母国という言葉The Word Motherland
母国。かつて鉄の如き強度が宿っていた言葉。20世紀という時代は、あらゆる善悪を飲み込みながら、人々が安住し、あるいは命を賭して守るべき「国」という輪郭を、熱気と共に鋳造してきました。しかし、21世紀の入り口を過ぎて既に25年が経過し、さらなる深淵へと足を踏み入れつつある今、この母国という概念はかつてないほど希薄になり、それどころか、私たちの精神を蝕む深刻な問いへと変質しつつあるように思えてなりません。
実際に20世紀を振り返れば、良くも悪くも母国は強固な物語の上に構築されていました。いや、物語それ自体だったと言えるでしょう。ただし物語とは言っても、単なる幻想ではなく、幻想の実体化を特質に含有しています。つまり、その物語には確かな手触りがあったということです。人々はその物語を実質的に共有可能で、自らのアイデンティティをその土壌に深く根付かせる実感もあったため、平穏や誇り、狂気さえも手にすることができました。文字通り、国家と一心同体の人生が、そこに確かに存在したのです。けれども時代の針が進むにつれ、強固であったはずの母国という概念は、急速に希釈化され始めています。
私たちは今、非常に不可解な、そして宙吊りとなった場所に立っています。これは自分自身でも、不可思議な感覚としか言いようのないものですが、きっと多くの人々も母国に対して似たような感覚を抱いているのではないかと思い、今日の記事を書き綴っています。母国に対する複雑な感情の吐露を、一度真摯に吐き出してみることによって、生まれ育った国が違う読者と何かしら共鳴できるものがあるのではないかと考えるからです。仮にそうだとすれば、そこには母国なるものの共通した源泉があるのではないか。私は、共感を信頼していませんが、心の共鳴は信じています。母国を論じることは確かに難しいことです。なぜならば、どうしてもイデオロギーが介入することを避けられないからですが、だったら考えを改めて、それを全て引き受けて綴っていけば良い。
かつて人々を包み込み、豊かに暮らすための前提であったはずの「世界」や「国」という枠組みが、今や大部分で生きる上での実際の障害となり、私たちの皮膚を内側から引き裂くような痛みの源泉となっています。あるいは、世界や国こそが痛みの源泉であり、悪だと措定されてしまっていると言い換えられるかもしれません。ゆえに、母国へ愛着を持つことは偏執的なナショナリズムだとして強制的に否定・シャットダウンされてしまい、なぜか母国愛がイコールで過激な思想だと捉えられる始末に陥り、人々は思考停止しています。ですが外に対しての発言としてはそれが妥当に思えても、自分自身の内側に真摯に目を向けてみると、実情は大きく異なる。むしろ、土壌への帰属意識が強ければ強いほど、引き裂かれる傷は深くなり、反動としての苦悩が年々増していくからです。私自身の内側を見つめても、そのような分裂した状態が確実にあることを認めざるを得ません。
この問題は、今後さらに過激さを増し、より先鋭化した形であらゆる人々の前に立ちはだかることになるでしょう。だからこそ、今のうちに様々な角度から、個々が母国という幻影を見つめ直しておく必要があると強く感じます。そのために大前提として、母国愛は否定されるべきでもなければ、拒絶されるべきでもないということを、立脚基盤に進めていきます。それが、いかなる母国であってもです。
なぜ、これほどまでに母国への愛着が、一種の反動として、しかし静かに、そして確実に深く込み上げてくるのでしょうか。そうした問いを日々反芻していると、一つの象徴的な出来事に行き着きます。それは、私にとっての母国である日本という国の極端な衰退、あるいは衰退という言葉では生温いほどの壊滅と呼んでも差し支えないほどの悲惨な変容が、厳然たる事実として現実に、そして日常に横たわっているからです。
正直、今を以って「日本は美しい」と文化的文脈で軽薄に喧伝する行為は、現実を無視した身勝手かつオリエンタリズムの再強調に過ぎない。ここに無数の日本人、あるいは日本在住の外国人などが結託し、今も日本を虚像しながら表明しているわけですが、私から見れば、これこそが現代のイデオロギーとしてのナショナリズム(劣化型)です。というのも、こうした発言者たちには第一に思索がない。そもそも現実に日本、日本人を本当に見ているか自体があまりに疑わしい。彼らからすれば、幸いにも今も昔も日本は大半の国から見れば遠く離れた東の果ての国に過ぎません。ゆえに、2020年代であっても、物理的な距離と言語の壁によって、ほとんどのことは知られていない事実があります。これを逆手に取って、「日本は美しい」イデオロギーを散布する人々が蔓延している昨今ですが、まさにこれこそ日本が壊滅している動因であることに彼らは気付きません。つまり、日本を自ら毀損し、窮地に追い込んでいるものの正体は、外部だけに限らない、むしろ内部の安直な劣化型イデオロギーの温床自体にあるのです。
母国に対する不可解な愛着、あるいは母国への憂いとも呼ぶに相応しい複雑な言葉にし難い感情は、多くの読者にとっても決して他人事ではないはずです。アメリカであれ、イギリスであれ、世界のどこであれ、現在の世界を見渡せば、どの国も何かしらの崩壊を孕み、大きな異変をきたしていることは誰の目にも明らかです。そして、その異変の中心に、かつて強固なアイデンティティの軸であった「20世紀的な母国」という概念が、根こそぎにされようとしていることへの痛みがあります。そして母国愛を堂々と言うことが、反時代的態度の表明としてキャンセルされる不安を抱えている。私たちが知っている母国は、もはや実像としては存在しない。その喪失の事実こそが、私たちが直面している最大の乖離であり、断絶なのです。
一体、なぜ存在しなくなった実像を、私たちは影として抱えているのか。逆に言えば、なぜ人間は残像を抱えることができるのか。
今や、母国を憂いながらも、同時にそこへ留まり続けることは、自分自身の人生に実害が及ぶリスクを高めることと同義になってきました。多くの人々が母国を出るという選択を、経済的な合理性や生活の安全といったあらゆる観点から検討し、実行に移しています。それは現実に世界的なデジタルノマドの急激な増加として反映されていますが、二十一世紀最大の民族大移動とは、まさにこの新たなデジタルノマドという民族を示唆しています。理由が何であれ、自分自身が生まれ育った土地を離れ、異国で生きることを余儀なくされる過渡期に私たちは生きています。その流動と不安定の中で、一人ひとりがどのように精神の均衡を保つのか、まだ試行錯誤を繰り返しているのが現代という時代の特徴でしょう。
かつてのような部族や民族の集団移動としての歴史的なダイナミズムとは異なり、現代のそれは個人次元で起きるものでもあるため、個人の魂が母国から剥がれ落ちざるを得ない、より孤独で切実な事情に根ざしています。もちろん中には、自らの生まれ育った国を嫌悪する人もいるでしょうが、大多数の人は本心ではそうではないはずです。今、先進諸国で母国に対する嫌悪が正義だと見做される視座が若年層を中心に広まっていますが、なぜこうしたことが起きるのかについては、正直、まだ誰も答えを出せているようには思えません。
ですが、表向きは母国への懸念を口にしても、心の深層では、今私が綴っているような、母国に対する不可解な愛着、断ち切りがたい情念を感じているのではないでしょうか。そしてこの母国という概念は、果たして一元的に論じ切ることのできることなのか。その点について、真剣に凝視しなければこの問題の突破口は見えません。母国の問題は歴史を直接孕むため、非常に現代ではセンシティブな問題であることは認めても、そのセンシティブを恐れて何もしなければ、事態は悪化するだけで、その責任問題は常に未来の世代に先送りにされます。
まず、私が抱く母国への愛着は、いわゆる政治的なナショナリズムとは無縁です。ですが同時に、政治的なナショナリズムとしての母国も確かに自分自身の中に存在します。これは、否定すれば嘘になります。ただ、政治的な文脈における愛国心は、合意形成のための道具として醸成される側面がありますが、個人の魂における母国愛とは、そのような制度的なものではない。この重層性を紐解く鍵は、どこにあるのか。そして内面において識別するには、どうすれば良いのか。
常々思うことですが、時代には、その時々に特有の風や匂いがあります。私は、誰よりも深くこの日本という国を理解したいという強烈な渇望を抱き、歴史、文化や残された絵画、遺跡など様々な角度から掘り下げ続けています。それはアカデミックな手法とは無縁で完全に独自のものですが、それは私の興味が遺物を発見して歓喜することではなく、歴史的に変遷している「日本人の心」を探究することにあるからです。あえて言うならば、私は日本人の心の歴史的な動きを調査していると言えます。心が動くからこそ、文化は生まれ、歴史は生まれるからです。そしてその心の動きは、主体によって動くのではなく、時代が動かしていると考えています。
この時代をどのように理解するか。確かに、書籍など形ある物を参照することは重要ですが、一つの国の本質、その深層を理解するために最も適した媒体は何かと問われれば、やはり映像でしょう。文字や静止画から学び取れることは多大ですが、「百聞は一見に如かず」という古人の知恵が示す通り、映像として一度その空気に触れることの方が、多くの真実を直感的に掴み取れます。幸いなことに、西洋で映画という画期的な技術が生まれて以降、それから間もなく日本も輸入する機会に恵まれ、独自の試行錯誤を経て、世界でも有数の映画大国として映像文化を築き上げてきました。残念ながら、戦前から戦時にかけての多くのフィルムは、戦火によって焼失したり、行方不明になったりして二度と見ることは叶いませんが、それでも残された映像は、宝庫と呼ぶにふさわしい豊かさを備えています。
私はこの映画を通じて、特に1930年代後半、そして1960年代後半の日本の若者たちの心に強く関心を寄せてきました。一体、彼らが何を思い、いかにして生きようとしたのかということは、視座を変えれば、彼らがどのような未来を描き、あるいは絶望したのかということとイコールだからです。そうした問いを、時空を超える映画という映像メディアを通じて必死に理解することを試みてきたのですが、その理由は、現在の私たちの存在自体が彼らにとっての未来そのものだからです。
果たして、彼らが心に描いた未来に私たちは到達したのか。それとも、彼らの祈りや叫びとは異なる何かしらの心の中のズレが生じた結果として、この悲惨な現実があるのか。それを総合的に見極めるためには、当時の映画の中に刻印された、若者たちの「心の揺れ」を真摯に見つめることが最も有効な近道であると感じています。
振り返ってみると、1930年代後半といえば、日本では大正(1912-1926)というリベラルで文化的な爛熟期を経て、昭和(1926-1989)という激動の時代へ、そして軍国主義の暗い影へと雪崩れ込んでいく転換点でした。大正デモクラシーと呼ばれた時代には、普通選挙運動の昂揚とともに、言論の自由が高らかに叫ばれ、女性の権利運動、あるいは従来の左右の対立軸には収まらないアナーキズムや社会主義運動などが強烈な熱を帯びました。当時の人々は、古い日本を脱ぎ捨て、新たな精神的支柱を打ち立てようと言論活動に勤しんだのです。しかし、1929年の世界恐慌の余波とブロック経済化が進む中、昭和に入ると空気は一変します。
1931年、陸軍の主要部隊である関東軍が日本政府の意向を無視して、勝手に満州事変を勃発、満洲国建国を強行に主張する過程で陸軍の暴走が決定的になると、軍部の力は全ての為政者を超越し、軍事力を盾に実効支配の力を獲得します。やがて、1933年に日本は国際連盟を脱退し、世界からの孤立を深めた結果、四方八方で物流が断たれ、着実に他国への侵略という「外」への拡大という修羅の道へと突き進んでいきました。当初は、アジア諸国を占領する欧米を撃退する目的を持っていたアジア主義の理念でしたが、軍部によって再解釈され、占領地の拡大を正当化する骨格となり、単に他国の占領主を欧米から日本に擦り替えるだけの動きとなっていきます。そして、他国を占領状態に置くことと比例して、国内への弾圧が過度に高まる時代を迎えます。この国家権力を盾にした言論弾圧や監視、あるいは憲兵隊が市民生活を脅かすような極限状態の中で、映画監督や俳優、スタッフたちは、文字通り命懸けで映画を作っていました。
何しろ、表現を一つでも間違えれば、検閲によって切り刻まれ、最悪の場合は自らの命さえ危うくなる時代です。そのようなギリギリの緊張感の中で、表向きはある種の社会的な同調を装いながらも、表現者たちは、フィルムには刻まれない「心の動き」をどう映像に焼き付けるかという試行錯誤を始めます。その激しい内的格闘こそが、当時の映画制作における最大の反骨であり、ラディカルな表現であったと私は見ています。そうした極限の過程を経て生み出された作品だからこそ、私は1930年代後半の映画が、日本映画史において最も生命力を帯び、最も美しく、黄金の輝きを放っていたのだろうと認識しています。今観ても、その頃の表現力は群を抜いています。
そして、その時代を経て訪れた敗戦と占領の時代。第二次世界大戦によって、映画関係者も大勢が死去しますが、生き残った者たちは戦地から引き上げて、再び映画制作を始めます。全てを失った彼らには、文字通り映画しかなかったのです。ですが、各地が焼け野原で大勢が食うに困り、戦争孤児が溢れている時代では、到底、人々は映画鑑賞どころではありません。さらに戦勝国側のGHQが、今度は戦時中の軍部に変わって検閲を開始、映画制作の全てに細かく指示を出し、メディア戦略はGHQによって徹底的な管理のもとで行われる時代を迎えます。日本映画を通して見ていると、1930年代後半に第一次黄金時代を迎え、1940年代は前半が軍部、後半がGHQの検閲になるため、この10年は一気に品質が落ちます。というか、全く心を揺さぶられない。しかし、このGHQの検閲が朝鮮戦争勃発によって緩まる機会が来訪すると、これによって表現力を圧迫されていた映画制作者たちの創造力が爆発。日本映画は1950年代前半に第二次黄金時代を迎えます。
そしてこの動きは、戦後日本が歪んだ構造の中での再生を強いられることになったこととは無縁ではありません。焦土と化した国土で、日本が再び国家としての形を取り戻そうとする時代に向かうのですが、これは母国の再構築とも言える試みでもありました。この困難な日本再生の舵取りを担ったのが、吉田茂(1878-1967)です。
彼は1948年10月(-1945年12月)に復権して二度目の首相に返り咲くと、占領下という絶対的な制約の中で、極めて現実的、かつ皮肉な道を選択します。実は今では忘れられていますが、今日の日本の動きとして国際的に警戒されている日本の再軍備の問題は、元々はこの時代に米国の意思として推進されたことに源流を持っています。その理由は朝鮮戦争の勃発により、米国は日本を共産圏に対する最後の防波堤としての軍事的な役割を求めたからです。同時に、米国の意向で日本国内の共産主義者などに対する徹底的な弾圧が行われましたが、この余波が映画関係者にも及びました。当時、共産主義者とその支持者3万人以上を、職場や社会から排除するレッド・パージが行われ、この社会的粛清があまりに過激であったことから、その後の日本史に深い遺恨を残します。当然、当時の米国も、東アジアをソ連に獲得させないために必死でした。
この朝鮮戦争を契機に、一度は第二次世界大戦後に軍備解体を強制させた日本に対して、一転して米国は再軍備を迫るのですが、その指揮を取ったのがダレス国務長官顧問です。しかし、彼らが突きつけた再軍備要求に対し、意外にも吉田は頑強に抵抗します。これは、日本が軍国主義に戻ることを懸念したからではなく、先に経済復興を最優先し、日本の経済的自立を国家としての独立に繋げる目論みを持ったからです。つまり吉田の考えは官僚出身ならではの合理主義で、経済復興なき国際的自立はあり得ないというものでした。
実際に吉田首相は疲弊した経済復興を最優先するため、GHQ側の策定し、戦争放棄を明記した憲法第9条を逆手に取り、ダレスの主張を却下。軍事費の負担を最小限に抑える軽武装の道を選び、警察隊(後に軍隊利用する目的で創設)の大幅増員には応じたが、秘密裏に部下たちを米国に派遣するなどの画策を行いました。この背景には、占領下では日本国内の世論を動かしてもどうにもならないこと、そもそも当時の日本の首相はGHQが決定していたからですが、問題として、GHQの一部のセクションが、独断で日本の首相を指示することが横行していたことに対する国内政治の反動がありました。
ちなみに、今も日本の首相を決めているのは日本人ではなく、一部の在日米軍関係者(横田基地所属)です。よく勘違いされるのですが、米国政府の意向ではありません。というのも、米国政府の意向は政権ごとに変わりますが、米軍の意向は基本的に変わらず、占領地政策を目立たないように推進し、権益を確保することが目的だからです。つまり、日本の首相は戦後から一度も、日本人によって決定されたことはありません。これを決議するのは日米合同委員会という組織ですが、驚くべきことに、この委員会に日本の政治家は出席できません。日本の政治家がパペットでしかないことの本義が、ここに示唆されています。
日米合同委員会は、毎月2回開催され、日本の主だった法律や規制を決定する日本の未来の決議ですが、米国側の代表は米国政府関係者ではなく、在日米軍司令部副司令官、日本側の代表は外務省北米局長です。こちらは日本語しかありませんが、明確に外務省の組織図として発表されています(https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100060689.pdf)。つまり、日本の官僚と日本に駐在する米国の軍関係者の協議によって、日本の全ての指針は決定されているのです。そしてこの委員会で合意された一部分が公表されることはっても、ここで議論された内容がこれまで明らかになったことは一度もありません。
ここを最低限理解しておけば、最近の日中関係の悪化を誰が望んでいるのかという所在は、明瞭に見えてくるでしょう。誰が首相になっても何も変わらないのは、こうした戦後の事情を未だに引きずっていることに最大の理由があります。
当時、GHQの一部セクションの独断は、そもそも米国政府が認識していないところで日本の占領が起きていた事実として捉えられました。そこで吉田は、この一部のGHQ関係者の暴走を逆手に取った戦略を米国政府に対して遂行したのです。それは日本国民に対してではなく、米国国民に対して「日本の再軍備は危険だ」と認識させることでした。当然、当時の米国国民は第二次世界大戦で日本と直接戦闘している人々が多数だったため、この策略は功を奏します。その結果、1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれたのですが、ここで同時に旧・日米安保条約が締結されたことが後の問題になっていきます。
これにより、日本は国際的な主権を回復する機会を得ますが、同時にそれは米軍の恒久的な日本への駐留を認め、自国の防衛を他国に完全依存するという、主権国家としては極めて不完全な従属的独立となったのです。この従属的独立こそが、現代日本の最大の病理となっており、前述の通り、今もまさにこの状態が続いています。主権や独立国を装った、従属国家の姿、ここに母国の核部が強烈に潜んでいるのです。母国を見るとは、様々な観点で痛ましいものです。
いわば、官僚的に経済成長と引き換えに、国家としての精神的自立を棚上げにする措置が取られたのですが、この「吉田ドクトリン」と呼ばれる選択が、戦後日本の繁栄の基礎となると同時に、精神的な空洞化の源流となり、今日に至るまで深刻な遺恨を残すことになります。私が注目している、もう一つの時代の1960年代後半の映画が帯びている「熱」は、まさにこの歪みが限界に達し、噴出した結果です。
吉田首相の意図は、彼の在任中はこの措置が限界だが、3年後、5年後、10年後には、後続世代が時代に即した国際協調を実現してほしいという本心からのものでした。つまり、段階的な占領状態の解除と、日本の完全独立を彼は願ったのです。しかし、この独立の夢を挫く者たちが、国内外から続々と現れます。何しろ、この日米安保条約による利権は、占領地政策を目立たないように推進し、権益を確保することが目的であることから、相当恩恵がある人々がいたからです。
実際、GHQが撤退してもなお、事実上、GHQの機能は横田基地に直接移管されています。言い方を変えれば、GHQの持っていた占領地の権益が、そのまま横田基地に流れたということです。あまり知られていませんが、今も日本のテレビ、新聞などのマスメディアの情報は、全て横田基地による検閲を経てから日本国民に発表されます。というよりも、マスメディアを通して日本国民が知る全ての情報は、横田基地によって決定されています。日本のマスメディアを牛耳っているのは、資本家ではなく、横田基地の一部の占領権益者です。ゆえに、マスメディアの論調を操作することによって、世論を動かす古い手法が今も続いているのですが、彼らにとっては幸いなことに日本は超高齢化社会。つまり、マジョリティがテレビや新聞を見て育った世代であり、彼らはマスメディアに対する信用が極めて高い特徴を持っています。すると、マジョリティは容易に情報操作で動かすことができるため、彼らが直接手を下さずとも、占領地権益は守られるという具合です。以外と彼らがやっていること自体は単純なのですが、この単純な方法が日本では効果的なのです。
そして吉田ドクトリンを契機に、1960年に大きな転換点が訪れます。かつてA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監されながらも、CIAの手先となることで釈放された岸信介が首相に就任して、日米安保条約の改定に臨んだのです。岸は政治的には吉田路線からの脱却、つまり対米従属からの自立と対等な日米関係を主張しましたが、裏ではガッチリ米国側と手を握っており、また国民の目には戦争への回帰と映りました。つまり、二枚舌です。この二枚舌は、岸信介の孫で現代日本の姿を直接的に実現した安倍晋三に継承されました。
結果、国会を取り囲むデモ隊と連日続く抗議活動は激しくなり、安保闘争と呼ばれる大規模な運動に至ります。当時の若者たちは、単に条約への反対を叫んだだけではありません。戦後日本が抱え込んだ欺瞞、平和と繁栄の裏側にある従属の構造、そして人間としての尊厳を問い直し、路上で叫び、権力と対峙したのです。ですが、安保条約は呆気なく改定されます。この時の若者たちは現実を変えることの不可能に打ちのめされ、自らの無力を知り、全てを諦めました。また安保闘争はかなり激しかったため、実は改定できるか微妙だったのですが、彼らに押し切られてしまうと日本がソ連側に傾くと警戒した米国は、岸信介同様に、CIAの手先になることで釈放した右翼の頭領・児玉誉士夫を利用し、右翼の活動団体やヤクザ組織を動員して、この運動を暴力によって鎮圧しました。
この第一次安保闘争の世代に対して、強烈な反動で立ち上がったのが、第二次安保闘争と呼ばれた1960年代後半の若者だったのです。この世代は日本で最も若者が多い時代で、とにかく1960年の安保闘争に敗北した年長者たちが、その後の闘争をあっさり放棄して、平然と社会で働いていることに我慢がならなかった。つまり、金を与えられれば全ての問題をなかったことにするシステムへの自己家畜化を遂げた年長者に、若者は強烈な不満を表明したのです。ただ同時に、次の安保条約改定を迎える1970年になる頃、もしかすると自分たちも同じ運命を辿るのではないかという極度の不安に挟まれていました。この複雑な二重の不安が、当時の映画には非常に良く表われています。
60年代後半の映画には、この「熱」が充満しています。それは理屈やイデオロギーを超えて、人間が人間として生きるための叫び、抑圧に対する言いようのない根源的な怒り、そして決定的な挫折が重層化した複雑な熱です。同時期、米国ではサマーオブラブとしてカウンターカルチャーの文脈で反体制運動が起きていましたが、日本の場合はこのような穏やかなカルチャー的文脈はほぼなく、強烈なイデオロギー闘争だったことに特徴があります。
この激動の時代において、映画作家たちは検閲や業界の慣習と戦いながら、時代の空気をフィルムに定着させようと命を削ります。しかし、この熱狂の季節も、やがて高度経済成長という巨大な経済成長の波に飲み込まれて変質していき、いつの間にか過去の思い出の一つとなっていきます。気づけば、第一次安保闘争の敗北者同様、第二次安保闘争の敗北者たちも同じ道を歩み、しかも高度経済成長の立役者になるという皮肉な未来が実現したのです。当時、所得倍増という国民にとって魅力的なスローガンが唱えられ、政治への関心を消費への欲望へとすり替えることに成功。そこから人々は次第に豊かさの中に埋没していきました。
簡潔に言えば、金のために人間として生きる尊厳を犠牲にしたような時代背景があったわけですが、残念なことに、どれだけ当時の映画から若者の心の動きを理解したように思えても、決定的に到達できない空虚な核部が残ります。この違和感の正体を数年間考えていたのですが、それは何なのか。この違和感の正体を突き止めることは、母国愛の謎を探る重要な鍵となります。
それは、時代には特有の風や匂いがあると言いましたが、より正確に言えば、実際にその場所に立っていなければ感じることのできない風や匂いであり、熱です。この熱を私たちは絶対に体験し得ない。この限界が、歴史においては通底しているのです。だからいくら私が1930年代後半、1960年代後半の若者の熱を理解しようとしても、結局は核部に触れられることはない。ここが歴史の限界なのでしょう。ゆえに、これらを踏まえて、今を生きる私たちが何を為すかを思案し、行動する必要があるのです。そこから唯一導き出せることは、私たちは自分自身が生まれ育った時代の熱以外に、知ることができないということです。歴史からは多くを学べても、歴史は絶対に体験することはできないのです。
母国とは、こうした熱によって強烈な生命を育まれてきたのではないか。だとすれば、熱を失った私たちは、どのように21世紀において母国と対峙していけば良いのか。そのヒントは、実際にその場所に立っていなければ感じられない点にあります。つまり、母国愛の正体を各々に見極めるためには、自分自身がその場所に実際に立って感じてきた熱、そして歴史や文化などを総合的にイデオロギーに傾倒せずに可能な限り冷静な目で見極めて、暴いていくほかない。
次回は、私にとっての時代の熱について綴っていきます。