静寂と沈黙という次世代の武器Silence as the Next Generation’s Weapon
数や確率で勝負するだけの時代が太古の遺物となった今、静寂の中にある真の沈黙こそが、生存するための次世代の武器になることを、日々強く感じています。一つの武器だけで戦う時代を旧型思考の産物として自らの意志で放棄し、新時代に相応しい新たな概念を、あなた自身の元で決して分離させることなく活用していく高度な技術が全員に求められています。
ここで私が提唱したいのは、大きく分けて二つの論理です。まずは、その一つである「散弾銃の論理(Shotgun Logic)」から見ていきましょう。
散弾銃の論理を現代的な思考様式に翻訳すれば、それは「線形思考(Linear Thinking)」の極致です。現代社会のビジネスやクリエイションの現場で過剰に高まった「質より量」のパラダイムの基盤を支えていた金具です。ですが、この生存様式は、2010年代以降の潮流を見れば一目瞭然な通り、過剰なドーパミン経済圏において、絶対的なルールとして機能してきたに過ぎません。一方、数よりも質を求める者は生存すら困難になる状況に陥り、線形的な数の論理に徹底的に打ちのめされた結果、「質を求めることは人間が持つ最高の能力だ」と自己肯定化することしかできませんでした。しかし残酷な事実は、未来はそこにはなかったということ。
私たちが踏み入れた「かつての未来」は皮肉にも、如何なる時代であっても先に進むことのできない者は、次に進むことはできないという淘汰のルールを徹底しただけだったからです。言い方を変えれば、先に進む決意を持ち、決断できない者は淘汰される強度が高まってきたということです。
象徴的な出来事は、人間同士の次元で戦われてきた質か量かの二元論を超越したAIの台頭です。誰もが理解しているように、AIの特性として最も重要なのは、「線形的な処理能力」と「量の生成」において、人間が絶対に勝てないという確たる事実です。ただし、ここで大勢が今も認めようとしない一つの不都合な事実があります。AIは量だけではなく、高いレベルの質を既に実現しており、そもそも前時代的な質か量かの議論など完全に無意味な産物となったことです。
重要な論点は、これまで散弾銃の論理に生きてきた人々が、実はツールに使われることしかできない人々だったということです。そのため、あくまで人間同士のさほど変わらない脳の処理速度や、どのツールを使うか程度の問題が勝敗を分けたため、それなりに生存を続けることが可能でした。よく前時代的な人々も、「人間の創造性」などと高らかに公言しますが、私から見れば、そのような人々にそれを語る資格はない。なぜならば、彼らは「人間の創造性」が何かをそもそも知らないにも関わらず、平然と公言しているからです。現在も誰もが認めない不都合な真実を言えば、「人間の創造性」をAI議論に持ち込むならば、それは最もAIに寄り添った制作にいち早く切り替えた人々にこそ答えがあるということです。
そして今や、AIという存在が、その旧型の土俵に立つ人々を全て駆逐してしまう破壊力を持って浸透し始めたため、線形思考の領域だけで生きていける可能性はゼロとなりました。
誰もが勘づいているように、数、あるいは一定の質で戦い続けることは、もはや人間にとって自殺行為に等しい。なぜならば散弾銃の論理という大量生成・大量発射を高品質で即時可能とする領域において、人間がAIに絶対勝てないことは誰の目にも明らかだからです。既に、人間同士の戦い(競争)という旧来の前提が崩れ去った次の土台の上で、未だに旧来の戦法に固執するのは愚かです。同じことが起きているのが、AIに仕事を奪われるという一般化された恐怖です。これも同じで、人間がAIと同じ土俵、つまり線形性の領域で戦おうとするから生まれる誤解です。個人的には、現時点でプロフィールに自らの社会的キャリアを積み上げ算式に書いている人は、例外なく淘汰されるだろうと見ています。なぜならば、AIから見れば、ルールが変わったことを理解していない前時代的な人間だと見做すからです。
ただし、私は今回、どちらが正しいということを裁定することを目的としていませんし、西洋におけるAI議論に迎合するつもりもありません。その停滞して集団後退しようとする足の引っ張り合いに読者が巻き込まれないためにも、その一般化された議論の「先」を示したいからです。
質より量という散弾銃の論理において、過剰化したドーパミン世界の傾向を俯瞰していると、一つ痛感することがあります。それを思案していると、新たな時代の可能性が見えてきたのです。私にとって大前提として、思考停止したまま弾をばら撒く行為は、成功法則の実践などではなく、単にツールに使われているに過ぎないという確固たる事実です。ここが極めて重要です。「ツールを使う」ことと、「ツールに使われる」ことの認識は、今も大半の人々において致命的に欠落、あるいは履き違えているように見受けられます。思考停止したまま弾をばら撒く行為は我を見失った境地であり、ツールに使われている状態では、その代償として最も致命的な打撃を本人にもたらします。それが、「気配の喪失」です。
散弾銃を乱射している間、撃っている側の人間は、相手の気配を読む能力を完全に喪失します。それはツールに使われるがゆえに、戦いにおいて最も重要な「人間の創造性」(AIにはないもの)を放棄するのです。彼らは線形思考であるため、見える世界、計測可能な世界しか見ていませんから、眼前は一面轟音と砂埃、そして薬莢の山に視界を遮られていきます。そしてしばらく経つと、やっと敵がいなくなったように錯覚して安寧を始めます。この文章で語っていることは、リーマンショック以降のスタートアップバブルに登場した成功者や、ソーシャルメディアなどの成功者たちが、マインドフルネスに明け暮れる日々のことです。そうしなければ正気を保てないからではなく、既に彼らは我を見失ったことから起きる自然反応です。そして自らの気配を失えば、相手の気配を察知する能力も失います。この時に主張したいことは、一見すると眼前から敵が淘汰されたように見える世界は、ただ自分自身のノイズによって、世界が曇ったに過ぎないということです。
どのような種類のノイズであれ、ノイズを撒き散らす者は、自分自身もノイズの中に埋没する運命にあり、忍び寄る致命的な危機を察知できません。危機を察知できないということは、好機をも察知できないということです。だからこそ、次々と数の論理で相手を駆逐し、市場で上に立とうとした者は、常に長期的には生存できず、常に代替可能な状態としての不安に怯えることになるのです。この不安から逃れるためにマインドフルネスが使われてきましたが、それは現実ではない現実性における約束された一時的な休息でしかありません。こうした人々が、次の瞬間に淘汰されるのはあなただという不安に常に怯えるからこそ、マインドフルネスは形骸化したパッケージとして流行し得たのです。
この不安定な土俵の中で、一時的に何かしらの利益を獲得できたとしても、即座にそれはコピー・拡散され、相手が次々と現れる中を、またひたすら撃ちまくらなければなりません。やがて散弾銃を撃ちまくっていると、自分自身がだんだん見えなくなり、完全にツールの奴隷となり、もはや自分の立ち位置すら分からなくなります。自分がどこに立って、どこから散弾銃を乱射しているのかすら見えなくなってしまうのです。ゆえに、一つでも高性能な銃(最新のツール)を手にした人間に撃たれて終わりです。
散弾銃の論理を絶対視する旧来型の人間は、「相手の気配を読む」という生物としての根源的かつ最強のセンサーを失っています。この時、立場が反転するのです。これが私の提唱するもう一つの「一刀両断の論理」への入り口となります。
実はAIの台頭において、この十年弱で「量より質」を希求してきた人々こそ、AIが千載一遇の機会をもたらしてくれたことにいち早く気付かなければならなかったのです。なぜならば、時代は自らの意志において「量と質」を征服するという、人類史上初の特徴を開示し始めたからです。よく世界観があるか否かと言われますが、私にとって世界観とは、内省によって自らの内側から人生をデザインすることによって生まれてくるものであり、この方法によって世界観を建造できたならば、あとはその世界観に準じた「量と質」を現在なら90%をAI、10%を人間で行えば良いのです。世界観を頭を使って考えるならば、それは前時代的であり、淘汰されることには注意してください。現在の全てが多層化する時代では、同じ概念を用いていても、本義も真理も全く異なるのが特徴です。
さて、一刀両断とは日本の武士の哲学における叡智の結晶ですが、これを生存の叡智として再解釈した場合、極めて示唆的な力を持ち、現代人が激動の時代を生き抜くために極めて実用的な武器となります。重要なことは、これは単純に「一撃で倒す」という物理的な動作の話ではないことです。武士は力任せに相手を刀で倒していたのではない、もしもそのように考えるなら、もはやこの時点で先に進む可能性はないでしょう。武士は、相手と立ち合い、刀を合わせた瞬間、その勝負は既に決していた世界を生きていたからです。
これを現代的な文脈で独自に定義するならば、これこそが究極の「非線形思考(Non-linear Thinking)」です。
私なりに言い換えれば、人間の脳では処理できないカオスな状況に対して、線形思考のプロセスを全て無化し、研ぎ澄まされた静寂の中でただ一つの解を、最適なタイミングで、ここぞという瞬間に掴み取る哲学です。
一刀両断の哲学において最も重要なのは、Shitsuraeの主要テーマである「自らの気を整える内省」から始まります。内省によって、自らの気の動きを制御する技術を修練し、その静寂な状態を常に発動できる準備を日々為した時、初めて相手と対峙することができます。なぜならば、この境地を獲得した時、立ち会った相手の気の流れは自分の気の流れの中に同化され、相手の微細な気の動きが起きる「直前」に読み切ることが可能になるからです。肝心なことは、相手の気が動いた時ではなく、相手の気が動く直前です。気が動いてからでは遅く、その場合は自分が斬られています。つまり、物事が動いてから重い腰をあげて動くのではない、動く気配を察知して、その直前に動くことの提唱ですが、そのためには自らの思想というOSを最新バージョンに常にアップデートしておく必要があります。
この相手の気の動きが起きる直前、それが「隙」です。相手に隙が生まれた瞬間、それを見逃すことはあり得ず、一瞬で斬り込むのです。勝負は、たった一瞬の気の乱れによって決まります。つまり逆の視点で見れば、こちらの気が動じなければ、勝負には負けないのです。AI関連の議論も同様で、自分たちの社会的利益をAIによって代替される人々は、常に感情をぶちまけるだけとなっており、一見すると熱気に満ちた正当性を持っているように見えるでしょう。しかし、そうではない。実は熱気に満ちた状態に外面で見えても、内面が静寂に満ちていなければ、絶対に勝負に勝てないのが武士の世界です。ゆえに、感情論に巻き込まれた人々に先がないと私が言っているのは、自分自身の中の静寂という「人間の創造性」(AIにはないもの)を自ら放棄したにも関わらず、AIの危機を「人間性への危機」として都合よく恣意的な解釈を行い、社会システムを維持しようとするからです。
武士をモチーフにした映画を一本でも見たことがあれば、そこにしばしの時間、ただ睨み合っているようにしか見えないシーンがあることを思い出すでしょう。あれは、この文脈が理解されていないと退屈に映るはずです。なぜならば、すべてを可視化しようとする線形的な視座では、このせめぎ合い、真の意味での戦いを察知できないからです。ドーパミン世界の住人たちが、1950-1960年代の映画を見ることができない理由の一つは、ここにあると私は考えています。当時の映画はまだ、ドーパミンを秒数レベルで触発してくれる設計はないからです。
重要なことは、武士は本来、力のある限り闇雲に斬りかかっていたわけではない。気のせめぎ合いの中で、剣を合わせた時点ですでに勝敗は決まっていたことです。ゆえに、斬られる人間は斬られるべくして斬られ、斬る人間は斬るべくして斬る。これは物的な勝負ではなく、気の勝負だからです。見えない世界において既に勝敗は決しており、それが現実世界との間に僅かなタイムラグを伴い、その時間を経て目に見える形で現象化しているに過ぎません。つまり、線形思考の人々は、勝負を見る位置が間違っているのです。
この武士の勝負の世界において、最も崇高な位置に君臨したのが剣豪・宮本武蔵です。彼の視座を現代に転用すれば、最も重要なのは「刀を抜く前の時間」にあります。武士はそもそも、自分自身の刀を他人には触らせず、滅多に見せることもしませんでした。それは神聖だからではなく、戦略的な合理性もあります。戦いの前に、いつ戦うかわからない相手に対して、その刀の状態や切れ味を見せることは、相手に自分の手の内を明かすことと同義だからです。そして何より、彼らにとって刀は自分自身の投影であり、分身であった。武士は武力の訓練に日常を捧げていたのではなく、教養の習得にも相当の時間を注いでいました。さらに、彼らの日常の根幹を成していたのが、内省です。
つまり私の視座では、武士は内省によって内側から自らの人生をデザインし、その内的世界を刀と同化していた。ゆえに武士にとって刀は自分自身であり、それを人に見せることは、自分自身の内的世界を暴露することに等しかったのです。だからこそ、容易に刀を他人に見せることはなかったのです。私は現代において、この武士にとっての刀を、私たち人間の「思考(Thought)」だと再定義していきます。
ここで触れた一刀両断の哲学、すなわち非線形思考を踏まえて、前述した散弾銃の論理に照応させながら、改めて現代を見てみましょう。思考停止したまま銃(アルゴリズム)というツールに使われ、ひたすら弾をばら撒く相手に対し、彼らが典型的に陥る虚妄は「自分が見ている線形的な世界が正しい」と信じ込むことです。その虚妄は、実は一刀両断の哲学を有する者にとっては隙でしかない。なぜなら、気の制御を自分自身で行うというプロセスが、散弾銃の論理では完全に抜け落ちており、アルゴリズムに全放棄しているからです。
彼らはツールとして「数打てば当たる」という戦略を手にしているつもりですが、所詮は「つもり」であることも肝心です。自分の気を整えることをせず、ツールに使われることで、戦いに勝てると信じ込んでおり、それを信じ込ませることこそが、2010年代のソーシャルメディア時代の鍵でした(ゆえにプラットフォーマーは莫大な利益を手にしたのです)。この時、隙は無限に生まれており、斬ることは全く困難ではありません。確かに、散弾銃を何も考えずにとにかく乱射すれば、同じ土俵で戦っているツールに使われた人間を倒すことはあるでしょうし、逆に倒されることもあるでしょう。ですが、これはマウントの取り合いに過ぎません。ここがソーシャルメディアを筆頭とする旧来型世界の限界です。
しかし、この乱射によってのし上がったインフルエンサーがいたとしても、一面が硝煙と静寂に包まれた時、その人物は、自ら気づく前に既に斬られて死んでいます。これが、私の一刀両断の論理です。なぜなら、勝負は既に決まっているからです。優れた武士は、相手が斬られたと感じる生理的な反応が届く前に、殺す技術を持っていました。これを「瞬殺」と言います。非常に高度な技術ですが、私たちも自らの刀において駆使することによって、行き詰まった世界の先に進む可能性が開かれてきます。
そして重要なことは、私が考えているのは、どちらが正しいということではなく、誰もが自分自身において、両方の技術を即座に獲得しなければならないということです。もはや、どちらかに傾いて生き残ることは不可能です。
仮に、私がこの二つの論理を提示した場合を考えてみましょう。散弾銃の論理に疲れた知識人たちは、「じゃあ今度は一刀両断の論理に未来がある」と言い、そちらだけに埋没してAIを拒絶しようとします。しかし、私が言っているのはそうではありません。私の主張の根幹は、AIによる無限の散弾銃を全方位的にばら撒く能力を、人間自身からAIに喜んで能働的に移譲すべきだということです。
それは分かりやすく言えば、現在自分自身が行っている日常的な作業の99%を、喜んでAIに移譲することから始まります。ただし、この移譲する際に肝心なことは、AIは所詮はツールであるということの本義を、どれだけ理解しているかによって未来が変わってくること、そして世界観の理解の有無です。AIにしても、AIに使われる人たちにしても、例外なく大量の情報を流すことは常態化していき、今後もそれが留まることはあり得ません。逆に言えば、この時代性を理解している人たちにとって、今は千載一遇のチャンスです。このような機会は、今後二度と巡ってこないでしょう。なぜならば、想像を絶するノイズによって全員が我を見失うことが約束された状態では、内省において自らの可能性と未来をデザインし、しかも新時代を拒絶せず、自らの意志のもとで取り入れて常に未来へ進む意志を持つ者にとっては、何をやっても勝つからです。理由は明白、競合が存在しないからです。しかも現代最高の果実は、この勝負で一度時代の勝者になれば、二度と敗者にはならないという新時代のルールです。逆に言えば、この勝負で一度でも時代の敗者になれば、二度と這い上がることはできません。
そして両方の論理を、時代における新たな生存戦略として自らの意志で持っている人間からすれば、敗者になる人々の世界で戦う必要がなくなり、実は静寂を手にすることが可能となるのです。二十一世紀の黄金は、「静寂」です。前時代的な戦争ゲームに明け暮れる人たちなど、放っておけばいいのです。時代は大勢を助けるためには存在せず、自らが先に進んだ上で、自らの愛する人々を少数だけ助ければ良い方向に向かっています。
しかし、ここで主張している通り、散弾銃の論理自体は素晴らしいものであり、拒絶する必要はありません。問題は、未だにそれだけで生きていこうとすることです。
個人的に考える将来的な世界にとって、最も重要な日本の叡智として理解できる革新は「非分離(Non-separation)」という哲学にあると考えています。相反するものを対立させるのではなく、矛盾したまま「包摂する力」のことです。ここで包摂ではなく、統合という概念を初期的には使用しても構わないと思いますが、確実に後でズレてくるため、できれば包摂として理解しておいた方が良いでしょう。この論理がクリアになるためには、ある一人の剣豪の考え方から学ぶことが参考になります。それが前述の宮本武蔵です。
宮本武蔵は、重厚な太刀と、微妙な小太刀を同時に扱う「二天一流」という独自の剣術を編み出し、これを完全に領有したことによって、生涯を通じて一度も負けたことがなかったと伝えられています。強敵を次々と倒していった宮本武蔵の哲学は、やがて一冊の本『五輪書』にまとめられることになりますが、これは現代の生存戦略にそのまま転写することができるほど、強烈な力を持っています。
これを踏まえて、とりあえず大きく見てみましょう。右手の武器として「線形思考(散弾銃の論理)」、つまり現代のAIに全てを移譲した時、広範囲を制圧する確率論の道具、情報の網羅、パターンの無限生成、カオスの創出などを全てAIに一早く任せて、徹底的にその恩恵を享受すればいいのです。そして同時に、左手の武器において「非線形思考(一刀両断の論理)」として、人間自身、より正確に言えば自分自身を持ち、内省において気を扱い、発動する技術をひたすら修練し、ただ一点の真理を突く直観の道具として、倫理、美意識、決断を生存戦略において、AIには不可侵な領域として位置付け、人間にしか扱えないところを研ぎ澄ませばいいのです。
ゆえに、一刀両断は私にとっては精神論ではありません。AIが提示する数億の選択肢である線形的な弾幕の中から、今この瞬間に選ぶべき正解を、論理を超えた非線形な速度で斬り込むことによって、瞬時に斬り出してくる新時代の技術のことを言っています。ウィリアム・バロウズのカットアップを世界観において独自にアップデートしたものと言えば、西洋の読者にはピンと来るかもしれません。そしてそれは、常に未来からの重力によって決まるということ、ゆえにその重力を受ける身心の修練が要されるということです。
AIが進化すればするほど、散弾銃の威力は増します。これは脅威ではなく、私たちの右手がそのまま強化されていることを意味しており、右手でAIという強大な力を振る舞いながら、左手で静寂な刀を研ぎ澄まし、それを「私」自身という内的世界から外的世界までをデザインすることができる唯一無二の存在によって、それらを巧みに分離させることなく駆使ということです。これにより、あなたは宮本武蔵の如く、今後誰と対峙しても負けることはないでしょう。
ここで提示した新時代的なダイナミズムの中にこそ、線形的なAIと非線形的な人間の対立構造を無化する、新たな種としての進化があると私は考えています。そしてここには一切の普遍はない、西洋と東洋もない、誰であっても装飾を廃した「あなた自身」以外には何もない。ここに、私は未来を感じています。
総合すれば、ここで語ってきたことは、単に時勢に合わせたAIと人間の対立的な問題をどう解消するかという、旧型思考の中で未だに議論されている問題への異論ではなく、世界というものをどう創造するかという、全く新たな提案なのです。
ここに置いて私が提案したいのは、まずは徹底して自らの気を鎮めて、いつでも発動可能な鍛錬、つまり準備を行い、相手の気を自らに引きつけて一気に削ぐことの思考を研ぎ澄ますということ。現代の刀は思考であり、思考を静かに、他者は全無視して、ひたすら鍛錬に励むことがこれからの生存方法として非常に重要となります。敗者になる者は、数の論理で動いているため、先へ進もうとする者の足に這いつくばってでも同じ敗北の世界へ転落させようとしますから、とにかく他者の意見は全無視、まずは徹底的な内省です。事実、私はそうしています。最も信頼している少数の人からの言葉にだけ、耳を傾ければ良いのです。
そして武士が刀をひけらかすことを軽蔑したように、私たちは思考をひけらかすことを軽蔑し、来たる時に向けて準備に徹する。これによって、私たちは次の世界を生き抜くのではなく、次の時代の生存戦略を、自らの実際行為(pratique)によって創造するのです。ここから本当は王陽明の理論に繋げていきたいのですが、また別の機会にします。