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日本映画と哲学を語り尽くした一日A Day of Talking Cinema and Philosophy

昨日は、日本映画の研究者の友人と一日中、映画、哲学、文化、歴史、そして日本の現状から少し先の未来まで、多様な議題について朝から晩まで話し合っていました。1897年に始まった日本映画の歴史を改めて振り返ると、やはり一人の存在が大きく日本映画史を変えたということは見逃せません。それが、山中貞雄(1909-1938)です。

世界的に黒澤明、小津安二郎、溝口健二、大島渚などは大抵知られているものの、山中貞雄が注目を浴びることがありません。それは日本映画の巨頭と呼ばれた黒澤明、小津安二郎、溝口健二が戦前から戦後にかけて活躍できたことに対して、山中貞雄は戦後の映画界に戻ることはなかったからです。山中貞雄のキャリアは、1927年に日本サイレント映画の時代を築いたマキノ・プロダクションに入社したことから始まります。初の監督作品は戦前の1932年2月に封切られますが、この無名の監督の作品を見た当時の著名な映画批評家が、衝撃を受けて映画雑誌に賞賛した文章を寄稿。これによって、山中貞雄の名前が一気に知られるようになります。

それ以降、1930年代に次々と意欲的な作品を生み出し、その地位を不動のものにしますが、1937年8月公開の『人情紙風船』撮影中に、盧溝橋事件を契機とする日中戦争が開戦。山中貞雄ら映画制作者は、自分も徴兵されてしまうのではないかと不安を感じる日々を過ごします。そのような不穏な中で、何とか作品を封切った8月25日に召集令状が届き、山中貞雄は映画を制作できない無念に打ちひしがれながら、10月には中国に上陸します。残念なことに、山中貞雄は日本に帰還することはなく、1938年9月17日に中国で28歳の若さで病死してしまいます。この訃報を聞き、親友だった小津安二郎は絶句し、日本映画の未来を山中貞雄に見ていた関係者たちは意気消沈します。

たった5年間という短い活動期間中に、全26本もの作品を世に送り出した山中貞雄。実は日本映画史における厄介な問題は、この時代に呼応して始まっていました。それがフィルムの物理的な存在です。現在のデジタルデータで分散管理する方法などなかった当時は、フィルムという物理的な物が無ければ映画を見ることはできません。しかし、時代は激戦の第二次世界大戦期でもあったため、日本の実権を握って暴走を初めていた陸軍主導の軍部は、映画は国民を洗脳するために優れたイデオロギー装置以外の用途では使わないと考えます。ここで映画の持つ可能性を極限まで狭めた上、情報統制で全ての作品を細かく検閲し、また制作者たちの思想管理も徹底したため、当時の制作者はフィルムの保存・管理に気が回る以前に、どうすれば軍部の許可を得て作品を公開できるかということに集中していました。その結果、保存・管理に注意が払われることはありませんでした。

また、当時は軍部が占領していた満州側にも満州映画協会が設立されており、ここで満州に派遣されていた軍人のために、日本映画が頻繁に公開されていました。実はある意味、この満州の映画上映が結果的に分散となるのですが、当時の人々には知る由もありません。そして戦況が悪化すると、日本本土に連合国軍の空爆が日々続き、都市部は焼け野原になったことから、映画制作を担っていた各地の撮影所や保管所、映画館などが軒並み焼失。特に東京の空襲によって、膨大な数の戦前の映画フィルムや関係資料が失われてしまいました。

ただし、この時には東京や大阪などの映画フィルムは悉く焼失しましたが、京都は空襲がなかった影響と、戦前から京都に映画制作の撮影所があったことから、かなりの数のフィルムが残っていました。ですが、戦後の1950年に日本映画界に留めが刺されます。京都の撮影所に保管されていた戦争を生き延びた戦前の膨大なフィルムが、連日の高温によってフィルムの自己分解反応が起きて発熱。これを契機に爆発的に発火・燃焼したことによって、京都の松竹下鴨撮影所で火災が発生します。ここで戦前の膨大な数のフィルムが全て焼失してしまい、この出来事によって、戦前の映画の大半は未来永劫見ることが不可能となります。

実際、山中貞雄も26本の作品のうち、ほぼ完成系で現存している作品は僅か3本しかありません。同じように、著名な小津安二郎や溝口健二なども、戦前の作品は大半が失われており、見ることはできません。現存した僅かな作品だけでは映画史という観点で評価は難しいのですが、幸いなことに小津安二郎や溝口健二は戦後も映画界で活躍したため、それなりに評価が可能となり、1950年代以降に急速に国際的評価が高まる要因となります。しかし、山中貞雄の場合、戦前に活躍し、今から大活躍するという時に戦争の過程で亡くなってしまったため、残念ながら中々研究対象にはならず、現存するフィルムは、1935年の『丹下左膳余話 百萬両の壺』、1936年の『河内山宗俊』、1937年の『人情紙風船』だけとなっています。

ただ、日本映画界にとって悲劇的な戦争と戦後の火災に対して、希望を与える大きな出来事が二つありました。一つは、満州映画協会が保管していた膨大なフィルムが、日本の敗戦と共に満州に進駐してきたソ連軍によって押収され、国立の映画アーカイブであるゴスフィルモフォンドに運ばれて、そこから長年良質な環境で保管されることになったことです。そして、ソ連崩壊後の1990年代から2000年代にかけて、これらの戦時期に満州から押収された多くのフィルムが日本側へ返還されたことで、これまで失われていたと思われていた多くのフィルムを目にする機会が訪れました。

この恩恵は、山中貞雄の1935年作品『丹下左膳余話 百萬両の壺』にも、もたらされます。戦後日本を占領したGHQは、日本を西洋的な民主主義へ方向づけるために、従来の映画で人気題材となっていた殺陣など侍が戦うシーンを厳しく制限し、戦時中の軍部に代わって戦後日本映画の表現に徹底的な検閲をかけます。その結果、戦前に発表されていた山中貞雄の同作品のクライマックスシーンが問題視され、フィルムを物理的に切断、破棄されてしまいました。そのため、長らく同作は完成品ではなく、クライマックスが欠如した状態で放映されていました。

しかし、ロシアのゴスフィルモフォンドから返還されたプリント、国内外で新たに発掘されたポジフィルムなどを照合した結果、破棄されたシーンの復元に成功。これによって、かつて80分程度のバージョンだったものが、2023年1月に本来の姿にかなり近い92分のバージョンとして蘇り、発売されました。さらに1936年の『河内山宗俊』は、元々日本に現存していたものの、画質が荒く、画面も暗いコピー版が主流だったのですが、ロシアから返還された35mmプリント、満州映画協会関連アーカイブから良質な素材が発掘された結果、これらを基にデジタル修復が行われます。さらに最後の作品となった1937年の『人情紙風船』も、元々国内に残っていたプリントは劣化が激しかったのですが、ソ連軍が押収して管理していた保存環境の良好から、音声や映像の質が劇的に回復し、こちらも返還時に大きな恩恵を受けます。

こうして従来、中々見ることができず、また見ることができても、かなり劣化したバージョンしか現存していなかった山中貞雄の作品が、かなり質の高い状態で見ることが可能となってきたため、急速に再評価が進み始めたのがこの数年です。

この山中貞雄の何が凄かったのかについて、昨日も散々話していて感じたのですが、彼が戦時中に亡くならず、戦後に映画制作に復帰したてら、日本映画史は大きく変わっていただろうということは、私も彼も同意見でした。個人的には、仮に山中貞雄が生きて復帰した場合、戦後日本映画の巨頭である黒澤明の作風が大きく変わっていたのではないかと考えています。というのも、山中貞雄は戦前の時点で、侍を登場させる映画、あるいは任侠を登場させる映画(ヤクザのこと)などを扱っており、その描き方があまりにも見事だからです。これは単に演技として、当時チャンバラと呼ばれていた戦いのシーンを派手に見せることで侍を美化し、懐古心を煽って人気を高めるということではなく、むしろそういう観客への卑屈な迎合がない。彼の描き方は非常に哲学的、文化的な観点から、これら心理的側面も見事に映像表現していた唯一無二の存在です。

特に山中貞雄の映画における最大の特徴を、私は「情け」という概念から考えています。情けという概念は、日本の諸概念の中でも論じることが最も厄介なもので、言葉で理解するのではなく、体得する以外に方法がないと言えるものの一つですが、山中貞雄の最後の作品となってしまった『人情紙風船』のタイトルを見ても理解できるように、この「人情」というのは「人の情け」です。つまり、「人の情け」がまるで「紙風船」のようだという捉え方で、山中貞雄は独自に心の揺れ動きという繊細でありながら深淵な概念を映像化したのです。同作で描かれる様々な出自を持った人々の心の動き、そして情けの動きを見ていると、この情緒・情感などを映像表現するというところに関しては、群を抜いていたのが山中貞雄です。

もしも、彼が戦後に生きていたならば、この人情の観点を戦争体験を経てどのように再解釈し、日本映画に打ち出したかということは個人的にも非常に興味深いことで、そうなると戦後に華々しく登場する黒澤明の侍映画、あるいは1960年代中盤頃から高まる任侠映画のブームなども大きく変わっていた可能性があります。それほど、たった一人の映画人の死というものは、衝撃的だったということです。

もう一つ友人との話で興味深かったのは、日本映画の研究学会にも、日本社会の負の縮図と言えるような状況があることを散々伺えたことです。日本では学問が考えられる時、奇妙なことに一人の学問の創設者を崇拝してしまう傾向があり、それが必然的に巨大な派閥を生み出し、他の異論は許さないという研究とは本質的に一切無縁の無意味な風潮に陥る傾向があります。典型的なのが民俗学です。柳田國男という一人の人物が民俗学を開いたことによって、実は日本の民俗学の歴史は、民俗学を学問としてやってきたのではなく、柳田の意見に従う人たちが、柳田の意見を守るためだけに他の異論を受け付けないという非常に誤った態度で継続された閉鎖的なものです。ゆえに、こうした学問を民俗学と言い切ることはできず、むしろ私は柳田学だと考えています。

それに対して、それは民俗学ではない、柳田という個人崇拝でしかないという批判的立場から、自らの研究を行い続けたのが折口信夫や坪井洋文などの心ある民俗学者ですが、当然、民俗学(柳田学)学会は彼らの意見を異端視して全く受け入れませんでした。いや、今も彼らの意見はほとんど受け入れられておらず、無視され続けています。問題は、これが民俗学に限った問題ではなく、こうしたことが全方位的に学問全体で起きていることです。他にも、日本の国語学で言うと、時枝誠記という東京帝大の国語学者が登場して以降、国語学というものは時枝学となってしまい、その後続の人たちは国語学を学問として研究するのではなく、時枝の論調をただ守るということだけしかやりません。結果、日本語ではないものが日本語だと位置付けられるようになります。要するに、学問ではなく偽装です。

これらが様々な方向で同じことが行われているのですが、映画研究の世界も全く同じです。特に映画研究の世界においては、初期的には映画研究というジャンルも学問もなかったため、在野の評論に強く依存していました。フランス発のヌーヴェルヴァーグと呼ばれる動きでは、評論家は映画作りを知らないという批判的視座から、評論もやり、映画も作るという従来なかったクリエイターの大きな流れがありました。この流れを受けて、日本でも1960年代に入って大島渚、吉田喜重、松本俊夫などの若手が続々と登場するのですが、彼らは実際に映画制作と評論をかなりやっていました。

ここで、絶対的な存在として君臨していたのが、蓮實重彦です。蓮實重彦は、日本映画の評論の世界においては絶対的な存在であり、後に東京大学で映画を論じる教育学部教授となり、そこで表象文化論なる提唱を掲げて映画研究の基盤を打ち立てます。実際、日本で映画研究をする全ての研究者は、この蓮實重彦の表象文化学会に属さなければならない暗黙の掟があることを、昨日の友人は話しており、蓮實重彦が映画評論というものを独自に学問として固定する動きに入ったことが見えてきます。

しかし、この表象文化論という名前からして、私には感じが悪い。そもそも、表象文化なるものは映画ではないと私は考えており、これらは典型的にシニフィエしか見えない人々の戯れでしかありません。しかもある意味では、自分たちはシニフィエしか文化として見ないと宣言しているような愚行さで、このような観点から映画を見てしまうと、評価軸が大きく変わってしまうことは当然です。

なぜならば、要は誰の目に見ても分かりやすいシニフィエが、ただ羅列された映画が評価されるわけですから、かつての山中貞雄が持っていたような「情け」などの日本文化独特の文化精神的な側面は全く無視され、見えないものとして破棄されてしまいます。なぜならば、これらはシニフィアンとして連鎖しながら作用しているからですが、蓮實一派(事実上の日本映画の研究者の世界)は、この蓮實重彦の表象文化論に従う必要があり、事実上、他の異論を受け付けません。つまり、研究が全く進んでいないという状態に陥っているのです。この蓮實重彦(まだ在命していますが)が遺した負債は、この影響を受けた後続の研究者に、あるズレを来たす問題を生じさせています。それが、フィルム原理主義です。

表象文化論によってシニフィエだけを見る無能な研究者が大量発生した結果、何と映画のフレームワークを制作者ではなく、研究者側で決めてしまうという文化に対する暴力を発揮。フィルムを用いたものだけが映画であり、デジタルは映画ではないという奇妙というか馬鹿げた考えが蔓延しています。実際、フィルムの収集は、確かに物体である以上、経年劣化などから、当時の技術的理解などさまざまな困難があるものですが、一方でデジタルフォーマットを無視する視座は、あまりにも愚かであり、フィルム時代の過ちを繰り返しているだけに過ぎません。

特に映画は、上映の際に特殊なデジタルフォーマットに変換しなければなりません。例えば、今私たちが写真を撮れば、画像データの大抵はJpegでしょうが、例えば100年後に新たなフォーマットがスタンダードになっていれば、Jpegで保管されている現代の想像を絶する枚数の画像データは、事実上、ただの過去の情報ゴミでしかありません。つまり、私たちはほとんどフォーマットについて考えておらず、もしかすると膨大な情報ゴミを生成し続けているだけに過ぎないのかもしれません。

こうした一人の絶対的な存在を神格化することは個人の勝手ですが、それを学問として位置づけてしまうことによって、批判精神はなくなり、次の道が開けなくなり、ただその人たちの言っていることに従い、保持するだけで社会的ステータスを得るという転倒した状態に入っていきます。これが日本において全ての学問の領域において起きたことによって、極端な疲弊が起きているという風に私は見ているのですが、映画研究にもこうした問題があるとは知りませんでした。

映画には、シニフィエしか見ることのできない人たちには察知できない、あるいは論じることができないものが豊富に含まれており、むしろ映画などの映像メディアにおいては、そちら側の方が強いと私は考えています。シニフィエの意味をどうだとか論じることは無意味で、制作者を馬鹿にした態度です。そうではなく、山中貞雄で言えば「情け」などの情感や情緒をいかに掴み取り、どう汲み取っていくのかというところにこそ、本当の研究者としての態度があるはずです。

この転倒は、蓮實重彦が論じた小津安二郎に対する評論が、とにかくシニフィエの列挙で埋め尽くされているだけで悲惨を極めていることから理解できます。小津映画のこの衣装がどうだ、この家の作りがどうだ、このカットのシーンがどうだ、などとひたすら説明を続けているだけで、小津安二郎の映画を何も論じていません。

一方で、ヌーヴェルヴァーグの時代に突如現れた映画監督・吉田喜重は、この蓮實重彦の見方に賛同せずに、独自に小津安二郎に関する本を書き上げています。本来、映画制作者が他の映画監督、特に巨匠と呼ばれる人を論じることが非常に難しいことは、彼らが一番分かっています。なぜならば、映画とは一概に論じられるものではなく、ましてや他人の映画を論じることが不可能である限界を、誰よりも知っているのが彼らだからです。

しかし、そうした中で吉田喜重の論じた小津安二郎の映画は見事で、ある意味では、蓮實重彦の提唱する表象文化論ではないところに映画の姿があることを開示し、それを「反映画」という呼び方で呼んでいるあたりが秀逸です。いかにも1960年代の空気で育った反骨精神ある表現者だと感激しますが、ここで吉田喜重が使用している「反映画」とは、映画に対する反動ということではなく、「映画」を恣意的に規定する蓮實重彦の唱える表象文化論における映画解釈に対する「反-映画」という立場を示すものであって、蓮實重彦は「映画ではない」ものを論じているに過ぎないという風に捉えたものです。

吉田喜重の想いは、研究者は好き勝手に敬意も映画への愛も持たずに論じてはならず、ましてや一人の意見に従属してはならない。映画人の心の中をもっと見なければならないのではないかという時代に対する疑念を提唱したということです。

山中貞雄の作品を見返していると、ここまでの「情け」を映像表現する人物は、もう二度と現れないだろうと思うと同時に、もしも彼が戦後映画界に復帰していれば、相当日本映画史は置き換わっただろうなと不思議な気持ちになります。