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私たちが今抱える空虚さと、オーストラリアのSNS禁止から見る若者の文化The Emptiness We Carry, and Australia's Social Media Ban: Where Youth Culture Will Come From

忙しい一日を終えて、ふと一息つこうとした時、説明のつかない欠落感、あるいは胸の奥底に広がる荒涼とした虚しさを覚えることはないでしょうか。今日という一日を振り返れば、確かにあなたは多くのタスクや責務を果たし、誰かと会話を交わし、食事も楽しんだはずです。しかし、胸の底にはまるで乾いた砂を噛むような、ザラついた感覚が澱のように残っている。それは、「今日という日を、私は本当に生きただろうか」という、静かで、しかし鋭利な疑念です。

私たちが今、等しく抱えている苦しみの正体。それは効率化を求め過ぎた副作用として、人生という時間を処理すべき障害物の連続、タスクとして捉えてしまっていることに起因するのかもしれません。現代を生きる私たちは、朝目覚めた瞬間から雪崩のように押し寄せる通知や情報、あるいは他者の理不尽な言動といった予期せぬトラブルに常時対応しなければならず、あたかもベルトコンベアの上を流れる不良品を弾くかのように対処し続けています。この障害さえなければ、このトラブルさえ解決すれば、その先には平穏で知的な「本来の私」の時間が待っているはずだ。そう信じて、目の前の現実を障害物と見なし、排除することに躍起になっているのです。ですが、それは信じるということではない。人間が真に信じるということは、そのようなものではないのです。

そもそも、その先に待っているはずの平穏など、実はどこにも存在しないとしたらどうでしょう。つまり、約束された平穏など人生には存在しない。

人生は、年を重ねれば重ねるほど、かつては考えもしなかった小さな綻びが大きな亀裂となり、一気に降りかかってくるものです。時期や程度の差こそあれ、それは誰の身にも起こることであり、しかもそれは日々の積み重ねの結果として必然的に現れる現象です。つまり、現代人が行っているように、そうしたリスクを障害物として断定し、先回りして徹底的に処理し、その日々を通じて未来をより良くしようと画策する考え方は、ある種の社会的なリスク管理としては正しいのかもしれませんが、それでは予測不能な事態が平然と起きるこの世界において、あまりに脆い。

しかも実際には多くの人々は、そうした準備をする間もなく、出来事と共に心を揺さぶられ、大きな濁流に飲み込まれて我を見失ってしまうものです。この「我を見失う」ということこそが、人生を失うことと同義であり、真に恐れるべきリスクなのです。

多くの人が抱く「私は、一度でも自分の人生を生きたことがあるだろうか」という静かなる問いは、立脚点としては正しい。しかし、ここには致命的な亀裂もあります。それは「理想的な私」と、それを邪魔してくる「他なるもの」(他者・社会・世界、事物、現象など)という対立構造そのものが、苦悩の原因になっているのではないかという視座です。要するに、本当に問題は「他なるもの」にあるのかということを、一度問うて頂きたいのです。

仕事でのトラブルや人間関係の摩擦に苛立つとき、私たちはどうしても、「このトラブルさえなければ、私は穏やかで知的でいられたのに」と考えます。しかし、実際にそのような出来事に直面した途端、ほとんどの人は心が翻弄されてしまい、どうしても感情的になることを避けられません。あるいは誰かの心ない言葉に傷ついたとき、「この言葉さえなければ幸福でいられた」と思うことも同じです。しかも現代では、オンライン空間を含めれば、この不安を24時間抱え続けることになります。よって、本当にリラックスして、人生を真摯に思索することさえままならないのです。

何より、どれほど平穏を愛し、静寂を求めて自分のペースで生きることを徹底していたとしても、こうした波紋は平然と、外部から日常の中に投げ込まれます。

大前提として、人生を通してそうした波紋が起きない状態、不安定なリスクが排除された世界を維持し続けることなど不可能です。というよりも、世界はそのようにはできておらず、より正確に言えば、現実とはそうした過保護なクリーンルームのことではない。そもそも、既に現実から疎外させた現実性の破綻が、近代の破綻として誰の目にも明らかとなっている現在において、未だにこの観点を見極めず、同じことを上塗りし続けることは、問題を未来に先延ばしにする人間の最も醜悪な側面であり、真に未来を考える心ある人々にとっては、避けることのできない問題です。

そしてこの現実を捉え違えているようにしか行動が、国家規模で未だに起きるということを象徴したのが、12月10日、オーストラリアで16歳未満のソーシャルメディア利用を全面的に禁止する法律が施行された出来事です。

パンデミック以降、世界的に若者の精神的問題の爆発的増大が注目されてきましたが、その主因は例外なくソーシャルメディア依存と紐づけられて語られてきました。実際、私たちの誰もが、少なくともソーシャルメディアの過剰な使用は、精神状態にとっては良くないことは知っています。

事実、私自身も一般的にソーシャルメディアと言われるFacebook, Instagram, TikTok, Youtube, X, Reddit, Snapchatなどは全てアカウントも持っておらず、見ることはありません。また日本に限定していえば、世界的にプライバシー保護に重大な欠陥がある理由で禁止されていながら、日本では平然と巨大ビジネスを営み続けているニュース源の主軸であるYahoo!を一切見ず、また日本人のほぼ全員がメッセージをやり取りするLINEも使用していません。

よって、私もソーシャルメディアの過剰な使用が、人間の精神的健康に甚大な問題を与えていることは同意します。ただしそれは、必ずしも16歳未満などの年齢によって限定されるものではなく、いかなる世代であっても同じです。また今後世界的に一定の年齢を上限とするソーシャルメディア使用禁止が広がることは考えられるでしょうが、一方の問題は、確かに若者の精神的健康に問題を引き起こしているのは誰もが認めることですが、一体、この法的介入、つまり人々がソーシャルメディアを使うことの有無まで、国家が関与してくる過保護な意図はどこにあるのかです。

もちろん、国民の大多数の賛同を受けているわけですから、オーストラリアのアルバニージー首相が発言しているように、子供達の精神的健康を守るためなのでしょう。それは一定の事実ではありますが、一方で全面的禁止は過剰な国家介入にしか見えません。

ソーシャルメディア依存が私たちの精神を破壊することは間違いない。それはもはや誰もが認める事実です。いかにソーシャルメディアで稼いできたインフルエンサーであっても、この問題を否定することは難しいでしょう。ですが、それは一面の事実として、ここでは考え方を変えてみましょう。

パンデミックの前後を経験してきた私たちなら、ソーシャルメディアが世界各地で様々な形での反体制運動を勃発し、展開する主要リソースになってきたことを目にしてきたはずです。つまり、明確に言えば、ソーシャルメディアは旧来の為政者にとって、これほど脅威的なツールはないということです。なぜならば、ソーシャルメディア台頭以前、これはイコールでスマートフォンがまだ一部の先進国の豊かな人々に限られて保有されていた時代のことですが、当時は一人の無名な若者の不満が大きな社会運動に発展することはほぼ皆無で、いかに似たような不満を抱える人々が居たとしても、物理的に大きな運動を起こすエネルギーになるまでには至りませんでした。

しかし、リーマンショック以後の2010年代初頭に始まったアラブの春以降、反体制などの動きは一人の無名な人間に留まることはなくなり、多数の不満の集結を実現します。いわば、かつて運動のエネルギーが離散してしまっていた状況をソーシャルメディアが集約し、アルゴリズムによって大規模な運動エネルギーとして瞬発的に誘発することが可能になったのです。

アラブの春では、次々と当時西洋に独裁政権と位置付けられていた政権が打倒されていきましたが、この時代の革命的特徴は、人々のバラバラだった不安を一元的な目的において回収し、一つのエネルギーとして運動にまで高めていく力です。しかも、そのためにどこかで演説をする必要もなく、ベッドで寝転びながら展開することができる上、何気ない発言が瞬発的に数万人、数十万人の人々を動員することができる力になり得ます。このとてつもない快感を一度味わってしまった人類が、ここから安易に離れられると信じることは、あまりにも無謀であり、時代錯誤な考え方です。

1960年代後半の日本の学生運動に関心を寄せている私は、当時の資料や映画など様々に独自研究してきましたが、あの当時の規模の反体制運動が起きるには、相当の資金を集めることから始まり、組織を明確に立てていき、組織に加入する人々を勧誘する地道な活動から始まり、さらに知識人などに講演を依頼して社会的信用をつけて、徹底的に政策を研究するなど、とにかく途方も無い時間と予算を要しました。しかも、人間は各々に抱えている不満はバラバラです。当時は、このバラバラの不満を一つの運動エネルギーとして集約するためには、例外なくトップの裁量次第でした。つまり、簡単に言えば誰が運動の指導者なのかということだけが問題であり、主義主張は一時的に人集めには役立っても、目的遂行の技量は指導者にかかっています。その指導者にカリスマ的才能があれば、運動は大規模に展開し得るが、そうでない場合、結局運動のエネルギーは離散してしまい、急速に消滅するという具合です。

こうした過去には絶対できなかった大勢の人々の異なる不満を、一つの目的に発散させる回路の構築と一元的集約、その噴出するエネルギーに方向性を与えて一気に多数を動員することが、スマートフォンの普及率、ソーシャルメディアの利用率の高まりに比例して実現されてしまった。あえて「されてしまった」と言ったのは、為政者にとっては極めて都合が悪いからです。何しろ、その国の指導者であろうが首相、大統領や著名な知識人であろうが、ソーシャルメディアの勢いは、無名の人間が不特定多数の不満を回収し、運動の指導者に一夜にして登壇する効果を持っているからです。これこそ、為政者にとって最大のリスクです。何しろ、現状の体制維持が極めて困難になるからです。つまり、個人的にはアラブの春は、新時代の最初の大きな現れだったのではないかと見ています。これまでスマートフォン、あるいはソーシャルメディアにアクセスできなかった人々が、こうしたツールを手にした時、一体何が起きるのかということが、初めて大規模に示された出来事だったからです。

そしてその動きを経て、先進国の主要ユーザーたちの間でも、様々な個人の不満を社会、体制への不満にまで高め上げるアルゴリズムを通して、爆発する動きが広がっていきます。主に若年層が主導する世界同時左傾化です。こうして、各国で無数の運動が同時勃発する未曾有の時代を迎えていきます。このまま進めば、世界は一体どうなるのか。誰もがそう感じ始めていながらも、有効な対策が明確に打ち出せなかった時、パンデミックが始まります。ですが、パンデミックは既に世界各地の人々が、スマートフォンもソーシャルメディアも活用していた時代であったため、国家による移動制限が強固に行われても、自宅の寝室にいながら次々と反体制運動を起こす可能性をユーザーは探ることが可能です。

かつて音楽制作では、無数の人々が関わって一つの楽曲をリリースしていましたが、今や太古の昔の話。ベッドサイドプロデューサーが当たり前となった時代から、AI生成を駆使するミュージシャンの台頭に変わっているように、同じことが社会現象においても生じているのが現在です。ただ同時に、ここで過度なパンデミック対応によって社会的関係を切断された若年層に、精神的問題が噴出します。ここでWHOは、ソーシャルメディア依存を公衆衛生上の危機と声明を出していますが、同時に物事において見るべきは、一面だけが真実ではないという観点です。実際、WHOはソーシャルメディアを介した爆発的な批判、反ワクチン運動などで利権を脅かされたことは事実であるため、こうしたソーシャルメディア依存に全ての責任を押し付けている段階とも言えるかもしれません。

これまで行き過ぎたデジタルの動きを是正するために、あえてDJがアナログレコードを復権させたり、フィルムカメラが流行ったり、編み物が人々の精神安定剤となったり、紙の本を求める人々が増えるような潮流がありました。現状、こうしたソーシャルメディア禁止の措置は、一見するとソーシャルメディア以前の時代に引き戻そうとする問題提起に見えてしまいます。事実、少なくともiPhone登場以前に若者の時代を謳歌し、大人になってきた年長者世代は、この動きに強く賛同するでしょうし、一部の若者が失ったものを求めて、この世代の生き方に接近しようとしていることは事実です。ですが、一方がだめならもう一方という極端で分離した考え方自体が、一体いつ問われたのかということ自体を私は問題視しています。というのも、この根底の考え方自体が、そもそも現代の総合的な疲弊の正体であるにも関わらず、相変わらず問題の真理から目をそむけて、体裁だけで表面的な措置をとっているように見えるからです。

この動きはオーストラリアに限らず、欧州各国、米国フロリダ州、中国、韓国、ブラジル、インドなど様々な国に波及していますが、果たして本当に国家的介入が現代において唯一の正解なのでしょうか。視方を変えれば、ソーシャルメディアを若者から封じることによって、そこにどのような利権が蠢いているのかを見抜くことです。そもそもいかに親が子供を思う気持ちから始まったにしても、21世紀を生き抜かなければならない若者に対して、既に浸透したツールの全面的利用禁止など、精神的問題以上の厄介な生存不能状態へ陥れるリスクさえあることには注意が払われているようには思えません。なぜならば、いかにソーシャルメディア、あるいはAI使用を若者に禁止する措置を国家規模で展開したとしても、既に世界は大きく分裂し、パンデミック以前の一元的なグローバリゼーションでもないため、リキッド化した世界では、各々の国が国際同調とは無縁に未来を推し進めていくからです。

こうした時代において、ソーシャルメディア、AIの使用禁止を国家が若者に法律として介入することによって、法的禁止の国において生まれ育つ若者と、全面的に合法の国において生まれ育つ若者との間に、致命的な裂け目をもたらす可能性が高いはずです。分かりやすく一つの歴史の教訓を振り返れば、近代の優等生であったはずのイギリスは、1865年に自動車の前を人間が歩いて先導し、赤い旗かランタンを振って歩行者に警告しなければならないという「赤旗法」を策定したことで、モータリゼーションのチャンスを自ら逃し、ドイツや米国に敗北した結果、今日までイギリスのモータリゼーションが再生することはありませんでした。

デジタルテクノロジーの進歩は、確かに問題も多いが、同時に人間一人が持つ可能性を形として実現するツールでもあります。以前も記事で「ツールに使われる人間」「ツールを駆使して次々と作品を生み出す人間」について簡単に触れましたが、同じことです。つまり、かつて音楽を制作する際には、楽器の扱いを学び、バンドを組み、作詞作曲をして、スタジオに入って整え、ミキシングやマスタリングの工程を専門集団に委託し、さらに販売するためのレーベルなどと契約するなど、とにかく今思うと煩雑な工程が必要であったため、万人に開かれたものではありませんでした。

ですが自宅の寝室でパソコン一台で世界的ヒット曲を生産するベッドサイドプロデューサーの登場とともに機運が変わり始め、今やAI生成を駆使したヒット曲が無限に生み出されていく時代に入っています。これは、5歳の子供が作った音楽が、世界的ヒット曲になる可能性を秘めている時代の到来であり、これまであり得なかったことが次々と可能になる世界の到来でもあります。ここでソーシャルメディアやAIの利用が合法の国において生まれ育つ子供は、間違いなくこのツールに触れて育ちますから、5歳で世界的ヒット曲を発表する可能性があります。しかし一方では、利用禁止の国の同じ5歳の子供には、そうした機会さえありません。精々、親あるいは祖父母世代のように、ギターを触るなどしかできないでしょう。そして合法国の5歳の子供が音楽を制作し、瞬時にソーシャルメディアなどを通じてリリースする。これによって新たな可能性が広がるが、禁止国の5歳の子供にはこの機会はありません。

また彼らが二十歳を迎える時、合法国で生まれ育った若者は、AI活用が日常的に長けているが、禁止国で生まれ育った若者は、一から学ばなければなりません。二十世紀ならまだしも、二十一世紀という「無人化時代」を生き抜かなければならない若者にとって、果たしてこの措置は本当に正しいことなのでしょうか?

いつの時代も議論のあるテクノロジーは、未来へのチャンスとも言え、未来を剥奪する敵とも言えますが、もはや流暢なことを言っていては生きていくことすら難しい時代において、こうした問題は生存へ直結する事態となるリスクさえ孕んでいます。ここで冷静に問うて頂きたいのは、以下の質問です。

本当に政府は若者を守りたいのか?

あるいは、彼らの既得権益を守りたいのか?

正直、この問いに集約されるでしょう。

ただし、ソーシャルメディアの使用を全面禁止することによって、その国で生まれ育つ若者には新たな可能性が芽生えることも見逃してはなりません。何しろこの十年程度、若者にとって「プラットフォーマーによって与えられる娯楽」こそが全てであり、これを国家によって強制遮断されるわけですから、子供や若者はソーシャルメディアなき世界における新たな娯楽と作法を見つけなければなりません。しかし、私はこれは大きな可能性だと考えます。

そもそも過保護にクリーンルームで育てようとする現代の考え方を破棄すれば、若者の特権とは、大人が考えつかないような遊びを考えだし、それをいつの間にか文化にまで高める予測不能な可能性です。そして重要なことですが、今日のソーシャルメディア企業だって、その始まりは、若者が新たな娯楽を実験し始めたことから始まります。パーソナルコンピュータだって、スマートフォンだって同じです。つまり、ソーシャルメディアを禁じられたことによって、次の娯楽を半ば強制的に生み出さなければならない能働的な若者は、VPNを使って親の目を掻い潜って日夜ソーシャルメディアを覗き、世界中の同世代が集まるソーシャルメディア的世界と部分的にアクセスしながら、同時に国家的介入による禁止という体制圧力への反動、あるいはプラットフォーマーへの反動を高めて、新たな文化を生み出すという可能性を秘めています。

オーストラリアが炭鉱のカナリアなのであれば、この動向を良い悪いを抜きにして見極めることは、次の世代のモデルになります。

若者は、いつだって反動的に文化を創出します。国家、社会、親など誰かの介入が厳しければ厳しいほど、若者は反動的に強烈な生命力を帯びた文化を生み出すものです。米国のカウンターカルチャーの源流にあるビートニクとて同じです。ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズたち当時の青年にとって、旅は最もラディカルな反体制行為であり、そこに後に連なるヒッピー、バックパッカーからデジタルノマドの源流の核心が秘められています。ですが現代のデジタルノマドは、単にパソコンを持って各地のカフェを転々とする社会的存在でしかなく、彼らが持っていた反骨心は微塵もありません。そもそも、今私たちの大半が持っているそのiPhoneだって、まさに強烈な生命力を帯びたカウンターカルチャーの象徴だったはずです。

そう考えると、果たしてFacebook, Instagram, TikTok, Youtube, X, Reddit, Snapchatなどの始まりに、このような憤怒による強烈な反骨心はあったのかと問うことは、意味があるように思えます。個人的な意見では、ここが二十一世紀の始まりから、既に誤っていたところであり、ゆえに今日のような結果は必然だったのではないかと思えるからです。

文化とは、いつも圧力に対する強烈な反動のエッジから生まれてくるものです。これは今も昔も、世界で変わることのない文化の基本原理です。

果たしてオーストラリアで生まれ育つ若者たちから、次の文化は生まれてくるのでしょうか?

それとも、イギリスの赤旗法の二の舞となるのでしょうか?

大きな変動が、ようやく始まりました。若者の世界同時左傾化の波は、今後も私たちの信じていた世界を次々と揺るがしていくでしょう。