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道元論8On Dogen, Part 8

1171年6月1日の夜半、平清盛(1118-1181)率いる平氏数千の軍勢は、平安京の独裁者となった後白河法皇(1127-1192)とその周囲を固める院政の権力者の命令に従い、裏首都のシステムの守護者であった比叡山を焼き討ちするという、歴史上最大の軍事衝突を実行する緊張感に包まれていました。しかし、この時に平清盛の邸宅に密かに来訪し、院政の為政者に関わる重大な密告が行われたことによって、平清盛は作戦行動を一転し、軍勢を比叡山ではなく平安京を占拠させ、そこで平氏と比叡山を一網打尽にしようとする院政の陰謀に関わった貴族を捉えて即時斬首。院政権力を木っ端微塵に打ち砕きます。

つまり、激動の1170年代前後の時代を見極めるうえで重要なのは、何が起きたかという歴史事実の有無ではなく、覇権の帰属先が次々と動いている姿です。この視点から見ると、平清盛という武家の筆頭格であった一人の存在が、この非常に困難な時代を晩年まで乗り切る希有な才覚を持ってのし上がったことが見えてきます。たった一人の存在で時代を一変させたということです。

ここで平清盛の動きを見ておきましょう。彼は激動の1170年代には、既に平安京を放棄して新しい都の建立を考えていました。この理由を察するに、794年に始まった平安京という数世紀続いた古いシステムが、現・京都市の僅か一区画という極めて狭い一帯で歴史を刻んできたことから、利権が集約されてゾンビ化していたことも考慮すべきです。

ゾンビ化した利権を平清盛は己の存在だけで打ち砕いてきたわけですが、数世紀に及んだ平安京システムの表裏の権力を、自らに服属させて圧倒的な力を持った今になっても、相変わらずシステムが一気に崩壊することはありませんでした。これは場所で見ると平安京システムは小さな区画に過ぎないが、表裏の権力を維持する利権は四方八方に延びていたからです。ゆえに、システムの解体には相当の時差を伴います。それまで平清盛は、武家が真に時代を形成する覇権を握るためには、平安京内に留まって古いシステムを刷新する必要があると考えていたのですが、ここまでの事績で、もはや武家の時代は始まったと確信。これによって考え方が変わった平清盛は、もはや平安京に固執する必要はなく、武士は武士として独自の都を建造すれば良いではないかという方向へ向かいます。この平安京への固執から平安京以外への転移は、後に武家の時代の本格的到来において最重要ファクターとなります。

古いシステムを一掃するためには、新たな場所に移るのが最適解であることは、歴史の観点から見ても重要です。実際、現・京都市に平安京が移される以前、主な首都は奈良各地、大阪、そして京都南部、滋賀県近江などに動いており、この遷都の度に古いシステムが刷新され、新しいシステムが芽生える動きを繰り返してきました。平清盛も、この歴史に倣ったということです。

こうして平清盛が自らの王国を築くために選んだ場所は、平安京から少し離れた現・神戸市の港付近でした。ここを福原というのですが、福原へ平清盛が移り始めたのは、1170年代の動乱の少し以前の1167年から1168年頃です。この時、平清盛は政治の表舞台の最高権力者になっていましたが、ここから表舞台から一歩退くというスタンスを取りつつも、同時に平氏の覇権が未来永劫栄えるための準備を為す目論見がありました。つまり、平安京と距離を取る新たな動きを、平氏の覇権が続くための準備として始めたのです。

しかし、右肩上がりの成長という幻想は所詮は幻想です。たった一人の生涯程度で見た場合に、その右肩上がりの幻想は通用し得ますが、何世代、何十世代も及ぶことは不可能です。ここを平清盛が見極められなかった象徴的出来事が、この福原遷都という大きな試みだったのです。

平清盛が福原を拠点に選んだのは、すでにシリーズで述べたように、彼の父・平忠盛(1096-1153)と平清盛の親子が、九州に入港する宋との貿易ルートを掌握したことに関わります。既に瀬戸内海に跋扈する海賊は平氏が服属させており、貿易ルートの安全を確保できていました。そのため、九州から瀬戸内海を通じて平安京に物資を運ぶルートにおける最重要の港、言い換えれば平安京に入る最後の要所の港は福原でした。既に、平忠盛と平清盛の親子は、躍進の過程で日宋貿易の玄関口である佐賀の神崎荘、そして福岡の大宰府を押さえており、さらに岡山県東部から兵庫県西部という瀬戸内海の要所の覇権も掌握していました。つまり、日宋貿易における要所のすべてを平氏は征服したということです。ここから最終的に都市部となっている大阪や京都や奈良に物資を流通させるためには、最後の要所として現・神戸が重要視されます。実際、神戸の歴史を鑑みると、貿易港として栄えてきた歴史があり、ここにはさまざまな利権が今も昔も残っています。

福原を抑えることで何が実現できるかというと、日宋貿易の物流ルートの終着点を福原で集約することができ、すべての交易業務を一元化することができることです。これによって平安京の旧勢力の為政者に対して、物資を止めるという強硬手段に出ることが可能となります。つまり、福原で平清盛自らが日宋貿易の指揮を取ることは、平安京に居住せずとも、平安京に対して政治的な脅しや圧力をかける武器を獲得することが可能になるということです。これは非常に重要です。

現に平安京の地は、元々独力で食糧や物資などを形成することができない土地であり、どうしても各地からの調達に頼らなければならない事情が古くからありました。そこで平安京は自らの地理的な特性を活用して、周辺地域から多角的な交易ルートを築き上げて、リスク分散を行いながら今日まで生き延びてきました。しかし、平清盛はすでに比叡山が貿易ルートとして掌握していた日本海から北陸、そして近江の琵琶湖を伝って比叡山を経由して平安京に物資を流す貿易ルートの大部分を破壊しており、新たなメインルートとして瀬戸内海航路を打ち立てています。つまり、福原を平清盛率いる武家の平氏が掌握し、平安京の物資量をコントロールするようになれば、もはや平安京の覇権は維持することができず、平安京最後の独裁者・後白河法皇や、その院政システムに寄生する貴族や皇族などは終わりです。これが平清盛の最後の目論見でした。

事実、平清盛は興味深い動きを取っています。1167年2月に平清盛は、これまでの功績が認められて太政大臣という公卿の最高位に武士として初めて上り詰めますが、5月には家督の全てを長男・平重盛(1138-1179)に譲り、この職を3カ月で電撃辞任します。そして1168年2月に重病を患い、一時は危篤状態に陥った経験から、ここで死を覚悟した平清盛は周囲を驚かせる思わぬ決断をします。それが出家でした。この出家に関わったのが、これまで天敵として対峙してきた比叡山だったのです。これは、比叡山の座主が明雲(1115-1184)という新時代の才覚を持つ人物に替わったことによって、平清盛と打ち解けたからですが、明雲を評価していた平清盛は彼の手ほどきで出家を行います。これによって平安京の為政者たちに対して、平清盛という最大の権力者が政治の第一線から退いたと錯覚させたのです。

しかし、これはあくまでも錯覚です。まとめると、1168年に平清盛は太政大臣という最高権威を手にするなり3ヶ月で放棄し、家督のすべてを長男に譲って自らは出家し、完全に一時代を築いた君主が時代を終えたように表向きには見せながら、福原に移動したのです。これは平安京の為政者にとっては、再び貴族が覇権を取り戻す千載一遇の機会と考えかねないような動きですが、実際の平氏の覇権の維持は、平清盛が入道(出家しながら覇権を表裏で掌握する)という形で行っていました。つまり、福原という場所に離れても、平安京には平清盛の影が色濃く残っていたということです。これは平安京の為政者にとっては、最大の恐怖でした。

なぜならば平安京の為政者は、見えない影である平清盛と日夜対峙することになってしまい、不安な日々を過ごさなければならないからです。何かしら平氏の覇権に介入しようとすると、平安京から遠く離れていない福原から即座に平清盛が飛んできて、その処理を迅速に行うことが考えられるため、容易に平氏に手出しできません。いわば、自らがその場所に居らずとも、統治するという高度な統治構造を築いたのです。これまで表の平安京システム、裏の比叡山システムなどと私はシリーズで述べてきましたが、ここで平清盛というたった一人の武士の存在が、巨大な虚構として平安京・比叡山システムの上位概念に浮上してきたということです。この幻想の見抜き方が非常に鍵となります。平安京の共同幻想が変容しています。

こうして療養を兼ねて福原に別荘を構えて拠点にした平清盛ですが、改めて福原の立地的条件を見てみましょう。まず、福原が選ばれた理由は単なる隠居に適していた土地だからではなく、日宋貿易の指揮を自ら執ることができるからです。平氏がここまで一気にのし上がることができた権力の源泉は、これまで見てきたように、中国の宋との貿易を掌握することで得られた莫大な資金力です。よって平清盛は福原のすぐ隣にある大輪田泊を整備し、自らそこに住むことで貿易を直接コントロールし始めます。また、太政大臣などの官職に就くことは、平安京で延々と続く儀式や公卿同士の付き合いに忙殺されてしまい、何よりも己の立場を弁える力を喪失します。今も昔もそうですが、自分が何を為すためにその地位に立ったのかという強い問いがなければ、単に表面的な豪華に魅了されてしまい、欲望の渦巻く世界で我を見失うリスクが高い。この危険を熟知していた平清盛は、自らその地位を退き、しかも家督のすべてを長男に譲って出家した隠居という立場になることによって、自由に動き回る治外法権的な実力者になったということです。

そして福原は海に面しており、瀬戸内海の制海権を握る平氏にとっては最高の立地です。さらに平氏が海賊を征服した実績や、日宋貿易のメインルート開拓などの恩恵を受けた人々がこの界隈には多数いました。ある意味、平清盛や平氏の人々にとっては、ここは自らの国といえるほど、絶大な影響力を堅持することができたのです。また福原にいれば、平安京で何か動乱が起きても、海路を使えばすぐに四国や九州、中国地方に逃れることができ、さらに服属させている海賊や周囲の平氏の軍勢を瞬時に呼び寄せることもできます。こうした背景を察すると、平清盛が行ったことは、平安京という第一首都に対して、分散という目的で第二の首都を作り出し、平安京自体の機能を不全化することです。言い換えれば、京都の息の根を止めるということです。

これまでは、平安京の内部において表の都として朝廷があり、一方で裏の都として比叡山という巨大な虚構の権力機構があったわけですが、平清盛はこの虚構自体を場所を動かすことで無化してしまったということです。この平安京と距離を取った平清盛の動きに乗じて、平安京の為政者は平氏の築き上げた利権を少しでも取ろうと画策を始め、新たな動きを始めます。そのクライマックスは昨日お伝えした通り、平氏と比叡山を真っ向から軍事衝突させるという院政の陰謀だったのですが、昨日の考察でもわかるように、家督を引き継いだ平重盛と平宗盛は、この命令を後白河法皇から直接受けても、自分たちでは判断できないと、即座に福原に飛んで平清盛に陣頭指揮を執るように求めています。それに応じて平清盛は当日に平安京に乗り込み、翌日に後白河法皇と会って説得しているのですから、事実上のこの時代の権力者が平清盛であることは自明です。

この陰謀に対する処理を迅速に終えた平清盛は、いよいよ1170年代の動乱を乗り越えていきながら、最後の矛先に焦点を合わせ始めます。平氏は既に比叡山を屈服させ、院政の反平氏派を一掃しています。ゆえに最後の矛先とは、院政自体の解体です。つまり平清盛は、たった一代で平安京システムの表裏を全て解体することを凄まじい速度で行ったのです。

こうして始まったのが、1179年11月上旬の動乱です。この過程で決定的な出来事は、平清盛の嫡男・平重盛が、1179年8月に死去してしまったことです。平重盛は親院政派と言えるほど後白河法皇との関係が良好で、絶大な権力者となっていた平清盛と後白河法皇との対立を緩衝する最後の要のような存在として非常に重要でした。平重盛がいたからこそ、平清盛は後白河法皇に直接手を下さなかったからです。しかし、平清盛に続く平氏のリーダーとして期待された平重盛は、病を機に家督を弟・平宗盛に譲り、8月に死去してしまったため、ここで時代の最高権力者の二人を繋ぐ糸が断ち切れてしまい、真っ向から対立する動きへと向かいます。このシリーズ前半で平安京システムは「貴族ー皇族ー比叡山」と位置付けましたが、このトライアングル構造を平清盛が一人で解体していることが、ここでやっと見えてくるはずです。

後白河法皇にとっても、平氏の権力掌握は自らの独裁にとって最も邪魔な存在であったため、平重盛という両者を結ぶ最後の存在が死ぬと、平重盛が抱えていた国を没収して平氏を挑発します。これに激高した平清盛は、何と数千の軍勢を率いて福原から平安京に進軍するという行動を取ります。平安京に進軍した平氏の軍勢に抗える勢力は居らず、関白・松殿基房は公職剥奪から追放、これに連動して院政内部の反平氏派の公卿は全て解任され、さらに独裁者・後白河法皇を京都市南部にあった鳥羽殿に幽閉した上で、院政を強制停止する措置に出ます。

これによって何が起きたかといえば、従来の平安京システムの独裁権力は院政だったため、院政が停止したことによって、初めて平氏による軍事独裁体制が樹立したということです。つまり、1179年11月は大きなターニングポイントであり、武士が初めて独裁政権を樹立する位置に到達した瞬間を意味しています。

この院政を強制停止した平清盛の姿は、もはや他の為政者にとっては完全な独裁者の登場と映ることは避けられません。これまで時代の権力は、平清盛一人に集約されていませんでしたが、ここで後白河法皇の権力が効力を失い、比叡山も平氏に対抗できませんから、事実上、平清盛が日本の最高君主として君臨したということです。

これを看過できないとして、始まったのが1180年の大激動です。平清盛はこの時点で完全な独裁状態に入っているため、全てをコントロールできます。何しろ院政という最大の敵を抑止することに成功しているからです。ゆえに、ここで平清盛は皇族の覇権を掌握するために、自らの外孫を安徳天皇として即位させ、1180年6月に平安京放棄を宣言し、福原への遷都を強行する手段に出ます。第81代・安徳天皇(在位: 1181-1185)は、平清盛の娘を母に持つ皇族出身者です。

この辺りは複雑でしょうが、ここまでのシリーズにその答えは既に書かれています。要するに、私欲のために天皇の地位を意図的に退き、上皇として裏で覇権を握り続ける院政という100年程度続いてきたシステムを停止することは、事実上、再び実権を天皇に返すという政治的アピールになります。これによって、上皇と天皇との間で長らく続いてきた皇族の内部闘争を強制的に終結させたのですが、この裏を読み取る必要があります。

要するに、平清盛のもとで院政は停止されたが、院政システム自体は継承されており、自らがコントロールできる血筋から天皇を立てて表向きの実権を委ね、裏では院政システムを引き継いで武士が執政を掌握するものです。簡単にいえば、権力構造の内部における配置替えが行われたということです。このためには、当然ながら院政の後白河法皇こそが邪魔者となりますから、ここで後白河法皇を幽閉して平氏の管理下に置いたことは重要です。

この瞬間、平清盛はたった一代で平安京の全ての権力を、自らに移譲することに成功しました。平清盛自身が、時代最高の虚構となり、権力機構として君臨する世界の樹立。この瞬間に始まった新時代の鼓動ですが、一つだけ平清盛が見えていない領域があり、ここが最終的に命取りとなっていきます。

一体、ここまで完璧に思える平清盛が、一つだけ不可視となっていた領域とは何なのか。それが、平氏が掌握できていない東から上がった狼煙だったのです。

後に、この平氏の姿を物語として語り継いだ古典『平家物語』の冒頭は、以下のようになっています。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

直訳すると、以下となります。

祇園精舎の鐘の音は、この世のすべては常に移り変わり、不変のものはないという響きを含んでいる。

沙羅双樹の花の色は、勢い盛んな者も必ず衰えるという道理を示している。

思い上がっている者も長く続くことはなく、まるで春の夜の短い夢のようだ。

風を前にした塵のように、強い者もいつかは滅びる。

かつてないほど栄華を極めた平氏の一族が、わずか数十年で滅び去っていく様子を、当時の人々は栄枯盛衰の生きた例として捉え、そこにこの世に変わらないものはないという諸行無常と、勢いのある者は必ず衰えるという盛者必衰の2つの仏教的キーワードを柱に、物語へと昇華した『平家物語』。

平氏の栄枯盛衰は、単なる歴史ではなく、「どんなに強い力を持った者でも、自然の摂理や時の流れには逆らえない」という教訓です。

現代世界は、一見すると絶対権力を掌握したような独裁者が君臨する世界に見えるでしょうが、彼らが如何に強い力を持っていても、自然の摂理や時の流れには逆らえません。必ず、滅びる時を迎えます。その時まで、あなたは何を為し、何を準備するのか。それはひいては、あなたは何のためにこの世に生まれ、何のためにそのアイデンティティを背負っているのかという起源の問いを直視し、日々道徳的行動を積み重ねていくことです。

このシリーズが単なる日本の歴史紹介ではないことが、これで少しずつ明らかとなってきたでしょうが、この時代の動きによって変容しているのは権力だけではない。この時代の変化に応じて、変容をはじめて登場したもの。それが、新たな宗教なのです。