独尊者Dokusonsha: The One Who Reveres Solitude
物事がうまくいかないとき、どうしても心はブレてしまうもの。心身の状態が良好なときには情熱に燃え、大志に向かって邁進している人も、一度このような状況に陥ると反転してしまい、世界が非常に小さくなり、すべてから取り残されているように感じてしまいます。そのような状態で、何かを決断すること自体が、さらに大きな誤りを次々と踏む小さな要因となり、やがて収拾がつかなくなって、一人では処理できない大問題に至る。こうして多くの人々は、人生の重要な資産である時間を減少していくわけです。個人的には、まだ30代中盤に差し掛かったところですが、この時間という唯一人類に平等な資産に、年々強く意識が向いていると感じます。
人生を修業という観点で見ると、修業は一生終わることはないという古くからの格言は、全くその通りだと改めて感じます。むしろ、このような窮地、あるいは自分にとって最悪な状況に直面したときに、それでもいかに生きるかという態度の取り方こそが、そこからの未来を決する重要な分岐点となるように感じていますが、その不遇こそが大きなチャンスを呼び込む転換点になるわけです。
しかし、実際にそのような状況に陥ったとき、これらが重要だと分かっていても、人間は怠惰であるため簡単には行動に移せません。こうして停滞する時間が続けば続くほど、どんどん事態は悪化していくことは避けられません。なぜならば、生物において停滞は後退の意味だからです。
そうした中で一番問題になるのは、本来楽しんでやっていたことが、楽しくなくなってしまうことです。しかも、最も厄介なのは自分自身でそうなっていると気づかない状態に追い込まれているため、元々誰よりも楽しんでやっていたことが、徐々に形骸化していってしまい、勢いがなくなってしまうことに気付きません。人生において誰もが直面するこうした問題を、まさにその渦中から考え続けていると、一つ重要な言葉を思い出しました。それが日本の「独尊者」という言葉です。
まず、「独」という文字はdoku, hitoriなどと訓みますが、日本でもこれまで様々な形で使われてきましたものです。単純に見れば、「独尊者(どくそんしゃ)」とは、「孤独を尊ぶ者」と一般的に理解されていますが、このニュアンスはかなり掴み難い。実際、古今東西、孤独を尊ぶことの提唱は様々な先人によって為されてきましたが、果たしてこの真の意味を私たちが理解しているかと言えば疑わしい。何よりも個人的に頭を悩ませたのは、人間は誰もが真の独尊者でありながら、なぜ私たちは独尊者ではないのかという問い。さらに、人間誰もが独尊者を本質とするならば、なにゆえに世界はここまで壊れているのかという問いです。
これまで曖昧にしか考えきれていなかったのですが、ふと昨晩に停滞していた境地を突破できるように感じました。そのためにも、この独尊者という存在になるということ自体が、大きなテーマなのだと改めて感じます。この場合、不遇の極地に陥っている人々の方が有利でしょう。なぜなら、自らの人生で調子のいい時に必要だと信じているものの大半が、実はそれほど必要ではないということが分かるものは窮地に陥った時ですし、それを通じて、改めて自分は何のために生まれてきたのか、どこへ向かうことでこの状況を突破できるのかを、非常に深く考える機会を授かるからです。
この「独」という文字は「絶対」を意味します。その意味は神のような外部存在を語っているのではなく、極限すれば「自らに充足して、何ら他を所有しないこと」を言います。簡単に言えば、自分が徹底して自分に寄って生きるということですが、それはいかなる状況にあっても他人に寄らず、自分自身が徹底して自分に寄って生きることを貫き、生き続けるということ。これこそが、日本の真の「独」の意味です。
ここで、誰もがそれぞれの生まれ育った国の文脈から想起するように、おそらく私たち人類は、ある時代まで誰もがこの「独」を本質的に領有して生きていました。ただ、どこかの時代に、何かを契機として、この「独」という感覚自体が私たちの中から消えてしまったということです。現代はその極地であり、常時人々は他なるものと接続を要求される時代ですから、今こそこの独尊者の意味の再考を、それぞれの人々の文脈に準じて行うことは急務に思えます。
ですが、人間は言葉で語れるほど単純ではない。孤独を貫くことは非常に難しく、大抵の場合、自分自身に寄ることなく、他者・社会・政府・システム・世界などを含めた他なるものに寄って生きています。いや、むしろそれが生きる糧になっている人たちがほとんどでしょう。事実、人々はお金を頼りにして生きており、家族を頼りにして生きており、地位を頼りにして生きており、世間や社会を考えて生きています。それを肯定する形で人間は集団を維持することによって生存するという論調もあるわけですが、そこには抜け落ちている独尊者の問題があるのではないか?
逆に言えば、この独尊者の問題は、現代において考えたくない問題の一つなのかもしれません。まだ理由はクリアではありませんが、おそらく独尊者の真の意味を誰もが通底して実行しようとすると、多くの利権が瓦解を始めるからです。前述の通り、独尊者の「独」は「自らに充足して、何ら他を所有しないこと」ですから、必然的にシステムへの自己家畜化を拒絶し、自らの大志によって生き抜くことを決意します。アナキストの本質はここにあるだろうと不明瞭ながら考えていますが、アナキズムが政治など他なるものを問題にした時、その本義が転移してしまうということです。勿論、人間は生きる以上、他なるものを全無視することはできません。しかし、今から100年程度前に日本で台頭したアナキズムの潮流を鑑みると、真のアナキストは、そうした他なるものへの問題転換に対する拒絶的態度を持っていたことに気付きます。
事実、自分自身に寄るのではなく、他なるものに寄って生きてしまうと、大きな経済ショックなどが起きた時、地位を失ったりクビになったりというだけで、そうした人々は押しつぶされて一瞬で再起不能となり、神経衰弱に陥ります。同様に、銀行に預けた金が取れなくなった瞬間に発狂するという人も多く、家族と別れて神経衰弱になっていることもあれば、世間の評判を苦にしている人々もいます。私はよく同世代と少し若年世代の日本人と話す時、一見すると勢いのある人間に見えても、本質は大きな世界的ショックが起きた時に顕れるから、日々その言動を注視した方が良いと語っていますが、その理由は日本にも影響した大きな経済ショックで言えば、1990年代のバブル経済崩壊、さらに2008年のリーマンショックは、事実上、私たちの世代が社会へ進出する以前に起きたことであったため、実際の経済危機を未だ経験したことがないからです。
ですが年長者であれば、これまで生きている間に一度か二度はこうした経済危機を経験しており、その時を想起すれば、この意味は自ずから明らかでしょう。要するに、経済危機などが起きていない時に起業して儲かったり、ビジネスが順調に思えるのは、実態が伴っていない可能性が極めて高いということです。とにかく人間という存在は、窮地に陥った時に初めて周りがよく見えてくる奇妙な性格を持っていますが、そうして初めて世界を見渡すと、意外にも大半の人々は自分自身に寄って生きておらず、他なるものに寄って生きているということが見えてきます。これこそが、窮地に陥った時の最大の収穫かもしれません。これを相対的生活と呼ぶならば、この世界に生きる人々の大半は、こうした色々なものを頼りにして、かろうじて自分というものを維持しているに過ぎない姿が見えてきます。
つまり、それは本当にあなたなのか?
あなた自身だと思わされている何かではないのか?
故に、人間にとって真に重要なことは、その人間から地位を奪い、名誉を奪い、金を奪い、家族を奪い、子を奪い、一切を奪っても、なお毅然として立っていることに尽きます。その人間が自分そのものに寄って毅然として立ち、何ら他を所有することなく、寄ることも頼ることもなき生活をしている境地、これこそが「独」の真の意味なのだろうと感じます。だからこそ絶対という意味なのです。
ここから見ていけば、「独尊」という言葉の本義が見えてきます。実はこの「独尊」は、現代ではかなり誤った理解がされており、むしろ自分自身のプライドによって、その他の人々を見下して全員がダメで自分自身が偉いというニュアンスで用いられています。しかし、断じてそうではない。なぜならば、そうした定義は、そもそも社会の評価や地位などを前提とする視点でしかないからです。この「独尊」の真の本義は、自分自身の絶対(独)を尊ぶということです。何ら他を所有せず、金にも地位にも名分にも一切そういうことを頼りとせずに、自分が自分を相手に生きる覚悟を持って人生を進むことが「独尊」です。
釈迦が誕生時に発したとされる言葉に「天上天下唯我独尊」があります。ここに既に「独尊」が語られていますが、その釈迦の尊いメッセージは簡潔だからこそ、深淵だと言えます。
そして、ここで重要となるのは「頼る」ということです。戦国時代に最強の剣豪と知られた侍で哲学者の宮本武蔵は、「神仏を尊びて神仏を頼らず」という有名な言葉を残しています。この覚悟こそ、まさに宮本武蔵が「独尊者」であった何よりの証拠です。最高存在に思われている神や仏にさえ頼らない。だが、それは神や仏を信じないという現代的な誤った態度とは全く異なる。むしろ宮本武蔵の要点は、神や仏という絶対存在を他なるものへ分離してはならないという戒めです。当時も今も、人々はどうしても神や仏を自分自身の存在から分離して、崇め奉る絶対者と位置付ける傾向がありますが、それは人間と神や仏を分離することであり、本質的にそれらが非分離であるという感覚が消去されてしまいます。
ゆえに、宮本武蔵のような覚悟が、人生においてあるかないかということは一つの分岐点となるのでしょうが、同時にそれを頭で理解するだけではなく、常に実行していく気概が何よりも重要です。実際、私も今ここで惑いが生まれて停滞してしまったように感じているのですが、本来、全ての人間は「独尊者」であるという真髄を掴み取れば、あらゆる窮地は窮地ではなくなります。
「独尊者」は生まれてくるのではなく、常に既に私たち一人ひとりの中に在るということ。この真理を歴史的な宗教の開祖は困難な生涯から熟知し、それを周囲の人々に感化することで気付かせたということです。その時、全ての宗教に差別はなかったはずです。誰もが「独尊者」でありながら、人々がそのことに気付かず、苦しんでいる姿を見て、周囲の人だけでも何とかしたいという強い志から始まったのが宗教でしょう。そこには概念化される以前の原初の愛があったはずです。
いわば、この気付きによって孤独を尊ぶ者が増えることによって、真の意味で互いに尊敬し合える世界が実現されるということです。なぜならば、その「独」には権威がなく、社会的な装飾がないからです。故に、自分を金に隷属しており、地位に隷属しており、名誉に隷属している間は「独尊」ではない。この「独尊」ではない間は、残念ながら人間には、互いを尊ぶという真理は絶対に実現されません。そう考えると、現代世界で氾濫している綺麗事には、何の意味もないことが見えてきます。なぜならば、理想を語ることは結構だが、結局人類の数が増えるに従って世界が混乱していることからも自明な通り、人類の数が増えることと「独尊者」が増えることは全く相関関係がないからです。「独尊者」は、常に既に私たち一人ひとりの中に在るがゆえに、この人生で自ら気付き、実行する以外に実現の道はない。それを本来、悟りというのであって、修行の本義もここにあったはずです。ゆえに、山に隠れ籠ることが全てなのではなく、この「独尊者」として生きる修行は、いつ、どこでもできることです。時代がどうか、社会がどうか、政府がどうかは所詮他なるものの事情。そのようなものに翻弄されない「独尊者」こそが、真の普遍を実現する原動力となる。だとすれば、現代世界にこの「独尊者」はどれだけ居るだろうか?
今後、私たちは未曾有の世界危機に直面することが各方面から警鐘されていますが、その時、「独尊者」として生きることの覚悟を持って、日々を修行してきた者と、そうではなく、他なるものに寄って生きてきた者は無惨なまでに切断されるでしょう。そして「独尊者」への道は、まさに今、この瞬間に気付くことにある。私たち人間が真の意味で平等だと言えるのは、この一点に関してです。ゆえに、肌の色や宗教や出生地やアイデンティティや収入の大小やイデオロギーといった社会的な定義だけでは、平等の根には届きません。この戦後の国際理念の限界を見つめ、私たちは次の理念を現状から考える前に、まずは各々が「独尊者」として生きる以外に真理はないことを知ることから始めるべきです。
そういう意味で、互いが互いに「独尊」を尊ぶということを、まず自らが為すこと。そして、それを同じように為している人々との間に作っていくことによって、初めて世界は真の意味での安寧や平和という状態に至る。こう考えると、今の自分自身もそうですが、明らかに世界はおかしいことが見えてくるはずです。