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創作の衝動と、AI時代の人間The Creative Impulse and Humans in the Age of AI

人間の内奥に秘める創作力、すなわち「何かを生み出さざるを得ない」という誰もが経験したことがある衝動は、極めて不可解であり、かつ底なしに興味深い現象です。特に現在、AIの台頭によって反動的にこの問題がフォーカスされていますが、そもそも根本的に、それらの主唱者たち自身、人間のクリエイティビティが何かを突き詰めて考えたことがあるのでしょうか。実際、AIの台頭はあくまでも時代潮流でしかないことを、彼らは理解していないように感じます。実生活において、自らの創作力が所詮は代替可能であった事実に直面し、そこで初めて慌てて人間のクリエイティビティと叫んだところで、単なる準備不足でしかない。そのことは、クリエイターとして激動の時代を生きる強靭な覚悟を持つ者であれば、誰もが知っていることです。

ただし、そもそもクリエイティビティは、万人に共通する定義を持たず、個々の人間によって色彩や深度、あるいはその射程距離は大きく異なります。しかし、私個人の経験則、そして自身の起源と関わる日本の文化の深層を凝視してきた観測に基づけば、一つだけ、絶対的な確信を持って言えることがあります。

それは幸福に満ち足りた状態、あるいはシステムに飼い慣らされた完全なる安寧において、人間の表現は決して先鋭化しないということです。何であっても満たされた者は、現状を肯定する歌しか歌えない。彼らの言葉は空気を震わせず、ただその場を心地よく撫でることしかできないからです。では一方で、私にとって、そして真に世界に対峙しようとする者にとって、クリエイティビティの本源には何があるのか。その核にある、ドロドロとした鬱積としたマグマのような力を言語化するならば、それは「憤怒」です。

ただし、私が言う「憤怒」とは、ソーシャルメディアのタイムラインで日々蔓延しているような、承認欲求や被害者意識に紐づいた瞬間的な怒りの爆発や、精神疾患を世代間に蔓延させようとする類のヒステリックな感情の吐露を指すものでは断じてありません。私が指す憤怒とは、もっと物理的な質量があり、比重が重く、深度が高く、腹の底に長い時間をかけて沈殿し、冷たく硬質化した「歴史」そのものです。別な言い方をすれば、人間が生まれた瞬間に、自らの意志とは無関係に引き受ける歴史的宿命そのものであり、成長し、世界との摩擦によって皮が剥け、血を流すに従って、その底部で静かに、しかし確実に煮えくり始めるものです。この憤怒を自覚しているか否か。実は人間が生きることの生命力は、ここに起源を持っているのではないかと考えています。

ゆえに、全てのクリエイターは、本質的に自己という小さな自我の枠組みを凌駕した、深淵な歴史自体を引き受ける覚悟が必要であり、そこが創作の唯一無二の出発点となります。

私たちが日々、複雑に錯合しながらも、未だに現実(the real)であると信じ続け、疑いもなく現実と呼び続けるこの世界は、実際には「現実性の虚構(reality)=社会システム」に過ぎません。私たちはこの虚構を実現し、そこに過剰適応しようともがく過程で、本来あるべき生々しい現実性を、システムにとって都合の良い、管理可能な形へと自ら疎外してきました。その結果、社会は確実に画一的な統一傾向を強め、同時に人間の自己もまた、その規格に合わせて疎外・統一され、代替可能な部品へと加工されてきました。

ですが、その視座はあまりにも近代型人間や近代世界を美化し、自らの加害性を正当化するものであったのではないか。実際、そのプロセスを冷徹に凝視すれば、そこにあるのは暴力的な選別です。一元的な統一にそぐわない感情、システムに適合しないノイズ、経済的合理性のない思考、清廉潔白ではない欲望、あるいは死や病、汚濁といった穢れとされるものは、無用として積極的に放り出され、破棄され、無視され、無神経に踏み潰されてきました。

しかし、先進国の人間が自然をコントロール可能な資源だと甘く見過ぎてしっぺ返しを食らっていることと同様に、そのように「なかったこと」にされてきたすべてのものは、断じて消滅したのではない。世界の戯れで表層的に危機が去ったと安寧を演じていても、排除されたものは、常に、確実にそこに在るのです。それは私たちの視界から外れた場所で、ドロドロとした得体の知れないものとなり、私たちの意識/無意識と分離されている領域の境界線を容赦なく破り、底の深淵に降り積もり続けています。この得体の知れない堆積物こそが憤怒の正体ですが、それは見方を変えれば不安そのものの実体です。実体としての不安には、人間の存在自体を根底から常に動揺させ、足元を崩す破壊的な力がある。それも、日常の喧騒にかき消されるほど、極めて静かに、地下水脈のように。

クリエイターとして、あるいは一人の人間として、この憤怒という堆積物を自身の内に領有しているか否か。そして、その圧倒的な重みに耐えうるだけの覚悟を持っているか。これこそが、表現の質と強度を決定づける極めて重大な問題です。なぜなら憤怒とは、過去に石化して取り残された残酷な現実(the real)から目を背けず、それを直視し続ける強靭な意志の別名だからです。

安易な癒やしや、いいねの数による承認、あるいはアルコールや享楽による忘却という誰かに用意された麻薬に逃げず、腹の底にある泥を凝視すること。その腹の底には、個人的な記憶を超えた、種としての歴史があり、起源がある。私はこの根源的な不安自体を歴史だと見ていますが、その歴史とはアカデミックで語られるような、年号と出来事が無機質に並列する水平的な歴史ではありません。なぜならば、所詮、学問としての歴史など、近代において疎外された現実性の観点から解釈された、優位な人々のための、あるいはシステム維持のための恣意的なストーリーでしかないからです。つまり、そこに我々の血肉となり、魂を震わせる本当の歴史はない。

どれほど過酷で、どれほど醜悪な記憶や感情であったとしても、そこから目を逸らさずに直面する姿勢を持つこと。その強烈な自らへの負荷こそが、私たちを未来へと押し進める逆説的かつ生存本能的な推進力となるのであり、別な言い方をすれば、それが生きることの源泉です。生命は安全地帯ではなく、ここにおいてのみ、真の輝きを放ちます。現代人から生命の輝きが絶え、目が死んだ魚のように濁っている理由は、まさにここにあります。彼らは負荷を捨て、軽さを選んだ代償として、重力という生きる手応え、すなわち生の実感を失ったのです。いや、自ら放棄したと言っても良い。80億人という数だけは立派になりながら、生の実感を有する人間はほとんど居ない惨状。これが近代が育んだ理想世界の答えです。

改めて、近代以降の世界、特に私たちが生きるこの現代社会はどうでしょうか。私の目には、近代とは人類規模の巨大な隠蔽プロジェクトとして、あらゆる「不都合なもの」を見えないように隠蔽し、漂白し続けてきた総称でしかないように見えます。この不都合なものとは、一般的に語られる意味での透明性を求める社会運動の流れではない。それは結局のところ、社会システムの構造の範疇に限定した視座であり、あまりに局所的で、システムの掌の上での遊戯に過ぎないからです。そして仮に社会システムの透明性が人間の透明性とイコールになると信じるのであれば、それはまさに、人間がシステムに自己家畜化していることの何よりの証左です。

つまり、ベクトルが逆なのです。システムばかりを標的にし、コンプライアンスや透明性を高めたところで、それは現実性(reality)における捏造された透明性、いわば無菌室の透明度でしかなく、相変わらず現代人が見ようともしない不安自体、自然自体、現実(the real)自体を凝視することには繋がりません。むしろ、透明になればなるほど、その向こう側にある深淵は見えなくなるというパラドックスに陥っています。私たちはガラス張りの牢獄の中で、自由だと思い込まされているに過ぎないのです。しかも誰もが心の底では、これが真の自由ではないことを感知している。隠蔽は、個人レベルで起きるのが近代の病です。

死、病、老い、そして狂気という問いを放棄して、隠蔽に隠蔽を重ねてなかったことにし、挙句には個人の内面にあるドロドロとした情念さえをも破棄させてきた近代史。やがて人々は社会生活において、こうした得体の知れない不安自体を露呈することはなく、それを露呈しない配慮の技術こそが社会生存の高度な倫理であり、基本であるとして通底させています。ですが、一人一人の内面をメスで抉れば自明な通り、人間は社会において綺麗事を幾ら述べていても、表に出さない内部では何を考えているか分かったものではない。幾ら人間を美化し、理性的な存在だと定義しても、人間など所詮はその程度でしかない。現実・不安・自然は突如、私たちの信じている捏造された装飾の世界を、一瞬で消滅させる力があるのです。

つまり、近代以降、人間は「良くなった」「進化した」とする線形思考の世界観は巨大な嘘であり、単に隠蔽する技術、臭いものに蓋をする技術を高めただけに過ぎない。人間は常に何も変わっていないのです。どこかの時代で、その醜悪な事実に耐えかねたのか、これらを視界から消し去り、清潔で管理された空間を作り上げることを「進歩」と呼ぶ偽装を行なってきましたが、今やその完成度は世界規模で高度になっています。結果として、生きている人間、血の通った人間、矛盾を抱えて苦悩する人間を見つけることが、砂漠で水を探すよりも至難の業になってきたことを感じます。

現代社会は、この隠蔽工作を都合良く配慮や思いやり、あるいは慈悲という耳障りの良い言葉でパッケージ化して拡散することにより、人間にとって普遍的な価値観としての「世界」を構築してきました。しかし、その代償はあまりに大きく、その世界なる欺瞞が次々と暴かれて耐久性を持ち得なくなってきた昨今では、今更どのように対処すれば良いのか誰も見当が付かない状況に追い込まれています。なぜならば、過剰な漂白と隠蔽の連鎖によって歴史自体が疎外された結果、私たちが本来根を下ろすべき、土着的な「場所」の感覚、大地を踏みしめる足の裏の感覚は完全に破壊されてしまったからです。私たちは根無し草となり、デジタルな風に吹かれて彷徨うだけの存在となり果てました。

その結果、私たちは今、かつてないほど不安の濃度が高まった世界、窒息しそうなほどの閉塞感の中を生きています。その世界はもはや維持することすらままならないため、かつてであれば隠蔽できていた現実が、徐々に隠蔽できなくなって、随所で突然噴出するような事態を次々と招いています。突然不安に直面した現代人は、そもそも自然、不安、現実への免疫を全く持たないクリーンルームで培養されてきたため、アレルギー反応としての精神錯乱を起こしています。さらに問題なのは、この不安自体が液状化を遂げて、グローバルという次元を人々の移動や情報の伝播に呼応して、全方位的に拡散させていることです。ここが問題考察の最も重要な鍵です。

なぜならば、このグローバルな液状化として不安自体が常にどこでも現出する状態になった今、本来であれば土着的な場所の問題であった固有の歴史が、その歴史とは全く無関係の国・民族にまで容赦なくイコールとなって襲いかかる事態が起きているからです。グローバリゼーションによって移動の自由化が起きたのは、表面的には人・物・情報だという共通認識がありましたが、こうした美化された移動の底で、実は歴史という不安自体の現実もまた、移動速度を高めて液状化を遂げたのです。つまり、不安は人々の移動と共に、ウイルスの如く、隠されたまま世界の地盤となっている。ゆえに、人類全体に共通の病を発現させることが人類史上初めて可能となったのです。だからこそ、もはや一国では、問題に対処できないレベルで危機が迫っており、その象徴としてのパンデミックは、まさにそれを突きつけました。ですが、これはまだ序章に過ぎません。これから始まるのは、隠蔽されたものたちによる、容赦のない逆襲です。

そして最大の問題は、既成世界を未だに維持しようと固執しているエリートたちは、現実性(reality)における現実(the real)の隠蔽工作は長けているが、剥き出しの現実に対峙する技術を何も持っていません。彼らはマニュアルにない事態には無力であり、想定外の野生には恐怖しか抱けない。そして、このエリート主義に反発するポピュリストや活動家たちも全く同様。つまり、同じ穴の狢でしかない。政治が右に振れようが左に振れようが何も変わらないのは、この底部、すなわち現実という地盤を誰も見ていないからです。隠蔽工作技術だけは同じように保持しているため、イデオロギーは変わっても、事態は何も変わらない。単に看板を書き換え、席替えをしているに過ぎないのです。

近代以降、現実の不純物、つまり人生の手触りや抵抗感、摩擦を意図的に喪失させたことで、私たちは自分が立っている地面の厚みを失ったのですが、それは断崖絶壁の縁を目隠しで歩いているようなものです。半歩でも踏み外せば、あるいは地盤が少しでも揺らげば、足元の世界は一瞬にして崩れ去るほど力のない世界。今まで「確かにある」と信じていた日常は霧散し、隠蔽されていたはずの不安——数百年かけて人類が隠そうとしてきた現実の堆積物——が、突如として眼前に突きつけられるのです。今後、人類が直面する現実の復讐は、自然の復讐同様、これまで築き上げてきた理想世界と信じられてきた全てを、完膚なきまでに容赦なく一掃するでしょう。私たちは、少なくともその時代を、幻想を剥ぎ取られた荒野で生き抜かなければならない。

では、この危機的状況において、クリエイターが果たすべき役割とは何でしょうか。そこが、我々に突きつけられた最も重要かつ、逃れられない問いとなります。自明な通り、それは断じて他者の暇を潰し、他者の思考を剥奪するための、麻酔のような消費型エンターテイメントを提供することではありません。そうではなく、自分自身の腹の底にある憤怒の源泉と向き合い、血まみれになりながらそれを掘り起こし、世界という断崖の縁に自ら曝け出すことの一歩を、人々に突き付けることです。

それはまるで、自らの血液や生命そのものを分け与えるような、激しい痛みを伴う行為です。しかし、その痛みを引き受け、得体の知れない泥を形にする覚悟を持つ者だけが、真の意味で他者の魂に触れ、共鳴させることができるのです。魂を揺さぶる表現が絶えて久しい理由の背景には、現実を問う力を養わない人々が、ただ便利なツールに使われてクリエイターと名乗る民主化運動の担い手となったからです。技術の民主化自体は個人的に歓迎していますが、問題はそれ以前にある。幾ら民主化されたツールによって、誰もが何でも作ることのできる時代になったところで、私たちが人間である以上、クリエイティビティの本質、その深淵は微動だにしない。ツールが進化したからといって、魂が深くなるわけではないのです。

「憤怒」を、自らの内側に持っているか、いないか。

そして、それを「世界」に晒け出し、返り血を浴びる意志があるか、ないか。

その一点が、今後さらに加速する虚構的な世界において、私たちが単なるコンテンツの生成者という名のデータとして埋没するか、それとも真の表現者として、あるいは一人の人間として生き残れるか否かを分ける、残酷な境界線となるでしょう。