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道元論 1On Dogen, Part 1

日本の禅宗には、大きく分けると曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の三つがありますが、個人的に最も興味を惹かれるのは曹洞宗の開祖です。今回の記事では、禅宗の中で最大勢力を誇る曹洞宗の開祖が説いた、革新的な概念のdisplacementについて見ていきます。

曹洞宗は、現在も日本仏教における信者総数の約8,000万人のうち、約350-400万人を抱える大きな団体です。仏教徒全体の約4-5%を占めていますが、禅宗の枠組みで見ると、約66%が曹洞宗信者となっています。禅をマインドフルネスとして見ると、何がこの曹洞宗の革新的性格なのかは理解できませんが、それを知ることによって、実は禅が如何にラディカルであったかという姿が見えてくるようになります。それを知るには、何よりも開祖自身を見なければなりません。

この曹洞宗の開祖であり、激動の13世紀を生きた革新的な仏僧の名は道元(1200-1253)。彼の生涯を辿っていると、13世紀当時に仏教界の大きな主流を構成していた「浄土」という概念を、どのように自らが生きる中で捉え、またどのようにして浄土を提唱するかという点を、同時代で最も考え抜き、それを実行するために生き抜いた一人の宗教家だと言えます。彼は、後に現・福井県にある永平寺という非常に大きな寺院の開祖となった人物ですが、この道元の浄土への疑念から始まった生涯、そして答えを求めて中国・宋に渡る壮大な旅などを経て、一体、彼がどのように浄土というものを最後に捉えたかということに焦点を当てるとき、そこには常に問題となり得る「非分離」が介在していることに気づきます。

京都の公卿という貴族階級に出自を持ち、当時の京都の超名門貴族に生まれた道元ですが、彼の生きた1200-1253年という時期は、ちょうど日本で長らく続いた貴族の時代から、新たな武士の時代へ劇的に切り替わる過渡期でした。つまり、貴族政権が腐敗を極めて自己崩壊して権威は失墜。これによって、かつては貴族の番犬だった武士が台頭して政権を掌握したのです。道元は貴族階級でありながら、もはやその特権はさほど得ることのできない時代でした。

実際、道元が生まれる8年前に、初の武士政権である鎌倉幕府(現・神奈川県鎌倉)が源頼朝(1147-1199)によって創設されます。ゆえに、道元が生まれた時というのは、新たな武士階級が躍動し、前代まで覇権を握っていた貴族に対する激しい闘争が起きた時代であったため、京都の貴族階級はとてつもない速度で没落していきました。当然、京都の貴族階級の没落は、京都の没落とイコールですから、とにかく治安悪化や厄災が絶えない地獄を迎えます。こうした時代の渦中で、心労の絶えなかった道元の両親は、幼い道元を遺して早くに亡くなってしまいます。

幼少期に親を亡くした体験が、彼に仏教の重要概念である「無常」を与え、これによって彼は公卿の道を継ぐことを選ばず、仏教を極める僧侶となる道を選びます。というのも、覇権が移る時代の転換期には、必ず飢饉や疫病、戦乱が相次いで起きます。この不安定な社会の結果として、人々の間には階級を無関係に「この世は終わりだ」という末法思想が広がり、それが社会を覆って文字通り暗黒に包まれていました。今の京都のイメージからは想像できないでしょうが、京都は歴史的に何度か死体がストリートに転がり、山積みにされるような時代を経験しています。典型的なのが現在では夕暮れから夜にかけて人々が集う鴨川沿いで、あそこは歴史的には大量の死骸が放置されていた場所なので、実は霊感の強い人は絶対に立ち入ってはなりません。京都には、このような禁忌が無数に存在しますが、当然、観光客は知りません。

そこで道元がまず訪れたのが、当時京都の鬼門と呼ばれた北東を守護する位置に建立されていた比叡山延暦寺です。比叡山延暦寺の天台宗(密教の一派)の教えを受けていると、道元は「本来、人はみな仏(仏性)であるはずなのに、なぜこれほどまで厳しい修行をしなければならないのか」という疑問にぶつかります。実際に当時の密教、特に天台宗などの密教系の修行は、今もそうですが非常に厳しいものです。しかし一方で、こうした厳しい修行が、一体何のために行われるのかということに対しては、開祖・最澄(767-822)が亡くなって以来、数世紀を経た頃になるともはや忘れられてしまい、山に隠れ籠って現世を離れた修行を行うこと自体が目的になってしまい、手段と目的が混同し、とにかく厳しい修行をしていれば仏になれるというような希望的観測に僧侶は堕落していきます。

道元は元々京都市内で生まれ育ったため、こうした山中の寺院で大勢の僧侶が隠れ籠って修行を行い、それで仏になると信じていることに強い違和感を感じます。何しろ、一歩山を降れば、人々は飢え死に、殺し合い、騙しあっているにも関わらず、延暦寺の僧侶はそうしたことは知らんと言わんばかりに無視していたからです。現実の問題に向き合うことがないならば、私は如何なる修行も無意味だと考えますが、道元はまさにそこに強い疑念を抱いたのです。

この問題に差し掛かった道元は、納得のいく答えが当時の天台宗にはないことを理解し、これ以上延暦寺に居ては時間の無駄だと感じ、比叡山を降りて京都市内の臨済宗・建仁寺へ移ります。この建仁寺は、禅宗の一派である臨済宗(臨済宗建仁寺派)の大本山であり、京都最古の禅寺として知られていますが、このように道元は密教から禅宗へと大きく鞍替えしている点が大変興味深い。つまり、宗派に固執する僧侶の態度を否定し、目的は仏への信仰だという強い信念と信仰心を持っていた道元からすれば、宗派は問題ではなかったということです。

そして建仁寺に移ったことが、彼の人生を大きく変えていきます。道元が建仁寺で師事したのは明全(1184-1225)という僧侶ですが、この明全は日本に臨済宗(つまり禅宗)を初めて伝えた栄西の直弟子です。ゆえに、道元にとって建仁寺での修行は本格的な禅に触れる初の経験だったのですが、建仁寺は道元の幼少期である1202年に建立された新たな宗教拠点だったため、当時の勢いは相当なものでした。道元が建仁寺に入ったのは、1217年の17歳の頃だとされています。

ただし、当時の日本で寺院や僧侶は、とにかく政治的・軍事的活動を起こす拠点としても機能しており、特に比叡山延暦寺のように山深くに隠れ籠り、京都市内の朝廷や貴族が何をやっているか把握できない事情を悪用することができる立場からは、危険思想なども次々と生まれて革命行動が起きる震源地でもありました。宗教とテロ組織は紙一重だといつも日本の宗教史の考察で感じますが、当時の比叡山延暦寺も同様です。特に政治に深く介入していた比叡山延暦寺の僧侶にとって、禅は新たな教えであったことから、自らの利権が脅かされることを嫌って、既に激しい弾圧を加えていました。そのため、栄西は迫害を回避するために、建仁寺を純粋な禅の場所とすることはできず、天台宗や真言宗の密教的祈祷を一緒に行う折衷的な場所として維持しました。

この時代に道元は建仁寺に移っていますが、既に天台宗に幻滅していた道元は、この建仁寺の折衷的方法にも限界を感じます。そうした鬱積とした若い時代を過ごしていた頃、道元の生涯を決する大きな出来事が起きます。それが1221年に起きた承久の乱です。簡単に言えば、覇権を取られた旧為政者・朝廷側の皇族・貴族が、新為政者・幕府側の武士に対して起こした最後の抵抗運動です。

要因は単純極まりなく、自らの利権を次々と失い、事実上の飾り物でしかなくなった皇族・貴族にとって、元々自らの番犬でしかなかった武士が政治を行うことに我慢がならなかったということです。何とも醜い争いですが、この出来事が貴族への出自を持つ道元を完全に幻滅させ、当時の京都は首都ですから、もはや日本に期待しても仕方がないと判断し、新天地を求めて、明全と共に命懸けで中国の宋に渡って学び続けることを決意します。

こうして1223年、道元は24歳の春に、明全らと共に新天地を求めて博多を出港。4月には宋に到着して、そこから各地を巡って新たな可能性を探っていたところ、1225年5月1日に運命的な出会いをします。その相手は、天童山景徳寺の如浄。道元は如浄が正しい仏法を伝える真の師匠だと確信し、弟子入りして厳しい修行に打ち込みます。無念なことに同行していた師・明全は、如浄と出会った5月にこの天童山で亡くなっています。まるで、道元を如浄に結ぶために明全は生きたかのようで、感慨深い。禅の系譜がここに流れていることが見えてきます。

やがて、如浄の手ほどきによって道元は【身心脱落】という悟りの境地に達します。この身心脱落という言葉は何も難しい概念ではなく、要するに、【身】と【心】という二元論的な世界を、【脱落】(全ての私欲・執着が剥がれ落ちた状態)することで非分離にすることです。

そして、1227年に如浄より印可という悟りの証明を受けた道元は、28歳で日本に帰国。帰国後は再び師・明全と縁のある京都の建仁寺に戻ったのですが、ここで従来の密教的影響を無化した純粋な禅を教えるために、正しい坐禅の作法を記した『普勧坐禅儀』を執筆しています。

ですが、建仁寺は京都の中心部に建立されていることから、とにかく皇族・貴族の中枢にまで入り込んでいる比叡山延暦寺の影響を無視することはできません。無視すれば、取り壊されたり、焼かれてしまうリスクが常にあったため、建仁寺側の僧侶も権力に屈服して腐敗しており、道元の言葉を聞かずに軋轢が生まれます。その結果、道元は京都市伏見区に移って1233年に興聖寺を開き、ここで他を意識することなく、全力で自分自身の信仰を説く初の機会を得ます。この時、道元の興聖寺は僧侶であるか否かを問わず、多くの弟子に門戸を開き、弟子を取って教えます。

中でも注力したのは、【只管打坐】という独自の修行法でした。これは【只管】(ひたすら)と【打坐】(坐禅する)を組み合わしたものですから、「ひたすら坐禅すること」の意味です。要するに、何かを得ようとか、悟ろうとか、私欲に起因する目的を持って坐禅を為すのではなく、坐ることそのものが悟りの姿であるという捉え方です。つまり、私欲に起因する目的を持った全ての坐禅は、その最初の心構えからして間違っているのだから、幾ら続けても何をやっても絶対に真理に到達することはないということです。同時に、道元の主著となる『正法眼蔵』の執筆が始まります。

しかし、信仰の道を躍動し始めていた若き道元に立ちはだかったのは、やはり比叡山延暦寺を筆頭とする京都の旧仏教勢力でした。日夜、圧力や嫌がらせを行う彼らに対して我慢の日々が続く中、彼らが権力者に圧力をかけて道元の教えが邪教撲滅を名目に潰されるリスクが現実的となった時、信者の一人の勧告を受けて、道元はここまで腐敗した京都では信仰の道の樹立はあり得ないと考え、新天地に移動する決断を行います。こうして1243年に、当時越前と呼ばれた福井県に移り住みます。

この新天地で1244年に道元は大仏寺を建立。これが1246年に改称されて、非常に有名な永平寺となります。道元は死ぬまでこの永平寺で過ごし、修行と弟子の育成に専念しました。

道元は永平寺の地で、従来のように修行自体が目的となり、何のために修行するのかが分からなくなってしまった位置に停滞するのではなく、あくまでも修行は手段であり、その目的は違うんだということをまずは表明しにかかります。典型的なのが、只管打坐です。前述の通り、これは「ひたすら坐禅すること」を意味することから、かなり間違いが起きやすい。というのも、ただ坐禅していれば何かが達成されると誤認されてしまうからです。しかし、私の視方でそれが何かといえば、物理的に坐禅していること自体にあるのではなく、心自体をその本体に留めることだと考えています。

つまり、実は道元の只管打坐は、坐禅の有無が真の問題なのではないと私は考えており、むしろ人間は心の動きが放埒になってしまう時に我を見失うわけですから、それら放逸していく心の動きを自らの心の本源に留めること。これを只管打坐によって実現することによって、人々が分離に陥ることのない状態を実現するということに本質があります。その時、ここにおいて身心脱落が実現できて非分離に至るのです。

ただ、道元の生涯はここがスタート地点に立った瞬間だと言えるかもしれません。何しろ、当時の仏教界には最大の問題があり、道元はそれに対して如何に可能性を示すかに生涯をかけることになるからです。それは道元の時代は、不安定な時代によって人心が荒廃していたことから、従来の主力な仏教勢力ではないところから、法然(1133-1212)や親鸞(1173-1263)による浄土教が、庶民を中心に爆発的に広まっていたからです。

道元に立ちはだかったのは、浄土を求める人々の心。一体、彼はこの難儀な問題にどのように立ち向かったのでしょうか。

To be continue…