冬という季節と呼吸The Season of Winter and the Breath
木枯らしの冷たさが肌を刺し、冬の帳が下りるにつれ、世界は静寂へと向かい、私たちの呼吸もまた、ゆっくりとそのリズムを整える必要に迫られています。
そもそも冬という季節は、万物が活動を潜め、根源的なエネルギーを蓄えるための時間です。内省的になるには最も適した季節であり、多くの人々が一年を振り返り、来年への思索を様々に巡らせるのも、自然の摂理にかなったことと言えるでしょう。私自身、この二年ほどの間で、生活のリズムや心身の傾向が劇的に変化したことを実感しています。
7年前まで私は、この季節が巡り来るたびに、冬季特有の重たい季節性の憂鬱に苛まれていました。日照時間の減少と共に心は塞ぎ、出口のないトンネルを彷徨うような感覚に陥っていたのです。しかし、ある一つの習慣が、その闇に風穴を開けました。それは、秋口から意識的に太陽の恩恵を身体に取り込むこと、すなわちビタミンD3の摂取と、可能な限り冬の陽光の下で心身をリセットするという、極めて原始的な儀式でした。そしてそれは冬季に入ってから急に行うのではなく、徐々に身体のモードを切り替えて活発性を抑えていくことに鍵があり、現代人にとって最重要な時間をかけて準備をするということです。
数年前までの自分を顧みれば、そこには常に過剰な緊張がありました。見えない敵に対して攻撃的になり、焦燥感に駆られていましたが、何が自分をそうさせるのかも分からず、どこへ向かおうとしているのかも定まらないまま、ただ盲目的に何かを追い求めていたのです。おそらく、現代を生きる多くの人々が抱える乾きも、これと同質のものではないでしょうか。私たちは常に「何か」を追い求めていますが、その「何か」の正体を知る者はあまりに少ないのです。私の探究心の一つは、この「何か」を言語化することです。
私たちが日々感じている疲労の正体。それは単なる肉体的な疲れではなく、「何者かでなければならない」「常に主体的でなければならない」という、強迫的な自我の維持が生み出す摩擦熱に他なりません。一体、この虚無にも近い感覚はどこからやってくるのか。今回は、21世紀最大の特徴であり、また同時に最大の問題でもある観光から考えていきます。
かつてないほど自由に移動できる時代を生きている現代人。手のひらサイズのデバイス一つで地球の裏側の宿を予約し、数千円から数万円出せば、数時間後には異国の空気を吸うことができる。しかし、物理的な距離をどれほど移動しても、あるいは絶景と呼ばれる場所に立っても、心からの安息が訪れないという経験は、誰にでもあるはずです。特にこの十年、こうした傾向は過激と言えるほどに高まってしまい、結局、大勢の人々が一体何をしにお金を払い、時間を使ったのか分からなくなったようにも感じます。
そうした時、私たちの心の底から襲いかかってくるのは、充実感などではなく、むしろ底知れぬ空虚感です。ですがその空虚感を認めてしまうと、ソーシャルメディア時代において自分自身が埋もれてしまう不安を感じ、この空虚感をなかったことにして充実感を演出、つまり捏造された充実感や、用意された充実感を実装して、「これは消費ではない」と宣言するのです。この時代が10年程度続いた今もなお、そうした人々は無限に増殖しており止まることはなく、結果的にオーバーツーリズムという地域の破壊運動として最悪の形で表面化しました。生活の破壊、文化の破壊、習俗の破壊、生命の破壊、資本の破壊、協調性の破壊など文字通り全てを破壊するオーバーツーリズムは、21世紀型の軍隊や侵略とも言えます。
この2年でどのように生活が変わったかを改めて考えてみると、一つは日本がパンデミック明けに戻ってからの2年ほど、いわゆる観光地と呼ばれる都市の「中心」には、全く寄り付かなくなりました。これまでは観光客が多いとは言っても、まだローカルが心安らぐ場所も多く点在しており、観光客が入ってこない静かな店などでコーヒーを飲みながら読書をしたり、店主と話を楽しむことができました。つまり、棲み分けが成立していたのです。ですが、2年ほど前から事態は一変します。この背景にあるのが何なのか今も不明ですが、おそらく「ローカル体験」という観光客の一方的かつ利己的な「体験中毒」に要因があるのではないかと見ています。
確かに、遠くから異国へ来訪する以上、人よりも多くの体験をしたいと思うのが現代人の心理です。そして来訪する前から、今は大量の情報を見聞きすることができるため、来訪する前に既に観光客はその街について「知っている」ことになる。正確には、「知った気になっている」ということです。そして「知った気になっている」以上、無際限に流れるフィードを前提に、Youtubeやインスタグラムで紹介されていない世界に関心を持ちます。こちらは正確には、関心をアルゴリズムによって誘導されるということです。こうして必然的にフィードに流れる観光地特有の世界ではない、ローカルの世界を体験することが提示される具合です(ただし、既にこのローカルの世界も、アルゴリズムによって意図的に見せられていないとも言えます)。つまり、体験中毒の背景には、実は個人が求めているようでいて、実はアルゴリズムによって誘導・提示されているという事情がある。
個人的に考えるオーバーツーリズム最大の問題は、確かに破壊的な数の論理もそうなのですが、それ以上に行ったこともない街に対して「知った気になっている」態度それ自体にあります。今や一歩もソファから動かずとも、何でも知った気になれる世界に誰もが生きていますが、実はこれは健康問題と同根ではないかと私は考えています。まるで糖分や脂肪分を過剰摂取するように、人々は情報を過剰摂取し、常に飢餓状態のように貪り食っています。個人的な推察では、「糖分摂取量」(血糖値スパイク)と「情報摂取量」(ドーパミンスパイク)は比例します。
しかし、糖分は満腹になれば限界に達するが、情報は食っても食っても終わらず、いくら消費しても終わらない特質を持っている。理由は明白で、一人の個人が消費できる情報量を遥かに凌駕する情報が、秒単位で生成されているからです。
ある意味、現代の観光とは、ガイドブックやソーシャルメディアで他人が切り取った正解をなぞり、そこに自分の身体を配置して記録することです。それは世界との出会いではなく、既知の情報の確認作業に過ぎませんが、年々このことが分からない人々の母数だけが激増しています。そこにあるのは、世界に対する謙虚な驚きや感動ではなく、ましてや他国・他者・コミュニティに対する敬意でも理解でもなく、ただ「ここに来た私」を確認したいという肥大化した自意識の鏡像です。言い換えれば、オーバーツーリズムを破壊と位置付けることができる理由は、その「顔なきツーリスト」の正体、が文化理解や他者への思いやりなどを持たない、利己的にしか人生を考えていない人々が主軸だからです。だからこそ、ツーリズムが21世紀の一つの問題として浮上している。逆に言えば、心あるツーリストにとって、これほど厄介な問題はないということです。なぜならば、「ツーリスト」というレッテルによって、全てが同一視されてしまうからです。心あるツーリストであろうとするならば、やはりこのオーバーツーリズムの問題から目を逸らしてはならないと強く感じます。一体、これは何なのかということを問い抜くことです。
現代社会は、私たちに対して常に「主体」であることを強要します。どこへ行くか、何を食べるか、どう生きるかなど、すべての責任はそれを選択した私にあるとされるのが基本です。この過剰な自己責任論は、旅においてさえ私たちを支配しています。金を払い、時間を使い、移動するからには、最高率で最高の結果を得なければならず、失敗は許されない。そうして自らの意志で旅程をコントロールしようとすればするほど、世界は予定調和の箱庭となり、予期せぬ神秘はその扉を閉ざしてしまいます。何も決めずにただ揺蕩っていればいいかといえば、それもまた、現代特有の不安を呼び覚ますだけです。何と舵取りの困難な時代でしょうか。
私もかなり旅をしますが、ここで突破口になるであろう、一つの視座の転換を提示したいと思います。それは端的に言えば、「行く」のではなく「呼ばれる」こと。「見る」のではなく「観る」ことへの回帰です。あえて、回帰と言います。新しいことをやる必要はないからです。機会があり、読者が興味があるならば、この「呼ばれる旅」という観点で私のささやかな日記のようなものを写真と共に提示する記事を書こうと考えています。というのも、特に英語圏の読者にとってはこの「呼ばれる」という感覚が、言語的に主語を持つことからテキストだけでは伝わりきらない可能性が高いからです。
そもそも私たちが選び取るという行為に疲れ果てているのは、言い換えれば、「私」という小さな器を起点にしていることに疲れているからだと言えます。つまり面白いことに、現代人は主体を持つこと自体に疲弊している。一方、かつて人々は土に根ざし、土地の神や季節の巡りに身を委ねて生きてきました。しかし私たちはその根を自ら断ち切り、いつの間にかデジタルの海を漂う根無し草となり、重力のない空間で必死にアイデンティティという名の杭を打ち込もうと藻掻いています。アイデンティティなど存在しない、偽装でしかないことは私の考察テーマの一つですが、それが現代人の抱える不眠や焦燥感の根源に蠢いています。だからと言って、かつてのヒッピーのように文明を捨て去ることも、日本で流行っている都市生活を離れた田舎暮らしを始めることも現代の解決策ではない。
世界の原理は不思議なもので、外へ、外へと答えを求めて移動すればするほど、逆説的に内なる空洞は広がっていきます。その結果、私たちは世界を見る眼を失い、あるいは曇らせ、ただ光に群がる羽虫のように、眩しいだけの表層を消費しているに過ぎないのかもしれません。するとこの眩しさの正体である光とは、生命から発露した「生命光」ではなく、非自然的に作られた、あるいは用意された「人工光」だということが見えてきます。オーバーツーリズムに蠢くツーリストとは、この人工光の演出・餌に群がる羽虫に過ぎない。だから生活者にとって、目障りだと感じるわけです。誰だって、夜の街灯に群がる羽虫を見れば、目障りだと感じるのと同じです。
言うまでもなく、他国の光、他都市の光というものは、本来、ただ美しいだけの装飾ではありません。どれだけブランディングやプロモーションで美しさを装っていても、それは実態を反映してはいません。その土地が背負う影や痛み、歴史や文化の重層性を孕んだ、生きることそのものの生々しい輝きであったはずです。ですが、観光地化・テーマパーク化された街においては、ツーリストのためにこうした不純物を除去し、精製した光だけを人工的に演出します。これによって、わざわざ遠方から来訪するツーリストが、嫌悪感を抱かないように徹底的に環境整備する。これを「精製光(白砂糖のように精製されて不純物を除去した砂糖)」と言っておきましょう。
その光を真正面から受け止めるには、見る側にも相応の覚悟と、内なる静寂が必要となります。しかし、今の私たちの眼は、あまりにも多くのノイズで濁ってしまっています。そして見たいものだけを見る、見たくないものは見ないという超過保護のクリーンルームで育った現代人は、もはやそこで見る景色が「知った気になっている」景色とイコールでなければ満足しません。つまり観光地の提供側と、オーバーツーリズムにおける観光客はイコールであり、共犯です。ツーリストは「精製光」同様、自ら不純物を精製し、「知った気になっている」体験とイコールに整えます。これが現代観光の病理です。
一体、今、本当に必要なのは、新しい場所へ「行く」ことなのでしょうか。むしろ、今の私たちが問い直すべきは、「呼ばれる」という感覚を取り戻すことではないでしょうか。
「行く」のではなく「呼ばれる」。この感覚は、主体の呪縛から解き放たれるための鍵です。私自身、旅先でふと立ち寄った場所において、言いようのない心地よさや、懐かしさを感じることがあります。その経験を幾度か繰り返す中、それは私が選んだのではなく、場所が私を選んだことに気付きました。これは、日本古来の神道の感覚にも通じます。調査旅に関連して多くの神社に参詣するのですが、「私が参拝することを選んだ」のではなく、「神に呼ばれてそこへ至った」としか思えないことが多々あります。幾ら著名な神社に出向いても何も感じないこともあるが、偶然立ち寄った神社で強烈な霊性に迎えられると感じることもある。まさに「神に呼ばれる」ということですが、ここにオーバーツーリズム時代の先に進むヒントがあると考えます。鍵は、傲慢な主体の放棄と、大いなるものへの委ねです。
ここで基本に立ち返ることは意味を持つでしょう。それが、ツーリズムで使用される日本語の漢字「観光」という言葉の語源です。観光は、中国の古典『易経』にある「観国之光(国の光を観る)」にあるのですが、これは本来、王が統治のためにその土地の風俗や人情、つまり目に見えない理(ことわり)を深く観察することを指していました。
ここで重要なのは「観る」という行為です。それは単なる視覚情報の収集としての「見る」ではありません。仏教において観音菩薩の「観音」が「音を観る」ことを意味するように、それは対象と一体化し、その本質を心の眼で見通す深い眼差しを意味します。そこには、主体と客体の分離はありません。
この境地に至るには、「感応」が必要です。心が静まり返り、澄み渡った水面のようになった時、初めて向こう側の世界がこちら側に映り込む。実際、漢字の「観」とは、コウノトリが水中の魚をじっと見つめる様子に由来します。この本義は、水面(表層)の揺らぎに惑わされず、その奥にある本質を静かに、しかし強烈な集中力を持って見通す眼差しであり、その眼差しを持つ者は自らの我欲を滅却し、対象と一体化する必要があるということです。
西洋的な近代自我が「確固たる個」を確立することを目指すのに対し、日本側の精神の古層には、自らを「空っぽの器」とする思想が流れています。ここは翻訳不可能なのですが、単なる何もない状態なのではなく、「充溢」です。むしろ空虚であるからこそ、そこに風が吹き抜け、神が宿り、他者の想いが響き合うのです。
つまり観光の語源を辿ると、他国・他都市などに出向き、その異国の「光」を「観る」こと。光とは、前述のように多元的な意味を持ちますが、私の定義では、良いことも悪いことも全て含めて自分なりの視座で観ることです。そしてもっとも重要なことは、観光は必ず自分自身の国や街へ還元するためにあるということ。断じて自分自身の利己的な欲求を満たし、そこにおいて完結するものではないということです。すなわち、観光は常に帰還し、母国に尽力するためにこそ真価を持っているのです。この循環というか流動というか、この観点をオーバーツーリズムに回収されない心あるツーリストは持っておけば、決して利己的に陥ることはないでしょう。
しかし、現代人は「待つ」ことができません。空白を恐れ、沈黙をノイズで埋め尽くそうとします。逆に言えば、現代で勝ち抜くことはそれほど難しいことではありません。なぜならば、誰もが不安定で加速の渦に飲み込まれて我を見失って利己的になっており、一瞬の空白にも耐え切れず、長期的視座など絶対に持てないからです。だからこそ、検索し、計画し、所有しようとする手を止め、「待つ」ことを学ぶ。それは、何もしないことではありません。能動的な静寂の中で、微かな呼び声に耳を澄ませることです。これによって「呼ばれる」声をじっくりと待つ。呼ばれるまで待つのです。
実際、私が調査旅に出る時、緻密な計画は立てません。頼りになるのは、風の匂いと直感だけです。理屈ではなく、身体がどちらの方角に行きたがっているかを見極めるために、いつも地図を開いてどっちに行きたいかという特定から始めます。それはつまり、身体というよりも霊性がどこの風を浴びたいと感じているのかです。ここには場所、季節など様々な要素が関わっていますが、その感覚に忠実に動く時、偶然出会った風景や、名もなき場所の静寂が、雄弁に語りかけてくることがあるのです。それは有名な観光地でなくとも、あるいは辺鄙な場所であっても、その土地が私を必要とし、私がその土地を必要としたという、幸福な合致の瞬間です。これを日本では「縁」や「神に呼ばれる」と表現してきたのでしょう。
場所が人を選び、人が場所に選ばれる。この感覚を信じるならば、私たちはどこへ行っても、決して「ここではないどこか」への渇望に苦しむことはなくなります。なぜなら、その場所に立っていること自体が、一つの必然であり、応答だからです。
良いことも悪いことも、美しい風景も荒廃した光景も、すべてを「光」として観る。そうした覚悟を持って世界と対峙する時、私たちは単なる消費者としての観光客から、光を運ぶ「巡礼者」へと変わることができるのかもしれません。西洋とて、かつての巡礼者にはそうした姿があったはずです。私はどんな形であっても、宗教への信仰心は美しい、信仰心は人間にとって如何なる形であっても必要だと信じています。宗教とは、何も特定の教派・教団でなくても良い。私であれば、日本的な神道の八百万神という観点から、「中心なき信仰」を自らの宗教としています。
自らを透明な媒質とし、ただ風をその身に通すこと。
この冬、どこか遠くへ行こうと計画を立てる前に、一度立ち止まり、耳を澄ませてみてはいかがでしょうか。あなたを呼んでいる場所の微かな声が、この冷たい風の向こうから、きっと聞こえてくるはずです。