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高度情報化社会の致命的な欠陥The Fatal Defect of the Information Society

今日の高度情報化社会は、ある一つの巨大な、そして致命的な欠陥の上に成立したまま、先が見えなくなっています。それは、人間の強さや幸福、ひいては存在価値そのものを、経済的指標や社会的リソースの多寡という定量的なスペックのみで限定的に測定しようとする文明レベルでの問題です。私たちはあまりにも長い間、年収、GDP、フォロワー数、学歴など、無数の数字指標で自分や他者を計測することに慣れきってしまいました。

確かに、数字は極めて便利です。誰の目にも明らかで、共通言語として機能させることができ、しかも普遍性として特定の国・民族の価値観を他国・他民族へ輸出できる。一見すると、公平な序列をもたらすように見え、世界の一員になるという国家の目標としても使用価値があるからです。しかし、この公平な序列という果実こそが、厄介な問題を私たちの基盤に移植した主因であり、中毒性の高いこの果実をやめることができなくなっています。この時、効率と可視化を極限まで追求する資本主義のアルゴリズムは、人間を人間たらしめる最も重要な、そして最も聖なるパラメータを意図的に計算式から除外し、それをなかったことにして今も覆い隠しています。

それが、「意志(Will)」です。意志は数値化不能であり、計算もできません。現代では個人の大半の裁量権が他なるものに移譲されていますが、意志は常に己自身の決断自体に全裁量権が委ねられています。人間の意志ほど美しいものはない。

スペックだけで人間を語ることが常識となり、それが固定観念として数世代にわたって教育やメディアを通じて刷り込まれた結果、現代人は致命的な機能不全に陥っています。自分の人生に対して自分で全ての責任を持ち、不確実な世界で羅針盤を持たずに決断を下すという主権者(Sovereign)としての機能の喪失は、その最たるものでしょう。

その結果、何が生まれたでしょうか。外界は物質的にかつてないほど豊かで、安全で、清潔であると肯定的に評価されてきましたが、精神的には「誰かに決めてもらうこと」を口を開けて待ち続けるという、巨大で深刻な「他者依存者(Dependent)」の群れへと転移しました。重要なことは、人類という定義にも普遍性はない、時代に応じて転移しているということです。他者依存者の群れである現代の人類を続けるならば、衰亡の未来以外に向かう先はありません。

彼らの行動を見ていると、正解がどこかにあるという妄信に陥ったまま、その答えを内ではなく外にしか見ていないことが分かります。正解がどこかに落ちていると信じ、日夜、インフルエンサーやAIのリコメンド、あるいは政府が「自分をどうにかしてくれる」ことを無意識に渇望しています。体裁があるので口では立派なことを言うが、他者依存者であることに変わりはない。ソーシャルメディアの巨大な浸透は、他者からの承認を自己の存在証明の唯一の根拠とするこの傾向を、恐るべき速度で徹底させました。私たちは今、自らの意志をインフルエンサーを通じてアルゴリズムにアウトソーシングし、魂をクラウド上のサーバーに預けてしまった「抜け殻の文明」の中に生きていると言っても過言ではありません。インフルエンサーとは、人々をアルゴリズムに回収するための捕捉装置です。

一時、現代社会にはびこったVictimhood(被害者意識)の病理の本質も、この構造的欠陥に起因しています。現代の福祉的・人権的システムは、人々を守られるべき存在としての弱者として裁定し、恣意的にカテゴライズすることで、彼らから決断の重荷を巧妙に剥奪してきました。「あなたは悪くない、社会が悪いのだ」「環境が悪いのだ」という耳障りの良い囁きはソーシャルメディア空間で四六時中反響しています。これは一見すると弱者への救済や優しさに見えますが、その実態は個人の尊厳を去勢し、永遠に管理下におくための残酷な自律の剥奪に他なりません。「時代が悪い」「政治が悪い」「親が悪い」などと嘆くことは、自分自身を律するよりも遥かに容易だからです。

何を隠そう私自身、これまで物事がうまく運んだ試しがないことから、全てを上記のように他なるもののせいにして嘆くことしかできませんでした。しかし、34年程度生きていれば、それなりに人生を変える転換点が起きるもので、何度も試練が訪れる最中、徐々に自分自身の人生を責任転嫁しているからこそ、このような窮地に陥っているのではないかと察知し始め、試練から逃げずに徹底して向き合うことに決めました。いわば、自らの人生のハンドルを他者に明け渡す行為を続ける中、何が真の問題なのかをとにかく追求し続けていると、やがて自分自身を汚染しているものの正体が、一般化された常識という誰もが信じて疑わないもの自体にあると気付いたのです。

これが、人間の幸福を阻害する最大障壁なのではないか。そう考えた時、一般化された概念を解体、再定義、再解釈、破壊していくことに一つの突破口を見たのですが、現在ではその根底にある思考が生まれる地盤替え(displacement)を徹底しています。すると、そのような責任転嫁の嘆きは一切起きなくなった上、進むべき方向に邁進する道が開けてきました。

この34年の経験から痛いほど理解していることは、不満を言うこと自体が、実は現状維持への強力な同意であり、依存の裏返しだということです。つまり、私たちの社会システムは、人々が不満を言ってくれた方が維持できるということです。なぜなら、自分を被害者として定義することは、「自分には状況を変える力がない」と自ら宣言することと同義だからです。システムは、このような他者依存者の母数を多く獲得することによって維持可能となり、それを本質を失った数の論理として転移させた民主主義の力で横暴に回収します。Victimhoodの世界的病理の蔓延は、まさに自分の可能性を放棄する極致形体です。そこには「失敗したときの責任を負わなくて済む」という甘美な安心感が約束されており、しかも被害者を演じる以上、加害者を仮想的として実体化することが可能です。他者依存者にとって、これほど魅力的なものはありません。

要するに、自分自身が自分の人生に対する責任を放棄する決断を行なっているにも関わらず、それを全無視して、仮想的として実体化した加害者の責任として全てを転嫁する。この安全な檻の中に留まることこそが、現代人の生存本能を蝕む最大の病となっています。

この状態を「自律麻痺」と呼ぶならば、これこそが現代における真の貧困です。私たちはここで、定義を反転させなければなりません。例え、その人物がどのような社会的地位であるにせよ、市場の動向や他者の顔色に怯え、自分で進むべき道を決められない人間は、紛れもない弱者なのです。逆に、金も地位も名誉も持たざる者であっても、自分の足で荒野に立つと決意し、誰の許可も得ずに孤独な決断を次々と下せる者は、絶対的な強者です。私にとって強者・弱者の境界線は、「自分で生きる覚悟」の有無だけです。それ以外は全て戯言、言い訳です。

リソースの多寡など単なる状況説明に過ぎず、その人の人生を生きる覚悟自体に何の影響も及ぼしません。それを「及ぼしている」と刷り込むことによって、近代以降の覇権を維持できたのですから、これほど楽で美味しい果実はないのです。「自分の人生の全責任を引き受ける覚悟」の有無だけが、人間を分かつ唯一絶対の境界線なのです。その上で他者依存者の道を自らで選ぶ者などに構っている暇があれば、自分自身の為すべきことを為すべきです。時間こそ、最大の資産ですから、浪費している場合ではありません。

では、これから訪れる未来において、我々はいかなる生存戦略をとるべきなのでしょうか。冷徹に時代を見据えれば、これから世界が迎えるのは、既存のルール、通貨、国境、そして評価軸などが音を立てて崩壊していく、極めて流動的で液状化した残酷な時代です。過去の遺産や肩書きが全て通用しなくなった荒野で生き残るのは、一体誰なのか。

間違いなく言えることは、守られることを権利だと勘違いして今も答えを待ち続ける者ではない。今、この瞬間に決断できる者です。強者とは他者を支配する者(Ruler)などではない、自分自身の運命を支配し、決定権を行使できる者(Decider)のことです。そしてそもそも、支配など存在しない。ここで、あらゆる価値観をゼロベースに戻したとき、現代の決断不全という病に対する解として、昨日も登場した剣豪・宮本武蔵が死の直前に、洞窟の中で記した『独行道』の概念が、強烈なリアリティを持って浮かび上がります。

「独行」とは、物理的に山に籠もって一人でいることや、社会的な孤立(Isolation)を指すのではありません。それは、すべての決断の基点(Origin)を自分自身に置くという、精神的な「始原」の在り方で、つまり心構えのことです。

他者の評価、社会の雰囲気、道徳的な同調圧力などの現代社会に蔓延るノイズに流されず、自分自身の軸からすべてを見定める。仮に群れの中にいても、精神は常に独りであることこそが独行の本義です。ゆえに独行を理解する者は、どのような世界に出ていこうとも断じてブレません。そもそも自分という軸がブレない限り、世界がどう揺れ動こうとも、自分の視界は一点を見据えたまま動じません。この見据える一点の先とは、自らが如何に生きるかという孔子の語った天命に尽きます。

そして独行を自らに実装する上で重要なのが、依存の排除です。人々は未だに政府やシステム、あるいは神や仏といった超越的な他者にも救済を期待し続けていますが、徹底的な自律こそを生存の条件として引き戻すならば、誰もが腹を括らなければなりません。ある意味、先進国の人々にとってこの数十年は、人間の生存という観点から見れば、何も困ることなく暮らすことが可能となった初の時代だったというだけのことです。そのような期間など、人類史から見れば極めて短く、儚い。日本には「儚い夢」という言葉があるように、夢は常に儚く散っていくものです。それに固執するからこそ、世界がおかしくなるのです。

一度理想が実現したからといって、それが永遠に持続するとは限らない。また時勢はどんどん変わる生き物ですから、その理想形態が普遍的理想形態であることは不可能なのです。ここを捉え間違えた時、依存によって全てが停滞・後退する反転へと向かい、誰も止めることができなくなります。これが、現在です。なぜならば、普遍を非生物的な固定で捉えているからです。

誰の助けも期待しない、神にも仏にも頼らない。この絶望的とも言える孤独な自律こそが、逆説的に最強の精神的安定をもたらし、平穏な時代を完全に終えた今、来たる激動の2030年代を生き抜くためには、必須の心構えだと私は考えます。なぜなら、外部環境に一切依存しない自己を動乱の前に確立した人間にとって、社会の変動や他者の裏切り、あるいは天変地異さえも、もはや致命傷になり得ないからです。

宮本武蔵は「神仏は尊びて頼まず」という心構えを残しています。神や仏を尊びはするが、神や仏に何も頼まないという覚悟です。よく神社に参詣する際、現代のほぼ全ての日本人は自分自身の願い事を神に向かって祈りますが、そのような私利的な願望を神に対して願うなど、言語両断です。

神や仏、あるいは運命という不可知なものを深くリスペクトはするが、そこからの救済をあてにして、自分の行動を他なるものに委ねたりはしないこと。祈りはするが、頼りはしないというスタンスこそが、不確実な世界に対峙する際の心構えです。宮本武蔵のように、時代の強者たちと次々と対峙し、一度も負けることなく最後まで勝ち抜いた剣豪の生涯は、まさに生きることの心構えによって決まったのです。

自分の置かれた状況がどのようなものであるにせよ、まずはそれを自分のフィールドとして完全に受容することがスタートラインです。配られたカードが悪いと嘆いて浪費している時間を、どうカードを切るかの思考に充てること。人類の規模がいかに拡大し、テクノロジーがいかに進化しようとも、個人の自由裁量が人生の質を握っているという事実は人類史を通じて一度も変わりません。普遍性とは、現在言われている意味でのものではない、自分の人生を生きる覚悟と決断だけは、人類史が始まって以来、一度も変わらない不変なのです。誰もあなたの決断を揺さぶることはできず、また誰もあなたの進むべき道を代わりに決める権限を持っていない。

日本語の「決断」という言葉の構造は文字において「決めて、断つ」と書きます。ここに残酷なまでの生存の真理があります。この意味は、何かを決断して選ぶことは、すなわちそれ以外の可能性をすべて殺すことです。Aの道を行くと決めることは、BやCの道にあったかもしれない未来、そこで得られたかもしれない幸福を永遠に断ち切ることです。「あの時、こうしていれば良かった」という回想も後悔も一切存在しない世界です。

だが、現代人はこの「可能性の死」を過剰に恐れている。「もっといい選択肢があるのではないか」「損をするのではないか」「今はまだタイミングではない」という謎の恐怖が、決断を先送りにさせ、保留させ続けた結果、変わらなければならないと分かっていても、変わらろうとしないという滑稽な状況を自ら生み出します。

これを現代では「最適化」と都合良く呼んでいますが、実態は単なる臆病な先送りの言い訳に過ぎません。しかし、保留している間、人生はどこへも進まないどころか、二度と同じ機会はやってきません。人生とは、極めて厳しい現実です。あらゆる可能性を温存しようとすることは、何者にもなれないまま腐っていき、他者依存者への道が約束されるだけです。決断しないこと自体が、「他なるものに流される」という最悪の決断をすでに下していることになります。

現代社会は「それで良い、それでこそあなただ」と優しさを装った言葉をかけるでしょうが、人生は容赦なくこのような人物を弾き出します。

さらに宮本武蔵は「我事において後悔せず」という言葉も残しています。これを多くの人は「反省しないこと」と誤読していますが、そうではありません。これは過去の自分の決断を、現在の自分が全責任を持って引き受けるという、時間軸を超えた自己肯定の極致の態度です。後悔とは「あの時、別の選択をしていれば」という、存在しない並行世界への逃避であり、現在の苦境に対する責任を過去の自分に押し付ける下劣な行為です。それは現在の自分の否定であり、精神の自殺です。

「独行」の哲学は、過去の全ての決断が今の自分を作っていることを教えますが、その因果をすべて飲み込み、肯定することでのみ、未来への一歩が踏み出せるのです。そしてこの因果は、過去から現在へ流れているのではなく、未来から現在へ向かって流れています。この双方向の螺旋的時間の存在の邂逅する場所に立っているのが、今、この瞬間の私だということです。

「独行」の哲学は、現代の複雑系社会に対する劇薬ともなり得ます。不確実な未来に対して、正解などどこにもないことを誰よりも知ること。唯一普遍の正解という無いものを求めるから、他者の意見に流されてしまい、自分の人生を喪失するのです。答えを他者に求めず、不完全な自分のままで退路を全て断つこと。その切れ味こそが、人生の輪郭を形作ります。何かを捨てたときに初めて、手の中に残ったものが輝き出す。その時、自分にとって本当に大切なものが何かが見えてくるのです。

どこからともなく人間性の回復などが叫ばれますが、それは本当に人間が有する人間性なのか疑問です。自律なき癒やしは単なる麻酔に過ぎない。私が提示するのは、そのような一時凌ぎの温かい毛布ではなく、冷たい刃のような真実です。自分の人生の主導権(Sovereignty)を誰かに明け渡して、安全な檻の中で自己家畜化して生きても、これまでの平穏な時代ならまだしも、来たる激動の時代を乗り越えられるとは到底思えない。

だったら孤独と責任を全て自ら引き受けて、荒野で人間として生きるべきではないのか。弱者を「守られるべき可哀想な存在」として社会というシステムに幽閉することは、彼らから決意と決断という、人間が持つ最後の尊厳を剥奪する行為です。

すべてを引き受けて、困難な時代の先を切り開く覚悟こそが本当の強さであり、私たちが目指すべき未来への唯一の生存戦略なのです。迷いがあるならば、今、決断すべきです。