乱勢力を救援しようと動いた奈良の寺院勢力に対して怒りの矛先を向けます。ですが、東大寺や興福寺という奈良最大の寺院勢力からすれば、再び京都から奈良へ覇権を戻す千載一遇の機会であり、もはや今更引き下がることはできない。ここで奈良の寺院勢力が抱える無数の僧兵は、反平氏の姿勢を示すべく、平氏側が交渉のために送ってきた使者を捕えて顔に刺青を入れて、首を跳ねるという暴虐による挑発を行います。

この寺院勢力の挑発に対して平清盛は激昂します。つまり、当初は以仁王の配流で終わっていた事件が、源頼政の策謀が判明しなかったことから、転々として大規模な平安京(京都)ー旧・平城京(奈良)の大規模戦争に向かったのです。こうして平清盛は、五男・平重衡(1158-1185)に4万もの平氏の軍勢を率いて奈良へ進軍し、東大寺・興福寺の勢力を一網打尽にすることを勅令。1180年12月に実行されたこの進軍によって、現在も観光地として著名な東大寺の大仏や興福寺は全焼するという大事態に発展し、平氏による報復は、巨大な寺院勢力を一掃する力があることを知らしめます。

当時、奈良を南都(平安京から見て南の都市)と呼んでいたことから、この事件は南都焼討と呼ばれます。そして南都焼討は、本来の戦況とは無関係だった平安京外の人々からすれば、平氏が大仏を焼く悪魔だというネガティブキャンペーンとなってしまい、平氏の評判が各地で下落する動因となります。実際、こうした平氏の支持に関わる死活問題になることから、平清盛は如何に対立しても比叡山との全面衝突を避けてきたわけですが、ここで南都焼討で東大寺・興福寺などの巨大勢力へ甚大な打撃をもたらしてしまったことで、膨大な数の信徒の反感を招きます。実際、この焼討事件は本来、奈良の仏教勢力に対する脅しという意味合いが強く、放火自体を目的に平清盛が軍勢を派遣したと言われており、その日が強風だったことから、火が一気に燃え広がってしまい、多くの僧侶が焼死し、東大寺の大仏が焼失してしまったとも考えられています。

そしてこの動乱が関西で激化する最中、実は源頼政と以仁王が死去する前に各地の源氏勢力に伝達していた反乱命令自体は生きていたため、複雑な要因が絡み合いながら、反平氏として時代はクライマックスを迎えます。

ここで、平氏に反旗を翻して立ち上がる勢力が登場します。重要なことは、この時に平清盛は平安京から見て西日本側はほぼ掌握していましたが、東日本側はかなり手薄で、平氏の影響力はさほど強くなかったことです。特に最大の震源地となる東日本の静岡県の伊豆は、激動の平安時代の中で平安京から配流される東の主要拠点であったため、平氏に反感を持つ一族の末裔などが多かったことも関わります。

そして実際、この伊豆配流の歴史を持つ人物の中から、やがて平氏を滅ぼす人物が登場します。その人物の名は、源頼朝(1147-1199)。当時は、父や兄が殺されて20年間も伊豆に配流され、平安京の事情に疎く、武力もなければ財力も持たなかった無名の人物です。

一体、なぜ源頼朝はこのような境遇に陥っていたのか。そしてこうした不遇から、どのようにして時代の覇者へ一気に上り詰めたのか。源頼朝が目覚めた瞬間、時代の主人公は平清盛から転移したのです。