茶道と政治に共通するものWhat Tea and Politics Share
この数日、二人の読者からの問いに答える形で「茶道と政治」という異なるテーマを連日扱いました。私にとっても、全く別の素材でありながら、どこに共通する問題があるのだろうかということを考える良い機会でした。つまり、日本の伝統文化における代表的な茶道の現状と、政治における日本の現状という二つの異質な像を重ね合わせながら考察していたのですが、一見するとこうしたテーマは全く無関係の離れた位置に思われるかもしれません。ですが数日間、これらを思索しながら書き綴っていると、ある共通点が潜んでいることに気づきました。それは日本の概念で「思い遣り」と呼ばれるものです。
茶の湯を源流とする茶道のおもな本質は、その形式や美学にあるのではなく、主人が客人に対する、あるいは客人が主人に対する思い遣りに真価があります。そして現在の茶道が形骸化した理由を、私は思い遣りが失われたことにあると考えます。このように、思い遣りという茶道における本源を失い、形式化してしまった現状を見つめながら、続いて政治側の考察を行っていると、ふと、共通するのは「思い遣りが失われた世界」に私たちは立っているということに思い至りました。テーマとしては、日本の伝統文化や政治とは言えるものの、私は常に日本のテーマを深く洞察しながら、世界のテーマを共時的に扱っています。そこに普遍があるという考えを持っているからです。ゆえに、「思い遣りが失われた世界」こそが、現代世界最大の問題の本源であると考え始めています。そこで今回の記事では、この翻訳し難い「思い遣り」の哲学的考察から入ります。
各国の政治家の言動を見ても分かるように、そこには思慮もなければ深い知性もない、単に喚き散らかしている無責任な連中の腐敗した姿が映ります。なぜかと言えば、彼らには思い遣りがないからです。思い遣りなき世界の言動においては、必ず扇動が勃発します。この思い遣りを喪失したことによって、日本、あるいは世界は極端な衰退と荒廃を自ら招いているのではないか。知識人や政治家は、国際会議などで現代の問題を解決しようと日々議論を行っているようですが、そもそもそれらの議論を無数に重ねたところで事態は何一つ変わっていないどころか悪化している事実があることには、目を向けていません。要するに、根幹を見ていない状態で続けられているパフォーマンスに過ぎないではないかという疑念が私には強くあります。もしもそれが、思い遣りという人間にとって非常に本質的なものへの無視、あるいは軽視にあるのだとしたら、これは大変大きなシフトを必要とするように思えてなりません。思い遣りは一般的にcompassionと訳されるのですが、どうも違和感がある。そこで一度、この思い遣りという概念を独自に提示してみます。
日本語で「思い遣り」(思い遣る)と書きますが、これは「思う」と「遣る」という二つの概念が非分離に組み合わさったものです。この本義は、何よりも自分自身が「思う」ことからすべてが始まるということです。ただし、「思う」だけでは単なる空想に過ぎず、私たちは人間として生きていることにはならない。ゆえに、単に「思う」だけではなく、その「思う」ことを実行しなければ、真に「思う」ことではないということです。それが「遣る」の本義です。その「遣る」の実行は、「思う」ことの本源から真に表れるものでなければならず、それはその思いを自分自身、そして他者に「遣る」という行為です。厄介な点は、前述のように「思う」と「遣る」が分離した状態でここを理解してしまうと、思うことと遣ることが別々に捉えられてしまい、非分離ではない分離した状態に至る転倒が起きることです。
個人的には、まずは徹底的に自分自身を思い遣ることが、現代人には自分自身を取り戻すために希求されると思いますが、その上で、他者に自らの畑で採れた作物をお裾分けするように「遣る」ということです。それは心遣いです。
重要なことは、思い遣りは自分を思い遣る、他者を思い遣る、季節を思い遣る、自然を思い遣るなど、自他あるいは主客の分離がないことです。その感覚が通底したものとして、文字通り全ての生命にその思いが感応することを本義とします。つまり、この「思い遣りの心」を、私は人間であれば誰もが持つものであると捉えています。ただ境遇や社会状況など時代において、常に人々の心は本源から疎外され、我を見失うことは歴史的に通底していますから、文明が進めば進むほど、この本源を見失う人々が圧倒的多数となります。だからと言って、その数がゼロにはならないのが人類史の面白いところ。
これは言い方を非常に気を付けなければなりませんが、思い遣ることの心によって、自分と他者の分離を解きほぐし、相手の本源にある「思い遣りの心」が発現する動因となることです。悟りの位置はここにありますし、宗教的な問答はこれを各々の方法で目指したものです。心は一人ひとりが持っているものであるため、その思い遣りを受けてその人の心が発する、つまりその心が応答するということ。そうした問答によって、人の生命をハツラツとさせるということが可能だということです。ちなみに問答が必ず言葉を要すると考えるのは誤りで、ここから触れていきますが人それぞれの特性を見極めて問答は常に動きます。言葉を使って悟る人もあれば、行為で悟る人もあり、沈黙で悟る人もあるという具合です。悟りは多元的なもので、たった一つの回答があるわけではありません。
つまり、「思い遣りの心」を持つこと。これこそが、現代を生き抜く私たちにとって最も重要なことなのではないでしょうか。というよりも、今以上にここからの動乱の時代を生き抜くならば、この「思い遣りの心」は絶対に持っておかなければならない根幹だと考えます。
現在の世界は確かに複雑であり、様々な問題があり、もはや誰も何も解決できないほど問題が山積みとなっています。個人が全ての問題を見ようとするだけでも、日々やるべきことから遠ざかり、忙殺されることは避けられない。しかも厄介なことに、そうした中で誰もが無名の圧力によって意見を求められ、何かしら決断をしなければならないことも多い実情がある。ですが、それが本当にあなたの生きる道に必要なのか、あなたの使命なのかと言えば、実は大半の人々はそうしたものとは完全に無縁なはずです。誰もが意見を求められる状況だからこそ、あえて意見しないことも必要です。何しろ、人間は同じ時代を生きている以上、その特定問題に発言せずとも、自分自身のテーマで発言していることは必ず時代性において共時しているからです。
それに、もはやそうした停滞の場に立ち止まっていても、結局何もならないことを私たちは既に気付いています。ゆえに、この現状にあってなお、民主主義を問うとかそういうことが重要なのではない。唯一一点の問題は、私たちが何を考えてこなかったのかという本当の根本に今一度立ち返えることです。そうしなければ、この衰退というか衰亡から一歩も逃れることができずに、80億人規模で窒息する運命に向かうことは避けられません。私は大きく見れば、人類はこの窒息する運命に帰結すると考えますが、だからと言ってそれらと心中する義理はない。
この問いの根本的転換は頭で考えると確かに難しく感じるでしょうが、何も難しいことではありません。何しろ、一人ひとりの本質として本源に持つ「思い遣りの心」を、しっかりと見つめ直すことから全てが始まるからです。ゆえに、私は世界的な議論が無駄な時間潰しに陥っている本質的な要因は、その議論の主人公が自らの心を見つめ直すという内省を行なっていない状態で登壇し、好き勝手に発言しているからだと見ています。自己の内省と真摯に向き合い、そこから生まれる思考などの言葉は思慮に満ちていますが、それは言葉の飾りとしてではなく、「思い遣りの心」を弁えているからです。自分自身を思い遣る人は、他人を決して蔑ろにしません。ただし、ここから述べるように、それは世界的使命として「人類」という不特定多数を決して対象に置かないことです。ここがこれまで世界基準で物事を考えてきた人々には、完全に見えていません。
思い遣りの心は誰もが持っているものであり、様々な形で日常生活において通底していたものです。では一体、なぜこの思い遣りの心が失われてしまったのか、そして人々はこれを自覚できないほど本源の位置から離れてしまったのか。人類規模で混乱し、人間が人間ではなくなった転換点は、この洞察に鍵があることを強く感じます。
ここで私は一つの示唆として、サービスとホスピタリティという層から考えることが有用だと考えます。今回は大別から始めていきます。サービスは、この思い遣りが希釈化される位置に設定されて為されるものです。つまり、サービスはどれだけ良いサービスであっても、そこには思い遣りが必ず時間と共に消失して反転する構造を基本に持っています。人を思い遣り、自分自身を思い遣る心を喪失するということです。
一方でホスピタリティは、この思い遣りを最初から最後まで通底させることにおける徹底において、サービスとは全く質が異なります。気を付けることは、サービスとホスピタリティは同じ界域の言説ではないということ。根本的に考える思考の界域が異なることです。要するに、「サービスかホスピタリティか」という同じ界域で問題設定を行う時、もう転倒してしまっています。ホスピタリティは、サービスのように時間経過によって劣化し、必ず転落するようなことは起きずに、時間を無化する世界に在ります。
一言で言えば、ホスピタリティとは、たった一人のために全てを為すこと。サービスとは、不特定多数に対して一定の品質のサービスを為すということです。
つまり、そこに微塵の差異があってはならないのがサービスの鉄則です。よく日本はサービスが良い国として語られますが、感性の高い方々なら、日本に来訪した時のサービスに違和感というか、心理的な嫌悪を感じることがあるはずです。そしてその感覚は正しい。私は日本のサービスは下劣を極めていると感じて不快になることばかりなので、大前提としてサービスシステムの店などには絶対に入りません。実はこのサービスとホスピタリティの問題を頭だけではなく身体でも考える上で、日本ほど最適な場所はありません。むしろ日本においてこの問題を真剣に思案することによって、悟りを開くことが可能です。
日本は世界一サービスに転倒し、しかも、そのサービスが社会システムの根幹を支える基本原理となっている異質な国だからです。ですが、実はかつての日本ほど非サービスの国もなかった。日本の本質はホスピタリティにあったのですが、歳月をかけてサービスに席巻され、ホスピタリティが消去される時代があったということです。この歪な構造のズレは、今も日本各所で感じ取ることができます。ホスピタリティはサービス社会システムによって表向きには消去されていますが、僅かにそうしたホスピタリティの残渣や残存があるからです。ただし、これを見つけようと思うだけでも相当時間と労力を要します。なぜならば、サービスとは異なり、ホスピタリティは人だからです。
サービスは、差異があってはならない前提に立ち、全ての人々に平等で平均を提供しますが、ホスピタリティでは、この差異というものがあって当たり前だという前提に立ちます。なぜならば、その人だけを見る、たった一人だけを見て全てを為すからです。ゆえに、そのたった一人が変われば、当然やり方も全て変わってくる世界です。
ここにおける差異とは、人間が人間である以上、必然だということの心構えが要されるのですが、如何せん現代世界は平等の観念を乱暴かつ杜撰に考えるため、このホスピタリティを差別的・選民的と見做す人々が絶えません。この倒錯は、断じて違う。ホスピタリティこそ、私たちが行き詰まっている現代の先へ進む突破口です。この問題は文化に限らず、テクノロジー、医療、科学、教育など全てに共通しています。重要なことは、全てをサービスからホスピタリティへ置き換えることではなく、サービス一辺倒に過剰化して崩壊しているバランスに個々が依存せずに、ホスピタリティの場所を各地で人々が同時多発的に作り出していくということです。もうお気づきかもしれませんが、サービスは持続的な右肩上がりの発展をコード化していますが、ホスピタリティは「たった一人」への思い遣りによって終わりを迎えれば離散します。つまり、右肩上がりの世界ではないということです。
サービスは、ホスピタリティが持つ人それぞれの差異を強硬的に消去して蹴散らし、一方的に均一化します。しかも現在では、一つの地域や国というものを超えて、グローバルに展開するサービスになってしまっているので、人間は本来皆が違っているというホスピタリティが持つ絶対条件を無視した領域にサービス社会が設定され、そこに世界システムを紐付けて偽装を行い続けています。この問題に関連するのですが、ここまでを考えた上で、改めてソーシャルメディアが人間の関係を破壊したという既存の視座は妥当なのかを考えると見えてくるでしょう。
この結果、人々は一定のサービスを受けることに順応してしまい、ホスピタリティが見えなくなります。そしてサービスという均質に飼い慣らされてしまっているため、たった一人のために為すホスピタリティを理解できず、差別的・選民的だと考える倒錯に陥ります。この時に、彼らから消えているのが「思い遣り」だということが非常に重要です。はっきり言えば、先進国になるということは、ある段階でここを消す作業に誰もが入るということ。そして必ず先進国の帰結は、似たような地平に向かうということです。
きっとこのテーマの思索は、読者それぞれに思うところが多く生まれるだろうと思います。まずは世界に対して自分が何に違和感を感じており、今の状態があるのかということから思索を始めていけば、この思い遣りの心の喪失という現代人にとって最大のテーマが見えてくるでしょう。