C:\SHITSURAE\> TYPE SJ252.TXT

SJ252.TXT2025-12-1341KB

近代の自己家畜化とノマドロジー、信仰と祈りSelf-Domestication, Nomadology, and Faith Without an Object

私たちは、世界は不安定によって形成されているという事実を、様々な形で主張だけはし続けてはいますが、根本的にどこかで履き違えているのかもしれません。つまり、常にここは「平穏ではないどこか」であるにも関わらず、私たちは、まだ見ぬ平穏を夢見て、目の前の現実を耐え忍ぶだけの待ち時間へと格下げしてしまっている現状がある。この夢は近代の夢として数世紀は持続しましたが、今やそのようなものはなかったのではなく、人類は近代の夢に到達してしまっているということです。既に到達して過ぎ去った夢の果てに立っているにも関わらず、議論はなぜか近代を基盤から微動だにすることもできていません。

歴史を考察すれば自明ですが、私たちは歴史を探究することはできても、私たち自身がリアルタイムで生きている時代を考察することは極めて難しい。かつてであれば、その世界は村落レベルでしたが、近代以降は国家規模となり、そして1990年代からは地球規模となってきました。ゆえに、このような次元を一元的かつ端的に論じることなど不可能で、そもそも時代の全貌を明らかにするなど空想も甚だしいことになります。どこかで時代の性質を論じたところで、そこには常に場所という絶対的規制があるからです。

全ての存在は場所から創出される。ゆえに、場所なき議論は空論であり、この空論をいかに無際限に生産・再生産し続けたところで、それは単なる時間という人間最大の資産の浪費となり、一向に事態は先に進まず、人類規模で疲弊に至る状態に陥ります。

一度冷静に、自らの思考の癖がいかに精神を蝕んでいるかを想像してみてください。そして改めて、その思考の癖は、自分本来に由来するものなのかを問うてみてください。現代人ならば十中八九、そのほぼ全てはあなたに由来するものではありません。この時、「思索の余白」が自らの内的世界において開かれ、そこにおいて世界を真に凝視する能働的で静謐な目が開かれます。これが現代の悟りの一つです。

そもそも、一日の大半が予期せぬ出来事や他者との摩擦で構成されている以上、人生そのものをノイズとして捉えてしまうことは、人生の大半を否定することと同義になります。私たちがいかにトラブルを排除し、感情を平坦に保とうと意識し、効率的に物事を進めることこそが成熟であると教え込まれたことを信じていようといまいが、それは近代社会における規範でしかありません。そしてこうした場合、感情が波立つことを、まるでシステムの不具合のように恥じ、見て見ぬふりをして蓋をする悪癖が横行しています。よって感情を露わにすることは未熟であり、問題であると社会的に捉えられてしまい、現代では多くの人がその扱い方に疲弊し、対処不能に陥り、精神の均衡を崩しています。なぜなら、感情に蓋をしてやり過ごす技術こそが、社会規範の優等生だとされてしまい、それに準じない人々は問題があると措定されるからです。これまで、この優等生ほど収入に直結してきましたが、無人化とAIの波によって、事態が急速に反転を始めています。こうした時代が強まれば強まるほど、新たな歴史を創る側に立つのは、それまで問題があるとして社会的に無視されてきた人々です。優等生から文化は生まれません。

まず、どれほど蓋をして、無かったことにしようとしても、そうした未消化の感情は常に自らの心の底に沈殿していく性質を持っています。そして、自分が感情を抑制しようとすればするほど、この沈殿の濃度は高まり、いつの間にか日常生活で全く無関係なことに対しても、過去に蓄積された感情と即座に結びつき、反応として過剰に噴出してしまう。これがいっそう心身を不安定な淵へと追いやるという、悪循環を生んでいます。

苛立ちが焦燥感へ、悲しみは虚無感へと姿を変え、やがて自分が何を感じているのかさえ分からないという麻痺状態を招く。これが現代特有の不眠や、理由なき不安の正体となっていますが、これこそが近代社会の持つ最大の特徴、すなわちシステムへの自己家畜化です。

システムへの自己家畜化は、程度の差はあっても、今や誰もが避けることのできない次元となっています。ここに対して、システムの外に逃れるという旧来的な方法は、今や全く無効となったことを認める前提に立たなければ、物事の本質を見失います。昨日の記事でも少し触れましたが、システムの外に逃れるという古風な方法は、確かに第二次世界大戦前後であれば、一定の効果がありました。米国のカウンターカルチャーの源泉を創造したビートニクの主軸たちは、まさに旅を最もラディカルでアナーキーな次元にまで高める先端の動きとして再定義し、その後の世界に深い影響を与えました。

ですが、それももはや過去の話。世界中で激増しているデジタルノマドを見ても分かるように、システムの外に逃れるという旧来的な方法を、例え旅やリモートワークなどの形で実現したとしても、実は彼らはシステムの外になど逃れておらず、根源的にシステムに内在化されていること自体に変わりはない。つまり、システムの外に逃れたフリをしているが、実は内在化されたシステムの自己家畜化においては、別に定住する人々と相違はないのです。確かに、デジタルノマドは物理的な移動を可能としますから、不安定な世界に対するリスク管理にはなりますし、21世紀の潮流として積極的に推進すべきです。しかし一方で、物理的な移動はノマドロジーの本質ではないということです。これはシステムの外に逃れるという根強いノマドロジーへの誤った理解が、本質的に問われないまま現在に至ってしまったことの亀裂だと見ています。この亀裂の中で、急増する大勢のデジタルノマドたちが、答えを見出せずに悪戦苦闘しているのが現在です。つまり、これはドゥルーズとガタリが提唱したノマドロジーではないということです。

この場合、真っ先に「移動」とは何かという前提から問う必要があります。私たちは、どうしても近代的に実定された言葉や、概念の意味を知っているかのように振る舞ってしまう悪癖があります。ここまでAIが浸透した現在において未だに知識を重視していることや、大学が未だに機能していることがその象徴です。しかし、もしもその「知っている」というあなた自身が当然のように考えているものが、実は単なる辞書的な意味合いでしかなく、本当は知らないという状態を自ら生み出していると知ったらどうでしょう。ここにおいて、あらゆる近代的な概念は全て懐疑的になるのではなく、根源を問い直す視座が要求されます。懐疑主義は何も解決しませんし、知識人の戯れに陥ります。

そもそも「移動」は、単にパスポートとラップトップを持って、飛行機で国境を越えることなのか。こうした現在当たり前だと考えられている一つ一つの丁寧な問いが、最後まで生き残るデジタルノマド(未来)と、この過程で淘汰されるデジタルノマドに分岐する基盤となります。というのも、デジタルノマドの世界的潮流は、まだ始まったばかりだからです。始まったばかりという状況だからこそ、最後まで生き残るデジタルノマドになるための内的格闘は資産、武器となります。今、内省は最大の武器です。既に4000万人とも5000万人とも言われるデジタルノマドの母数は、今度劇的な増加となるわけですが、だからと言ってデジタルノマドになれば生き残るわけではない。むしろ、最初に真のデジタルノマドとは何か以前に、ノマドロジーの本質を掴み取り、現代的に変曲することのできる人物こそが、最終的に生き残る存在となります。当然、変わった見方をすればデジタルノマド・バブルですから、バブル崩壊と共に多数は消え去ります。ここで生き残り、さらに先に加速するためにも、こうした問いを為すことは極めて重要です。なぜならば、現代人は誰もが、別に大勢が想起する意味でのデジタルノマドに限らず、突然ノマドとして生きていかなければならない状況に直面するからです。つまり、ノマドロジーの問題を今のうちに真剣に考えておかなければ、確実に淘汰されます。

儒教の重要経典の一つである『礼記』には、「毫釐千里(ごうりせんり)」という言葉があります。この意味を現代的に言えば、最初の小さな違いが、後になって大きな違いになることであるから、最初にこそ慎んで行うべきだという教えです。つまり、学問であれ何であれ、誰もが出発点は同じであり、人間は別にそこまで大した差はないのだから、最後にその差を分つのは最初の心構えにあるという叡智です。私はこの教えを、どうも現代のデジタルノマドというか、ノマドロジーにこそ適用すべきであるように考えています。ある意味、デジタルノマドはどうしても自由を謳いがちになりますが、実は自由とは物理的な移動自体に全てがあるわけではないということは、当事者たちが一番身に染みて理解していることだからです。ゆえに私は、ちょっと独自の観点から、このノマドロジーを儒教的観点から再定義したりする意義があると感じています。

大前提として、「あなたは何のために移動しているのか?」という問いに、真摯にどこまで答えられるのか。これは21世紀の「移動」とは、一体何なのかを誰もが問うことによって、未来が見えてくるものですし、人類規模のテーマとなるでしょう。そしてそれは、概念自体の地盤替え(displacement)という甘さに安寧しない、思考自体が発露する地盤替えです。ですが現状、知識人と呼ばれる人々は、この概念自体の地盤替えしか数十年やっていない。これは何をやっているかと言えば、現実から疎外した現実性の中において、把握・措定・実定・表出された諸概念の内容をいじくりまわしているに過ぎない。本来21世紀初頭を生きる私たちが為すことは、こうした20世紀的な概念のいじくりまわしこそが問題だったと反省し、「現実性=人々が世界と呼ぶもの、そして個々が世界と呼ぶもの」だけを見るのではなく、その根源である現実、さらに現実/現実性の疎外自体の見えない界域を凝視することです。

しかし現状、相変わらず意味されたものしか見ない、見えない、見ようとしない人々によって世界の知が演出されて毀損されている。だから世界は腐敗したのであって、疲弊したのであって、自壊したのであって、人々が腐敗したのであって、疲労したのであって、自壊したのです。要するに、「世界を変える」という近代的な理念はもう完全に終わった。誰もが薄々気付いているように、世界を変えることはできないのです。より正確に言えば、大勢を助けることなどできないということです。人間は、改めて全てが過剰となり、高速となった結果として、あるいは近代が研ぎ澄まされた結果として、再び人間の本質的な特質は何であったかを問い直さなければならない興味深い時代に突入したのです。

二十一世紀は、宗教と哲学の時代です。宗教とは言っても、この2000年程度の主要な宗教だけではなく、またカルト的な動きだけでもなく、宗教的性質を持つ人々が液状的に続々と生まれては消えるような時代だということです。私はちょうどBrexit前最後の英国の姿を見たかったこと、さらに21世紀の世界都市であるロンドンに一度身を置いてみたかったことから、2018年からパンデミック前まで住んでいたことがありますが、そこで出会った同世代の多くが、無宗教と語る姿に、自分の感覚との隔たりを覚えていました。

というのも、そもそも人間において「無宗教」というのはかなり奇妙な言葉です。人間は理由が何であれ、ある時期から突如脳が肥大化し、いわゆる私たちのような人間になりましたが、この時から信仰という崇高な特質が配備されています。つまり私の考えでは、信仰は人間の根源であり、人間が人間であることの特質であって、原始的という意味不明な理由で拒絶されるべきものではない。そして人間にとっての信仰は、必ずしもキリスト教やイスラム教や仏教などの世界的に大規模となったものに関わらず、無際限に「場所」において生まれては消えてきたものです。それが邪教や淫教と時代ごとにレッテル化されるものであっても、少なくとも人々には、信仰心の何かしらの形が発露していることには変わりはありません。信者数の大小が信仰の正当性を決めるという観点は、この2000年の悪しき間違った考え方であり、今もここに固執する人々は世界中でマジョリティですが、それでも彼らには彼らなりの信仰心があるということは疑えない。

ゆえに、無宗教という言葉を当たり前のように使う考え方には、一度立ち止まりたくなります。というのも、日本人は無宗教だとよく言われますが、実際には日本人は無宗教ではない。この観点から分かることは、特定の宗教教団や教派などを名指しできなければ、それは宗教ではなく、信仰ではないという、ひとつの宗教観に立った見方があるということです。ここが宗教をめぐる対立の根底に潜んでいます。しかし、特定の教団や教派を名指しする必要などなく、そもそも人間には本質的に信仰心が備わっている。ここが私の信仰の立脚点です。ゆえに、私自身は特定の教団や教派に傾倒しているわけでもなく、宗教組織に所属したこともなければ、そうした人々との関わりもありませんが、私は強い信仰心の中で日々生きています。

「八百万神」という言葉は、今や陳腐に使用されているので誤解を招きやすいのですが、私が日々心の中で祈りを捧げる「神」は、特定の実定化された対象ではありません。ですが一般的に宗教と呼ばれるものは、祈りを捧げる明確な「対象」がある。私の信仰においては、この対象自体がないのです。大陸的な信仰に慣れている読者にとっては奇異に感じるでしょうが、祈りの対象は「無」とも言えますし、それはイコールで「神(多分、ここでGodではなくKamiの概念を用いるべきだろうと常に考えています)」とも言えますし、それは「自然」とも言えます。ゆえに、私の祈りには対象自体がなく、ゆえに名前もありません。その場所、その時、その瞬間によって私の神が実体として置き換わるのではなく、「無=神=自然」において変容すると言った方が的確かもしれません。ゆえに、姿形もない。だから別に私は、祈りのためにどこか特定の場所に行く必要もなく、何か祈りに際して物品が必要なわけでもなく、いつでもどこでも祈りを信仰において捧げることができます。

要するに、ノマドロジー的信仰の一つの形です。特定の「対象」を持たない、それはネガティブな意味での持たないではなく、本質的に最初からないという境地ですが、ここにおいて信仰、そして祈りは分離や分裂を引き起こさないため、私自身において原初の状態、つまり未分化で非分離となります(Center-less Faith)。この状態であれば、自分と他者との間に信仰や祈りの差異などが生まれること自体がなく、さらに分離もしていませんから、対立という宗教が抱える最大の問題に至ること自体がありません。なぜならば、祈りに対象自体がないからです。

ゆえに私にとっての祈りは、何も特別な言葉を用いる必要もなく、コーヒーを淹れる時であっても、本を熟読する時でも、冷たい冬の夜風を浴びながらテクノを聞いて散歩する時でも、旅する時でも、愛する人と時間を過ごす時でも、いかなる時や場所においても途絶えることはありません。よって私は神社にも行けば、寺院にも行きますし、欧州に出向けば教会にも出向きますし、中東に行けば入れませんがモスクの近くに座って眺め続けています。というよりも、私は人間の信仰心に深い関心と敬意を持っているため、欧州に旅行すると、なぜか同世代が遊び回るようなことには関心を示さず、教会に入り浸って、そこに訪れる人々の祈りや、姿を何時間も見つめることが好きなのです。そして何もそれは実体を伴う信仰の場所でなくても構わない。そして神社、寺院、教会などが素晴らしいのは、数百年、時に数千年もの間、無数の人々がその場所において祈りを捧げた「痕」が染み込んでいるからです。その「痕」と、私は異国の地で静かに対話することを旅の豊かさとしています。

なので私からすれば、無宗教という言い方はかなり問題がある。そもそも現代の若い世代が苦しんでいる一つの要因には、私の目には、無宗教という自己認識が、信仰や祈りまでも一緒に手放させてしまう仕組みがあるように見えるからです。無宗教という時に問題なのは、それがイコールで信仰や祈りとセットで語られてしまっており、無宗教であることは信仰や祈りを廃棄することだという強い謎めいた強迫観念があることです。ですが、特定の実定可能な宗教への賛同がなくとも、信仰や祈りは人間が人間である以上、廃棄することなどできないものです。おそらく、これを無理やりなかったことにしようとしたことによって精神が引き裂かれてしまい、今、激しい混乱が若年世代を中心に起きているように感じます。実際、この観点から、キリスト教の再解釈や信仰の再定義を救いと見る動きが各地で強まっていると感じますが、それ以前に各人が宗教とは何か、信仰とは何か、祈りとは何かを問うた方が解決策が見えてくるはずです。これらを同一的に混乱し、そして一括的に拒絶する態度こそが、精神に亀裂をもたらしている原因だからです。

よって、私はこれまでも無宗教と自称する人々に出会った時、むしろ人生が進めば進むほど、無宗教という自称自体が、自らを迷走させる主因になるだろうなと2010年代後半頃に考えていました。その理由は、無宗教という自称は別に誇らしいことでも何でもなく、ましてや他者に公言するようなことでもなく、また信仰や祈りを無宗教によって超越し、自分は特定の教団に依存せずとも、真理を自らの意志によって見出せるという構えこそ、現代の疲弊の根幹の一つであるとも言い得るからです。

つまり、無宗教という考え方自体が、そもそも信仰や祈りを混同しており、理解できていないことの証左なのです。ゆえに資本主義が現代の宗教だ、イデオロギーが現代の宗教だなどと議論の摺り替えを現在のようにやったところで、何も解決にはなりません。根本的に宗教に対する考え方が固執し過ぎており、過度に実定化されてしまっていること自体に問題があるのですが、どうも一向にこのことに気付く様子がありません。だから宗教や信仰や祈りを否定(実は拒絶)しにかかるのですが、真の信仰や祈りを持って日々を生きている人々からすれば、「何をやっているのだこの人たちは」という感じで見られても仕方がないことです。なぜならば、宗教に論争は必要であっても(信者獲得のため)、信仰や祈りに論争は不要だからです。

このような具合に書いていると、今日は最初、全然違うアイデアから記事を書き綴っていたのですが、いつの間にか気づけば信仰の話になってしまいました、、、。明日こそ、今日書きたかった思索を書き上げたいという思いを残して、今日は終わります。