C:\SHITSURAE\> TYPE SJ253.TXT

SJ253.TXT2025-12-1436KB

感情は構わないが、心持ちは如何かEmotion Is Fine; What of Your State of Mind?

脆弱性に対抗する方法は様々でしょうが、とは言っても急に免疫をつけることは健康同様に難しいものです。健康の道は一日では実現できないように、やはり脆弱性への免疫を高めて強靭な生命力をもって人生を歩むためには、日々の一瞬一瞬をどのような心で過ごすのかということに集約されるでしょう。

誰もがスタートラインは同じであっても、この最初の心構えの如何によって、歳月が経てば経つほど致命的な差が生まれる。才能の如何がどうであろうと、誰にとっても重要なことは心構えがどう立てられているかということですが、これも急に今日や明日に実現できるものではありません。というよりも、心構えはあなたの人生の現在時点の集約であり、結果の集積ですから、日々の一瞬一瞬で何を思考し、どう生きてきたかということの集大成なのです。いわば、人生とはそうした集大成の今、ここにおける際限なき連続性において為されているため、この心構えを真摯に立てる決意と覚悟が要されます。

特に既に不安定というレベルを超えた世界同時不安定の崩壊期に差し掛かっている不穏な現在、そしてここから本格的に始まる激動の世紀を生き抜くためにも、最後まで頼りになるのは結局この自分自身です。容赦なく多数を淘汰していく時代においては、とにかく外的世界の出来事に翻弄されず、最後まで己の心構えにおいて打ち立てられた錨である信念を貫けるか否か。まだギリギリ平穏な時間を過ごせる最後の期間だからこそ、私たちは一人一人がこの新時代の激動における最大の武器を今のうちに準備し、試行錯誤しながら育んでおく必要があるはずです。この期間の試行錯誤は、必ず10年後のあなたを救うことになるでしょう。

こうしたことを考えている時、重要となることは、私たちはそもそも出来事そのものによって傷つけられているのかという点を問うことです。現代社会は、他者との関係や仕事においてストレスに満ちており、それを回避することは不可能に近いと言えるほどの包囲網が巡らされています。さらに環境汚染や劣悪な食品の蔓延などを含めて、とにかく人間の心身はかつてないストレスを日夜受けており、一日の始まりから終わりまで、ストレスがない状態で生きることは至難の業となっています。何より、そうした出来事は自分の意図とは無関係に起きるものです。

実は私自身も最近、深く考えさせられる出来事に直面しました。仕事も生活においてかなり信頼を置いていた身近な人々が平然と裏切り、虚偽を語り、あろうことか問題を無かったことにして先送りにしようとする、極めて醜悪な振る舞いを目の当たりにしたのです。こちらに相当な実害が及ぶ問題であったことから、私の感情として沸き起こったのは、やはり憤りであり、同時に悲しみでした。なぜ、彼らはこのような行いに手を染めてしまったのだろうか。こうしたリスクに陥ることを回避するため、この一年をかけて何度も対話と実践を行なってきたにも関わらず、年末に入って彼らが私に隠していた問題が山積みとなり、ついに彼ら自身で対処できなくなって全てがこちらの問題として降りかかってきたわけです。まぁ、これは世間ではよくある話です。

当然、こうした出来事に直面すると感情が高ぶるわけですが、そこでふと感じたことがあります。それは、このような出来事自体が、私の平穏を妨げる敵であると認識していること自体が問題なのではないか。それによって、実は自分自身を傷つけているのではないかということです。

一般的に感情が昂ったときには、一度感情の嵐が過ぎ去るのを待ち、時間が経ってから「全ての出来事には理由があった」と納得し、再解釈するという方法が、これまでの人生論で多く語られてきました。確かに後になって振り返れば、些細な出来事から大きな転機となる出来事に至るまで、人生を一変させるほどの力を持った出来事には、あらゆる学びが含まれていると納得することは可能です。そして実際、これは人生の本質を納得にあると考えている人々にとっては魅力的でしょうし、一つの真理ではあると思います。実際、若い頃に人間がプライドを捨てることができないのは仕方がないことですが、ある時、自分自身でこれまでの人生を納得することによって、プライドを捨てることができたという話も耳にしたことがあります。

また儒教の孔子は、40歳になった時に『不惑』に至ると説きましたが、不惑はそれまでのプライドを捨てることによって迷いが消失し、これまでの過去に固執することをやめて、これまでの人生を自ら納得し、ようやく自分自身の能働的な決意と決断によって人生の主導権を自らに取り戻すことの宣言です。ゆえに34歳の私であれば、まだ不惑に達するには多少の時間が残されていますから、未だそうしたことが難しいのは、年齢的にも未熟なのだから無理はないと納得することは可能です。事実、これまではそのように考えて過ごしてきましたし、人生とは結局は納得の連続なのだろうとも考えていました。

しかし、私がこの出来事に直面した時に痛烈に感じたのは、不思議なことだったのです。

それは、「本当に後で振り返らなければならないのか」ということです。

言葉にすることは難しいのですが、一種の悟りに近い感覚でした。私は元々、感情的になりやすく、周囲との規律を第一とする日本社会では全く馴染めず、とにかく問題を起こすトラブルメーカーのように人生を通じて周囲には見られており、喧嘩っぱやく、口論になりやすく、精神的にも不安定でイライラしやすく、、、などなど、とにかく出来事が起きれば即時感情的反応によって、破壊行動に向かうという性格が強くありました。特に世界有数のストレス社会である日本、さらにその中心部の東京に居住していた二十代の血気盛んな頃を振り返ると、完全に我を見失って感情暴走装置のように日々を送っていました。ゆえに、あらゆる出来事に直面しても、即座に人を上回るほどの激烈な感情で応答するため、当然、かつての私であれば、今回の出来事に直面した時にも、同じように感情的になっていたでしょう。

ですが、この不思議な悟りに近い問いかけは、突然訪れました。人生の本質とは、今、この瞬間にあります。嬉しいことや悲しいことがあったとき、その「後」に学びがあったとするのは容易いことです。しかし、そうではなく、その出来事自体が学びであり、いかなる出来事であっても、その瞬間の自らの「心持ち」がどうであるか、ということこそが学びなのではないかと気付いたのです。いかなる苛立ちや悲しみに直面したとしても、所詮、感情は感情でしかない。この時、私たちが真摯に向き合わなければならないのは、果たしてその出来事において、自分自身の心持ちはどうあるか、という一点です。

出来事が起きた際、その原因を他者や社会、あるいは親や教育などの責任にすることは、誰にでもできる容易いことです。それに現代社会では、どのような些細な不満であっても、ソーシャルメディアを通じて発信すれば、一定の賛同者を得ることができます。しかし、出来事と自分を切り離してしまえば、そうした学びの機会は二度と巡ってきません。というよりも、出来事と自分を切り離して分離していること自体が、こうした本質的問題なのではないかと考えたのです。事実、出来事を後々振り返って納得することも前述の可能ですし、それなりの処世術としては使えるのでしょうが、それは社会的な振る舞いでしかなく、人生それ自体とは無縁です。人生の本質というのは、その出来事において、出来事と自分の心持ちを分離させずに、出来事における自分自身の心の動きがどうなのかということを真摯に理解することに努め、その上でじっくりと、冷徹に観察することによって心持ちを整えること。これこそが、人生の学びなのです。

私は、個人的には非常に不愉快な経験の中に身を置きながら、この経験を後に振り返って再解釈(納得)するのではなく、その渦中に身を置いて今も実際にその心や感情の動きを通じて、心持ちを自分自身の中で真摯に見つめて整え、育むということを行っています。これは言い換えれば、自分の命の手綱、人生の手綱を、環境や他者に明け渡してしまっている状態を止め、主権を失った魂が彷徨うのは当然だと考え直し、自分自身に主権を取り戻すということを、認識の観点から完全に変動させるということです。認識というよりも、思考自体が生まれる地盤をdisplacementすることですが、これこそが真の学びであり、人生であるとするならば、もしかすると私に限らず、大勢が誤った考え方によって人生の大半で最も重要な学びの機会を逃しているのではないかと思えてきます。

私たちは、この果てしない摩擦やストレスから、いかにして距離を置くのかについて考えると同時に、この出来事が様々に起きる中で、精神の自立を取り戻すためにはどうすればよいのかを考えねばなりません。そして、なぜ私がそうした出来事に直面した瞬間に、このような思考に至ったのか。逆に言えば、私にとって大きな転換点となるような深刻な出来事の中で、自分の心持ちこそが真の学びなのだと捉え、そこに立ち向かっていく中で、気づきが生まれてきたのか。これについて自ら考えることは、人生において極めて重要な示唆を含んでいます。

現代人の大半は、書物を読み、見識を増やして知識を広げることこそが、精神の摩擦やストレスから距離を置き、精神の自立を取り戻すために重要な知性だと捉えます。確かにその通りでしょう。個人的には、ここからの時代には安易に簡潔化されて文脈を削ぎ落とされた動画からしか知識を得られない人々と、古典的にテキストをじっくりと熟読し、文章の意味されたものではない、その背後にある広大無辺の思考の宇宙(文脈)に達しようと能働的に読むことから知識を得られる人々とに、大きく二分化されると考えます。実際、この波はこの10年で誰もが実感できることでしょうし、一見すると今も大半の人々は、この動画メディアを基本とする知識の増幅が今後も高まると考えるかもしれませんが、実情はそれほど単純ではなく、動画メディアのバブルは既に崩壊しており、今は再編期にあたります。ゆえに、今後ますますテキストを読み、書ける人物が有利になる現象が起きてくるのですが、これは二十一世紀が宗教と哲学の時代ということにも呼応しています。つまり、AIの台頭は確かに全てのメディアに革新を与えるものであったし、実際2025年の一年間は動画生成の観点ではとてつもない台頭を遂げました。しかし一方で、実はAIの本質の背後にはテキストメディアの復権があります。

しかし、ここにこそ致命的な断絶がある。つまり、いかにテキストを熟読する技量があったとしても、問題はそのテキストを「読む」ことが何であるかということにおいて、実はここにも極端な二極化が存在し、この裂け目は次の時代の先導者たちを分別する一つの選別装置となっています。いわば、どれだけテキストを読んでも、それが単に意味されたものを知識として理解する近代的方法の踏襲ならば、実は次の時代に生き残ることさえできない。なぜならば、人間の脳の処理能力を凌駕したAIの技量の本質は、この意味されたものを知識として解釈することだからです。この意味での知識とは、すなわち意味されたものだけを解釈し、それを知識として正当化するあり方のことを言いますが、このような知のあり方には未来はないということです。そうではなく、テキストを通じて意味されたものではない、意味されるものを洞察・考究し、それを真摯に向き合って文脈から宇宙を読み取ることのできるリーディング能力こそが、未来です。ここに真の知識がある理由は、この知識とは既存のリファレンスやリンクによって示されるものではなく、人類の叡智として過去・現在・未来の知識として保管されている書庫から引き出されたものだからです。

端的に言えば、「物事を離れて知性に至ることはない」ということ。物事から分離された知性というものは、本質的には存在しない。それが誤ったものであるとしたとき、おそらく近代以降のほぼ全ての学問というものは、この時点で淘汰されるべき対象として射程に入ってきます。なぜならば、物事を離れて知性があるという観点でこそ、「近代の知」というものは偽装されながら無限増殖を遂げてきたからです。つまりこうした考えは、そもそも近代の根幹自体を強く問い、激しく揺さぶる力を秘めています。

そこに対して実践というものが関与してくるのですが、この実践とは、頭の中で考えたことを目的行動に移すということではありません。それが、出来事の意味を後になって振り返るということです。そうではなく、出来事の中に心を置いて、自分自身の心持ちを正していくという非分離の実践こそが、実は真理なのです。この出来事は物理的な物体だけを指すのではなく、あなたの身に降りかかる事象や人間関係、突発的なトラブル、そしてそれによって引き起こされる感情の揺らぎなど、全てです。

こうした中で、学びというものの真価が少し浮上してきます。それは、引きこもって世界から遮断することでもなく、不条理な現実自体に直面し、心が千路に乱れるその瞬間にこそ、最も学びの場であるという認識の移動です。例えば、理不尽な叱責を受け、腹の底から怒りが湧き上がったとしましょう。現代的な処世術では、その怒りを深呼吸で逃し、無かったことにして笑顔を作ることが正解とされるかもしれません。そして、その無かったことにした怒りを、代替として他者にぶちまけたり、あるいは消費行動などによってストレスを解消することや、マインドフルネスによって社会を生き延びようとするかもしれない。実際、これがこれまでは正解だとされ、後になって「あれも良い経験だった」と無理やり意味づけを行うことが横行してきました。重要なのは、この無理やり行われている意味づけというものは、常に自分自身の心に由来するのではなく、社会的な規範に由来しているということです。つまりこの時点で、出来事あるいは事物と、自分たちの心は分離しているのです。これが、真の学びというものに人々が到達できない一つの重要な理由です。

重要なことは、怒りを感じることや、感情を制御しようとすること自体が、そもそも間違っています。こうしたものは気象現象と同じであって、止めることはできません。感情が荒れ狂うこと自体は、未熟さの証明ではないのです。重要なのは、その感情の渦中にあって、あなたの心持ちがどこにあるかを見つめること自体にあります。これが学びです。感情というものと、心持ちというものは同じ次元にあるものではないため、感情によって心までが左右されて翻弄されていること自体が問題なのだということです。これによって、人生の質が低下します。

逆に言えば、感情というものを最初から受容してしまい、そうしたものが起きる中でこそ、心を見つめて心持ちを正し、それを自分なりに保ちながら修正していくことこそが、人生における最も重要な学びなのではないでしょうか。この学びは、今、この瞬間にしかできないものであって、後で振り返るものではないということです。

ゆえに、感情に飲み込まれて我を忘れるということは、この心持ちを喪失しているということです。逆に言えば、感情を押し殺して何もしないということでもありません。怒りや悲しみという事物、つまりその揺らぎをもたらす出来事から離れず、ただその中に留まり、自己の心の動きを凝視することによって、事物に直接的にありながら、同時に分離することなく知を極めるという、真に実践的な知的行為が可能になるということです。現在の知のあり方が、大きく間違っているというよりも、そもそも捉えられていないのは決定的にこの点です。そこには、こうした観点も、こうした人生も入ってきません。だから発言も議論も空虚になるのです。

嬉しいことがあったから学ぶのではなく、悲しいことがあった後に学ぶのでもありません。その出来事が起きている、まさにその時の渦中において、自分の心がどう反応し、どう揺れ動いているのかを観察し、常に整えること。感情に流されてはならないというのは、心を観るという観点から初めて意味を持つ言葉だということです。そしてそれ自体が、かけがえのない「知の修練」となり、真の知性に至る唯一の道となります。

もしあなたが、最近の私のように、非常に不快な出来事に遭遇し、ただ感情的に反応してその場をやり過ごしたのなら、あるいは早く終わればいいのにと心を閉ざしてしまったのなら、あなたは人生という最も重要な修行の機会を逃したことになります。出来事は、そもそもあなたを苦しめるためにやってくるのではありません。あなたの心の形、その歪みや強ばりを映し出す鏡として、目の前に現れてくるのです。

「感情は構わないが、心持ちは如何か」。

この問いを、何か色々な出来事が日常的にあった時に、一度自分に問うてみてください。この徹底こそが人生の質を上げ、自分自身の知性を高めていく修行の基盤となります。そしてこの修練の積み重ねと試行錯誤の濃度が、ここから始まる激動の時代にあってもブレずに未来に邁進するあなたの絶対的な武器となるでしょう。