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道元論5On Dogen, Part 5

昨日の記事では、今日の京都が成立する原型でありながら、今も京都を支配する見えない虚構の実態において、その正体が裏京都、あるいは裏首都とも言える京都市東部の比叡山であることを見ていきました比叡山とは、単なる山の名前ではなく、一時代を築いた強大な権力システムであり、宗教・経済・武力を掌握しながら一つの巨大な都市機能を有していました。こうして最澄の開いた日本密教の一派である天台宗の総本山・延暦寺を擁する「比叡山式システム」の樹立は、麓に広がる表の首都「平安京システム」の本源となり、二つのシステムが表裏で一体となって形成されていたのが平安時代(794-1185)の真の姿です。

重要なことは、目には見えない二つのシステムの同一化の動きに呼応して、当時の首都であった京都市内の平安京ー比叡山に対抗して、信仰の動きに大きな変動が生じていることです。私は数日かけてこの信仰の重要な動きを、比叡山の天台宗に対抗する形で現れる法然(1133-1212)ー親鸞(1173-1263)の浄土宗、さらにこの両者に対する道元(1200-1253)の禅と据えながら思考してきましたが、同時にこの系譜には武士の台頭という絶対的ファクターが介在います。

つまり、日本における禅の台頭は、武士の台頭と切り離して考えることはできません。むしろ両者は、新たなシステムにおいて同一化しながら、数世紀に渡る巨大な権力機構として君臨していた「平安京ー比叡山」システムに対抗する最有力な存在として現れてきたと言えます。ただし、この「禅ー武士」システムの交差は、黎明期から起きていたとは言えず、むしろ歴史の必然において生まれてきたものと考えます。単なる歴史を見る視座では決して浮上しない信仰の交差点を探究するためには、比叡山という巨大システムの瓦解に挑んだ武士の親子に焦点をあてなければなりません。ここも、かなり複雑な歴史なので、これまで数日に渡って示してきた記事の内容を踏まえて、要点を振り返りながら深く探究を進めていきます。

まず、1156年に皇位継承を巡る皇族内部が分裂を契機として、これが貴族の出世問題や様々な利権問題と絡み合いながら、政治的実権を握る朝廷を二分する激しい内戦へと向かいます。ここで、第77代・後白河天皇(在位: 1155-1158)からの要請を受けて、敵方の崇徳上皇側の勢力を撃破したのが平氏です。内戦に勝利した後白河天皇は、戦後処理を親友で家臣の信西(1106-1160)に委ねて、政治を掌握する表の独裁者として新たに打ち出します。そしてもう一人、後白河天皇の独裁体制において新たに脚光を浴びたのが、平氏を率いる当主の平清盛(1118-1181)でした。

この時、既に平清盛の父・平忠盛(1096-1153)は死去していましたので、ここで武家地位向上を志す新時代の指導者のもとで、一気に平氏の権力を平安京の人々が無視できない次元に高めていきます。

ただし、武士の時代を本格的に始動するためには、解決しなければならない問題があまりにも多い。幾ら平安京システムが腐敗して瓦解したとは言っても、数世紀に及んだ利権は全国規模に展開されており、平安京という現・京都市内の僅か一区画を掌握したところで、武士の時代を迎えたとは言えません。何よりも真っ先に実現することは、武士の経済的自立です。当時、旧勢力である貴族と比叡山は全国各地に荘園という領地を無数に所有していましたが、特に比叡山システムにおける荘園の存在は、全国に展開した数千ヶ所から年貢を比叡山に一元的に回収する画期的なオートメーション制を実現しており、朝廷の財政を凌駕する絶対的存在でした。

この莫大な資金を元手に、比叡山は当時の日本と中国・宋側との貿易メインルートの一つだった日本海側の福井ー琵琶湖経由のルートを掌握し、首都・平安京に入る物資の集約と、通行料の徴収などで儲けを最大化します。実は今もこのシステムは生きており、私たちが比叡山延暦寺に向かうためには、山に入るだけで高い通行料金が徴収されます。宗教法人は日本で税金を払う義務がないため、今も比叡山側に回収される収益は、麓の京都市民には還元されません。このシステムの起源は平安京時代に遡りますが、さらに比叡山は平安京の守護的立場を利用して金貸し業などを都市部に展開。私は、比叡山の実態は最初期のコングロマリットだと捉えています。

同じように、貴族も自らの利権を確保するために各地に荘園を所有したため、武士が本格的に台頭するためには、独自のルートで経済的基盤を確立しなければなりません。それができなければ、従来のように皇族・貴族に消費される戦闘集団でしかないからです。実はここにこそ、平氏が武家の中でいち早く台頭し得た理由があります。そしてその源流は、平清盛の父・平忠盛に始まります。

平忠盛自身には、子・平清盛ほどの政治的覇権を握る才覚はなかったと考えられていますが、それでも当時、不安定となっていた平安京システムにおいて、背後に君臨していた鳥羽上皇(1103-1156)が敷いた院政において、深い信頼を獲得していました。鳥羽上皇は、後白河天皇の父ですが、日本史における院政の大成者として知られています。

院政を簡単に言えば、天皇の地位は日常の儀式で忙殺されることから、それを嫌って裏で権力の実権を掌握し続けるために、あえて生前退位をして、皇位を別の継承者に移譲し、自らは「上皇=院」として政治的実権を握り続けるというシステムです。この院政自体は、鳥羽上皇の父・白河上皇(1053-1129)が作り出したものですが、11世紀後半から12世紀初頭に確立したもので、平安京が始まって以来、政治的実権を掌握し続けた貴族の没落に代わって、台頭してきた皇族による新たな支配システムです。この結果、次々と天皇に即位する者は上皇に退き、院政を敷くことで利権や権力を確保して、遊興に励むという歪な私欲システムへと転換されていったのです。つまり、この時代に天皇として即位することには大したメリットがないため、天皇はあくまでも院政の最高権力者になるための踏み台でしかなかったのです。

平忠盛の時代は、まだ武士と言えば貴族の番犬に過ぎず、政治的実権を持つなど夢のまた夢でした。しかし、この皇族による私欲を契機とする院政システムの台頭によって、これまで見向きもされなかった武士に思わぬ形で注目が集まるようになります。その代表格こそが、鳥羽上皇でした。当時、新たな最高権力者として君臨し始めていた天皇や上皇は、皇位継承や実権を巡る暗殺のリスクが絶えなかったため、鳥羽上皇は自らの身辺警護のためだけに、1120年代に武士集団を組織します。これを北面武士と呼ぶのですが、このリーダーが平忠盛でした。これが武士台頭の本格的な幕開けです。

平忠盛は、幾度も鳥羽上皇の危機を命を張って守り、また鳥羽上皇の各地に有する利権が脅かされると、先陣を切って平氏の武士を率いて討伐に出向くなど、とにかく鳥羽上皇にとって欠かすことのできない人物でした。この功績が評価されて、鳥羽上皇は平忠盛に全幅の信頼を置き、周囲の貴族の思惑を無視して重用し始めます。転換点は、1129年に平忠盛が33歳の時、鳥羽上皇が院政を開始した直後に、「院近臣」という上皇の側近の職に就任したことです。つまり、鳥羽上皇の院政システムにおいて、従来の貴族ではなく、平忠盛が欠かせない存在となったのです。

この抜擢は武士としてはあり得ない出世だったため、周囲を驚かせると同時に、出世しか考えていない貴族の怒りと嫉妬を招きます。そしてこの院政において最も重要なことは、鳥羽上皇が自らの利益を稼ぐために、あるシステムの責任者に平忠盛を抜擢したことです。その場所は、平安京から遠く離れた九州の佐賀県にある神崎荘と言います。ちょうど昨年夏にこの神崎荘の痕跡を調査するために動き回っていましたが、今は名残がないものの、平安時代には非常に重要な金の生まれる場所でした。

まず、神崎荘は貴族や僧侶の領地ではなく、当時の鳥羽上皇直轄の領地という権威ある場所に位置付けられており、所有者は日本最高の権力者として君臨する上皇自身という性格を持っていました。神崎荘は有明海に面した貿易の要所に設置されており、同時に大陸・半島経由の貿易主要ルートである福岡の博多からも近い特別な地の利を有していたのですが、何よりも重要なのは、役人が手出しできない聖域だったことです。しかし当時、この神崎荘からそれほど距離の離れていない場所には、日本最大の貿易窓口である大宰府(福岡)が置かれていました。

この大宰府が公式の貿易窓口であるため、今で言えば官僚機構の前線だったのですが、ゆえに物資を大宰府を通して売買すると税金徴収が発生したり、物資を貴族に分配しなければならない利権の分散の必要がありました。端的に言えば、鳥羽上皇はこのシステムに不満を持っており、物資の収益を税金・利権分配を介さずに、直接取引によって100%自分自身の懐に入れようと考えたわけです。この国際貿易において中心的存在だったのは、当時圧倒的な文明国であった中国の宋です。

そして鳥羽上皇は日本と宋の貿易において、大宰府を介さずに自らの領地である神崎荘を通じて宋側の商人と直接取引すれば、役人や貴族に手数料を渡すことなく利益を独占できると考えます。分かりやすく言えば、脱法的な直接貿易を考えたのですが、それを鳥羽上皇自ら表立って行うと権力維持に問題が生じるため、カモフラージュで表に立てる人物として、貴族や役人の旧勢力の利権やシステムに自己家畜化していない武士の平忠盛を抜擢します。こうして1130年代に入ると、平忠盛は神崎荘の管理責任者に任命されたのです。

武士の首領を抜擢した背景には、この神崎荘の上皇直属の聖域という利権を求めて横槍を入れようとする貴族・役人、あるいは商人などの勢力を抑止する目論みがありましたが、鳥羽上皇にとって最大の問題だったのは、当時の海上貿易に付き纏った海賊の存在です。当時、日本近海には多くの海賊が存在していたのですが、特に問題だったのは、九州から朝廷のある京都に物資を運ぶ海上ルートの瀬戸内海でした。ここには無数の離島があり、古くから海賊の自律的領土だったのですが、ゆえに当時の貿易は命懸けで、海賊に収奪されることは日常茶飯事でした。そこで100%利益を確保したい鳥羽上皇は、平氏を利用してこの海賊を抑止しようとします。

この上皇の独断に激怒したのは、公式の貿易窓口である大宰府です。実際、大宰府の役人は、神崎荘で勝手に宋の商人と武士が貿易することを問題視して、神崎荘に踏み込んで物資を押収しようしたのですが、これを平忠盛が武力で威圧をかけて追い返す事件が起こります。この措置に激怒した大宰府は、平忠盛を訴えようとするのですが、何しろ背後にいるのは当時最高権力者の上皇自身であったため、結局為す術がありませんでした。こうして鳥羽上皇は、院政を悪用して利権の独占システムを展開し、収益を自らの権力維持と遊興に使うという暴挙に向かいます。ただし、同時に平忠盛がこの利権保持に全力を尽くしたことから、平氏にとっては願ってもない千載一遇のチャンスが訪れたのです。

何しろ、神崎荘の管理者は平忠盛でしたから、ここで鳥羽上皇へのキックバックを差し引いても、手元にはこれまで武士では考えられない莫大な富が生まれ、また、これまで接触のなかった博多を軸に交差する日本・宋双方の商人と直接関係を結ぶ機会を得たからです。実はこれによって平氏は当時の国際情勢や国内情勢、あらたな技術と情報をいち早く入手することができたのです。これは平安京の邸宅に閉じ籠もって利権を維持しようとする貴族には、できないことでした。

さらに平忠盛の働きは、年々鳥羽上皇の信頼を高める成果となり、鳥羽上皇正式の代理人として九州の特権的領地の利権、さらに当時一般的だった密貿易を介して資金を貯める方法が生み出されていきます。要するに、グレーゾーンで平忠盛が躍進した基盤があったからこそ、後に子・平清盛が表の支配者にまで君臨することができたのです。時代が大きく揺れ動く時は、全ての速度が早まりますが、当時も平氏が覇権を掌握するまでたった2世代しかかかっておらず、事実上、平忠盛と平清盛という親子によって成し遂げられていることは注目です。

ここで最高権力者・鳥羽上皇の財務と利権を握る命綱であった平忠盛は、出世を重ねて武士が政治的実権を持つ礎を築いていきます。特に武士の歴史において決定的だったことは、1132年に平忠盛が「殿上人」という出世を果たしたことです。この背後には、貿易で莫大な利益を得た平忠盛が、その資金を鳥羽上皇のために注ぎ込み、平安京に壮大な寺院と千本仏を完成させて献上するなどの功績があったからです。殿上人とは宮廷に昇ることを許される職なのですが、要するに鳥羽上皇に直接対話できる限られた特権的存在だということです。大半の貴族でさえ生涯をかけても到達できない職に、成り上がりの武士が就任したことで、異例の出世に嫉妬した旧勢力の貴族が平忠盛を暗殺しようとした事件も起きています。つまり、ここで平忠盛は新興貴族になったということです。

新興貴族となった平忠盛は、さらに堅実に自らの職務を全うし、1140年代には備前や播磨という資源や財力の豊かな国の知事を委任されます。備前は現在の岡山県東南部、播磨国は現在の兵庫県南西部で、要するに瀬戸内海に面して平安京へ至る最後の主要航路の要衝の責任者です。つまり、この時点で平忠盛は、貿易の主要拠点である佐賀・神崎荘から京都・平安京を結ぶ瀬戸内海の覇権も手中に治めたのです。しかもこの過程で、平氏は瀬戸内海に跋扈する海賊を服属させていたため、もはや時代の寵児となった平氏に抵抗する者はいませんでした。

結果、平忠盛は1148年になると、現在で言う省庁の長官クラスに抜擢され、1153年に58歳で亡くなるまで、たった一代で武士が台頭するための最強の経済基盤と高い政治的地位を確立しました。あまり歴史で注目が集まることはありませんが、この地味に思える父・平忠盛の生涯がなければ、武士の時代を迎えていたかは不明だったと言える重大で、この人物の生涯を知ることなしに、武士を語ることはできません。そして平忠盛は、自らの欲望に塗れて生きる道を外すことなく、最後まで己の人生を生き抜くことを貫く人格者でした。これによって、旧勢力の人々が利己的な私欲でしか動かないことを知っていた平安京や各地の人々は、平忠盛に心服して敬意を示したことで、武士の方が貴族よりも良いという新たなイメージを定着する原動力となったのです。

こうして父・平忠盛の功績を継承して新時代の指導者となるのが、政治・経済・軍事的才覚がずば抜けていたカリスマ的才能を持つ子・平清盛なのです。

平忠盛が死去した3年後、絶大な権力を保持した鳥羽上皇も1156年に亡くなります。これによって最高権力者のポジションが空席になったため、皇族の内部抗争が始まったと捉えれば理解できるでしょう。ここで冒頭で示した1156年の後白河天皇と、崇徳上皇の天皇ー上皇による内戦が始まったということです。ちなみに、双方共に鳥羽上皇の子なので兄弟です。

遡ると、鳥羽上皇が天皇を退いて上皇になる1123年に、天皇になったのが崇徳天皇(1119-1164)ですが、鳥羽上皇没後に院政の魅力を知っている崇徳天皇も、やがて1141年に僅か3歳の子供を近衛天皇として即位させて、自らは上皇として院政に入る暴挙を行なっています。これだけを見ても分かるように、3歳の子供に執政ができるわけなどないため、院政が如何に私欲と権力欲によって行われていたかが分かります。こうして3歳で即位したのが、第76代・近衛天皇でしたが、1155年に17歳の若さで死去します。近衛天皇も父は鳥羽上皇であり、後に崇徳上皇の養子となって天皇に即位しました。

これによって突然、皇位継承問題が勃発するのですが、ここで対立したのが崇徳上皇、近衛天皇と同じく鳥羽上皇を父に生まれながら、四男であることから皇位継承とは無縁に育った後の後白河天皇なのです。かなり複雑なので簡単に整理すると、父・鳥羽上皇の第一皇子が崇徳天皇で、崇徳天皇の在位が1123-1142年だったのですが、この期間に第二皇子が5歳で死去(1124-1129)、第三皇子も1143年に死去した時、皇位継承は第四皇子の後白河天皇ではなく、異母兄弟である近衛天皇側に向かいました。しかしこの近衛天皇も死去すると、この時点で筆頭となる皇位継承者は後白河天皇一人となり、ここで既に上皇に退いて院政を敷く兄・崇徳上皇と、弟・後白河天皇が実権を巡って激しく衝突することになったのです。

要点は、院政で執政を操りたい崇徳上皇に対して、自ら執政を握って実権を掌握したい後白河天皇の思惑が一致することがなかったからです。

こうして1156年に皇族の内紛を契機とする内戦が勃発。平清盛に軍事を任せた後白河天皇側の圧勝となり、崇徳上皇は平安京を追われて、讃岐(現・香川)に配流されて最後まで平安京に戻れることはありませんでした。ここで鳥羽上皇ー平忠盛の関係が、続いて後白河上皇ー平清盛へと繋がり、新時代を迎えたのです。

ここで面白いのは、勝利した後白河天皇によって平清盛が、貿易の公式窓口である大宰府の責任者へ就任したことです。つまり、ここで大宰府と神崎荘を平氏が掌握したことで、九州で行われる宋側との貿易の全てにおいて、ほぼ独占的に平氏が優先管理・入手するという最高の法的立場を獲得します。父・平忠盛が密貿易に近い形で利益を得ていたと考えれば、子・平清盛は官職という公式な立場で主要な貿易の全権を担ったということです。

そして1158年、後白河天皇は家臣・信西の提言で上皇へ退き院政を開始。ここで「後白河上皇ー信西ー平清盛」による新たなシステムが成立しますが、旧勢力の「貴族ー皇族ー延暦寺」が利権喪失を恐れて大反発。これを契機に、1159年になると、皇位を移譲した二条天皇を旧勢力が担ぎ上げて反乱を起こし、院政を敷く新勢力側が対抗する二度目の内戦に陥ります。ここで平清盛留守中に平安京襲撃が行われて、政治独裁者であった信西が死去すると、平清盛は挙兵して敵軍を一掃。こうして「後白河上皇ー信西ー平清盛」のシステムで空白となった政治の信西の地位に、圧倒的な軍事力を有する平清盛が入り込む余地が開けたのです。

この時点で、平清盛は元々武士の出自である軍事、九州から平安京ルートにおける貿易利権の掌握、政治的実権を全て掌握し、新時代の覇者として名乗りをあげることになります。そして新時代の覇者の筆頭格として登場した平清盛は、遂に平安京の真の支配者である比叡山との対峙へ向かいます。注目すべきは、この両者の衝突が起きたのは、宗教や信仰を巡る対立ではなく、貿易の利権を巡る問題だったことです。これが比叡山の真実です。

平清盛は九州の大宰府と神崎荘を掌握し、さらに平安京へ物資を運ぶ海路に存在する瀬戸内海の海賊を服属させたことによって、平安京為政者にとって最大の問題だった瀬戸内海を経由する貿易ルートへのリスクが軽減されます。逆に言えば、このリスクがあったからこそ、これまで宋側との貿易ルートの主軸は、瀬戸内海を通さない日本海側の福井などに集約し、そこから琵琶湖を伝って比叡山を経由して平安京に物資を流す比叡山ルートが確立されていたわけです。それが、平氏の登場によって瀬戸内海が鎮圧されると話は変わってきます。なぜならば、わざわざ日本海ー琵琶湖ルートの迂回をせずとも、九州ー瀬戸内海でダイレクトに平安京に運ぶ方が早いからです。特に後白河上皇にとっては、手出しできない比叡山側に自らの利益の大半を取られるよりは、平清盛と結託して新たな貿易ルートを開拓・維持した方が遥かに利益率が高い。こうして時代の為政者の欲望が交差した結果、時代に取り残され始めた比叡山が激昂する事態となったのです。

ここで平清盛が打ち出した新たな貿易ルートは画期的でした。瀬戸内海経由で神戸に巨大な商船を直接引き込み、そこから大阪の淀川を遡って平安京に物資を運ぶというものでしたが、すると福井ー琵琶湖経由で平安京に物資を運ぶ一帯に関所、配送業者などを設置、それらを支配する莫大な利権を持っていた比叡山にとっては、大半の利益が吹き飛ぶことになります。比叡山が利権を掌握する貿易ルートが、たった一人の武士の登場で揺らいだことで、比叡山は武装した数千人の僧兵を使って旧勢力の貴族を介し、朝廷に揺さぶりをかけ始めたのです。

もう一つの要因は、従来の比叡山側の旧勢力の経済は、土地売買と現物取引で行われており、布や米などが平安京各地の市場で直接取引されるシステムでした。しかし、平清盛はこの現物取引ではなく、宋から大量に輸入した宋銭という貨幣経済の導入を提唱。金銭で決済する社会を平安京に構築することで、土地に縛られない自由経済圏を新たに作り出す試みを始めます。これは土地支配を権力源泉とする比叡山から見れば、自らの支配システムの破壊を意味する挑発行為です。実際、宋銭の流通によって一気に平安京で物価変動が起きて土地価格が下がるインフレが起きており、これが比叡山という巨大な権力構造を弱体化した主因だと見る向きもあります。

そして平清盛は、新時代を築くためには貴族以上に比叡山を破壊しなければならないことを誰よりも熟知していました。その結果、対立の矛先は比叡山利権の温床となっていた福井県の若狭・敦賀ルートを擁する越前(福井県東部)向かっていったのです。この対立の交差点である越前に、後に道元が開く永平寺があることを頭の片隅に入れておいてください。

利権が崩壊し始めた比叡山は、平清盛の登場を仏の敵だと主張し、数千人の僧兵が神輿を担いで平安京に降り、平安京で暴れ回り始めるのですが、それはもはや宗教を表に立てた利害が剥き出しになった姿であり、彼らが激昂した実態は、比叡山の物流ルートの利益が平清盛の登場によって激減したことにあります。そして平清盛は、祈祷や神威という精神的かつ宗教的権威では、比叡山に対峙できないため、真っ先に比叡山を支える経済圏を無力化することで、その力を弱体化することを試みたのです。

結果、比叡山が抱えていた僧兵の暴走による武装化が激化し、僧兵は事実上、過激な武装集団となります。こうして平清盛率いる台頭した武家の平氏と、比叡山率いる旧勢力が全面衝突する時代を迎え、やがて武家同士の次世代の覇権を巡る混乱へと向かい、平安京は首都機能を失う歴史に入っていくのです。

To be continue.