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集団的な強迫観念と沈降する社会Collective Obsession and a Sinking Society

現代社会は、ある一種の集団的な強迫観念に支配されたまま、脱することができずに沈降を続けています。この集団的沈降における一つの特徴は、何かを語っているようでいながら、実は何も語っていないことの横行です。何も語っていないにも関わらず、語ったフリを演出できるため、自己実現のための賞賛、あるいは批判が得られる特典まで最初から用意されています。こうして人類規模の茶番が蔓延した結果、人類はとてつもない致命的な過ちを犯してしまったのです。

沈降は、個人レベルでは言葉にできない焦燥感や、バーンアウトなどとして表面化しています。バーンアウトの発現は、内省を行わないことの強度に比例して高まります。この際、対処療法としてマインドフルネスに取り組んだところで、ただ一層の泥沼から脱せなくなるだけのこと。私が強烈に確信していることは、現代のマインドフルネスという形は、東洋の瞑想の伝統そのものではなかったということです。

いわばマインドフルネスとして瞑想などの素材がパッケージ化されたところで、瞑想の本質はそのような生優しさを持っていません。本来の瞑想が有する「強烈な痛み」こそが、自分自身の内省において最も重要な果実なのですが、マインドフルネスではここを徹底的に除去しなければ、汎用性(つまり商品化)ができないため、完全に無視されています。ゆえに、単なる形骸化したトレンドとしてのマインドフルネスでしかない。これでは、いくら瞑想法が新たに開発されても、本質は微動だにしておらず、表層の戯れがより一層の滑稽を帯びてくるだけです。西洋か東洋かを問わず、真に瞑想を知っている者は、その強烈な痛みを避けるような愚行は行わないのです。

上記に限らず、沈降の根底に潜む主因が、これまで考えてこなかったこと、いや、考えたくなかったことに起因する可能性があると指摘した場合、どのような脱出経路が考えられ得るか。それとも、そもそも四方八方が既に強固に固められ、守衛に張り巡らされた現在、私たちに脱出経路などないのか。ここが今回、問いたいことです。

大前提となるのは、これまで個人の人生からあらゆる摩擦や苦痛、あるいは孤独といった要素を、まるで人生の欠陥であるかのように扱い、制度、テクノロジー、さらに人間の善意によって徹底的に除去しようとしきた事実です。テクノロジー信奉者の文脈での解決主義ではない、そもそも人間の善意という武器にこそ解決主義の根源的な倒錯がある。そこを立脚点にしていきます。

私たちは、あまりにも人生における不快なノイズに敏感になり過ぎており、発見次第「悪」と実定し過ぎた傾向があります。しかも、それを全て駆逐して、クリーンにすることこそが理想だと躍起になっています。より快適に、より安全に、より傷つかないようにというものは、本質的な意味での配慮ではなく、単に「押し付けられた配慮」によって建造された壁(クリーンルーム)でしかない。壁の中に100年もいれば、外の脅威も外の世界があることも忘れてしまうのが人間です。同じように、「押し付けられた配慮」の見えない壁の中で安全に育った人々は、ある一つの共通した特徴を持ち始めます。それが現実性を現実と見做し、本来の現実が有つ不可能を全く知らずに育つことです。その終極形態は、現実の不可能を拒絶する姿勢として集団的に表れます。

私の考えでは、現実とは常に不可能です。不可能が充溢するからこそ現実です。この真理に挑むには、ある要件が必要ですが、それは「あなたは、どれだけあなた自身と向き合ってきたか?」という問いへの回答です。この回答は、言葉で答えるものではなく、実際行為(pratique)そのものとして回答となります。ですが大半の人々は、そのようなことは強烈な痛みを伴うため、拒絶します。ここにおける拒絶は、自分の生きることの自己放棄であり、誰が何と言おうと完全な自己責任です。そしてこの自己放棄は、イコールで現実放棄となります。

ゆえに、現実を拒絶した人々は、不可能である現実から疎外した現実性を世界化し、そこに生きることによって埋没していきます。疎外した現実性の中で世界を形成していけば、歳月を重ねると現実性が現実になったように感じることができ、やがてそうした環境への適応を「進化」と呼び、集団で自己肯定(自画自賛)を始めることになります。しかし、実はそこに生命の活気はない。単に疎外された現実性の形態(Form)を中心化し、集団による共通した幻想の膜を形成することによって、それは歳月をかけて規則・規範を栄養源とした制度次元として現出してくるということです。

本当はそこに中心も何もないのですが、ここに幽閉されたいと願った現実を拒絶した人々は、ここで安寧の暮らし、すなわち「強烈な痛み」を隅々まで除去した「用意された現実」で過ごすことを理想化します。さらに疎外された現実性は、社会制度、果ては政府による過保護な介入など多様な形で「強烈な痛み」を除去しようとする状態になり、個人の人生を無菌室のような状態に閉じ込めることが成功だと妄信し始めます。現在、本物ではない「快適さ」への適応のためだけに人生を浪費し、生涯を終える人々が大量生産される事態に帰結したことが、何よりの証左です。心臓が動いていることと、生きることは本質的には違うからです。そして興味深いことは、このような人々ほど「死」を恐れるということです。

社会を見ても、福祉や教育、そして企業のサービスに至るまでが、「傷つかないこと」「迷わないこと」を最優先事項として掲げており、先進国の言論までもが常時監視・管理されて自分たちで身動きが取れない状態に陥っています。そこでは極端になるか、何もしないか以外に日々を消化できないという深刻な事態に転倒しています。彼らは過剰な保護を自己肯定化し、人々を悪や堕落から守っていると声高に主張して正当性を自負しますが、起きていることが真逆であることくらい、外に出ればすぐに分かることです。なぜ、この程度のことが分からないかと言えば、前述の通り、この類の人々は現実性を現実として妄信しているため、現実の不可能を直視しないからです。現代の奇妙な反転は、生きていない人が生きていることになり、現実ではないものが現実となるようなものです。そして知性ある人々は、何かおかしいと感じながらも、自分自身もその立脚基盤自体を疑えておらず、それなりに利益を得ているため、地盤自体が問題だと真剣に考えることまでには至りません。

すると「世界」とは、彼らにとって楽な現実性の集積によって形成されたプレハブ小屋であるため、現実を見ない、人生を放棄した人々の声だけがやたらと騒がしくなり、発言力を増大させます。これは当然で、その世界の反響装置は彼らにとって都合が良い素材でできているからです。ゆえに、反論を唱える人々は容赦なく排除されます。それほど幻想構造が複雑化してきたからですが、この世界に手触りがないことが肝心です。つまりそうした声には、熱がない、捏造された熱らしきものはあるが、手触りとしての熱はありません。この数年、ここにおいて両者の激しい衝突が続いてきたことは日本人の私以上に皆様の方が理解しているでしょうが、だったら現代の真の賢者はどこにいるのか。

惨状たる時代状況を俯瞰しながら、いつも私の脳裏に思い浮かぶのは古代中国の説話です。それが「竹林の七賢」です。

彼らが生きたのは3世紀半ばの中国、ちょうど魏から西晋への過渡期でした。当時は、裏切りと粛清が横行する暗黒の時代とされており、実権を握った司馬氏一族は、政敵を次々と抹殺していたのですが、ここで権力を正当化するために利用されていたのが儒教です。ただし、この儒教はかつて孔子が説いた教えを忘却し、為政者にとって都合の良い体制哲学のことです。この時、本来孔子が問いていた「自分自身に礼儀正しくあれ」「自分自身に対して忠実であれ」という内省に関わる重要な道徳の叡智が、そのまま「権力に対して礼儀を尽くして忠実に従え」という命令に変換されます。この窒息しそうな不穏な時代の中で、ある七人の賢人たちは、政治を変えるために声を上げるのではなく、むしろ激動の時代にあっても自分自身を生きるために、あえて「政治を語らない」ことを自らの意志で選んだのです。

彼らは都市部の政治から離れた竹林に集まり、酒を酌み交わして「清談」と呼ばれる老荘思想を中心とする哲学談義に明け暮れました。現実の変えることのできない、現実自体に全く触れることのない政治自体を語るのではなく見切りをつけ、老荘思想という宇宙の真理に没頭しながら、現実と対峙し抜く道を選んだのです。ここで個人的に興味深いと感じるのは、むしろ現代人はこちらを「現実逃避」だと見做すが、反対であることを古代中国の賢人が教えています。

そして彼らはあえて大酒を飲んで泥酔したり、衣服を脱ぎ捨てて儒教の教えの一つである「礼儀」を無視したりするなどの奇行を演じました。これらは現実からの逃避や堕落ではなく、命がけの不服従の表明であり、現実に徹底的に向き合う覚悟そのものだったのです。つまり七人の賢人は、現実性に甘んじて生きることによって、体制に迎合することを拒否した。その拒否は単なるYesかNoではなく、徹底的に現実という不可能に直面し、そこにおいて実際行為(pratique)に生きることだったのです。彼らはわざと狂気を演じることで、「私は政治的な野心など持たない、ただの役立たずです」と権力者にアピールし、粛清の刃を避けながら、ひたすら自らの内省の鋭化に没頭したのです。そして同時に、権力者が振りかざす形骸化した儒教道徳に対し、老荘思想に由来する自然体の精神を対置させることで、彼らの偽善を痛烈に皮肉ったのです。

実際、彼らは政治体制を転覆することはありませんでした。リーダー格の嵆康(けいこう)が処刑されたように、権力の暴力の前には無力だったと評価されることがありますが、私はそうは思わないし、むしろ彼らの理解の仕方が完全に間違っているとさえ思います。現代人は何かと言えば、声を挙げ、権力を打倒・修正することが革命だと見做す固定概念に囚われていますが、それは最初から最後まで現実性の中であり現実ではない。本来、革命とは自分の自分に対する格闘以外のなにものでもないからです。私は、彼ら賢人こそ「どんなに過酷な時代であっても、自分自身までは支配されない」ことを身をもって証明したという意味で、最もラディカルなアナキストだったと考えています。彼らは現実性において政治を変えるのではなく、絶望的な時代における「自分自身の貫き方」を発明した賢人たちだったのです。彼らの生き様を改めて思案していると、現代も同じか、より酷い時代だなと感じてなりません。

皮肉なことに、日本には「弱い犬ほどよく吠える」という諺があります。現代人が「竹林の七賢」の説話を聞くと、現代の民主化運動家のようにイメージしがちですが、これは完全な誤りで彼らを何も理解していません。彼らは言論の自由を求めて竹林に集い、政治変革を訴えたマルクス主義的な革命家ではない。そのようなものに何の価値もないと知っていたからこそ、彼らは賢人なのです。この説話が現代の私たちに伝えているのは、社会正義を政治的に主張することが、断じて正しいこととは限らないということです。そして、それは革命を装っているが、革命ではない。私は革命とは、外に向かって発散される熱気を帯びたエネルギーではなく、極めて静かな沈黙にこそあると常々考えています。語らないことが、最もラディカルな行為となることがあるということです。

ここで勘違いしてはならないことは、その沈黙とは、あまりにも横暴な社会正義の蔓延によって、「現実性の位置(社会的地位)」でキャンセルされることを恐れる不安から口を閉ざすことでもなければ、迎合して本音を殺すことでもない。そのような人物に、何事も変える力はないからですし、一方の側にとって彼らは英雄扱いされるでしょうが、彼らも内省を行っていないという点では同質であり、同じ現実性の中の利権争いをしているだけの話です。ここで言論の自由が問題視されていることは、非常に奇妙に思えます。現実の言論に向かうことを拒絶し続けながら、現実性の言論を過剰生産し続けたところで、人間が真に生きることに繋がることはないからです。つまり、疎外された現実性の幻想を消失させ、現実と対峙する機会は一向に生まれてこない。

だからと言って、何でもかんでも社会正義の大義のもとで次々と処刑を行い、叫べば叫ぶだけ正しいという横暴な専制にも何事も変える力はない。静かな沈黙にこそ最もラディカルな主張があるのです。そして静かな沈黙によって最もラディカルでアナキストな現代の賢者は、必ず時機を待っています。沈黙とは上記のような不安・恐れによって口を閉ざすことではなく、最も適切な時に、適切な言葉を語ることによって真理を現出させるからです。果たして、現代の賢者にとって、かつての竹林はどこなのか。

その答えを私は、もはや現実性によって形成された外的世界に見てはいません。それはどこかの山岳地帯でもなければ、地下都市でもない、火星でもない。人間に残された最後の楽園は、内的探査です。宇宙よりも広大無辺の境界なき内的世界、ここが次の竹林となるでしょう。

しかし、人々が内的探査に邁進してしまうと、相互依存によって、自ら生きる覚悟も決意も持たない人々の利得(社会的利得)の維持が脅かされてしまう。ゆえに、この現実を無視、見ないようにし続けて、現実性によって偽装しながら人類規模で隠蔽を重ねることに終始しています。ここにおいて行われていることは、人間から牙を抜き、無害で無力な「自己家畜化」への転倒です。私がなぜ、これを何よりも深刻な問題だと考えるかと言えば、システムへの自己家畜化が最も顕著に表れている場所のひとつが、私が生まれ育った日本だからです。この自己家畜化という状況を痛いほど人生を通じて理解している私にとって、ここは問い切らなければならない重大な問題です。何しろ、個人の非在化の極致がここにあるからです。

これまでの過保護な他者への介入が、人類にとって本当に正解であったのなら、人口が80億人を突破したこの現代において、これほどまでの知的退廃と精神的な虚無感が、パンデミックのように世界規模で蔓延することはなかったはずです。なぜ、現代人の魂はこれほどまでに荒廃し、生命力が絶えているのか。それは個人が先へ進む覚悟がなく、決断を先延ばしにしているからです。これによって、霊的な充溢状態について考えるためにリソースを注がず、とにかく小手先で、現実性によって形成された世界の諸問題をいじくり回すメンテナンス的な行動ばかりが多発し、正当化されます。つまり、現実にも自分自身にも、何もしていないにも関わらず、何かをやっているフリをするのです。しかも、これを無理に数の力で肯定、あるいは礼賛する以外に方途がなくなっています。彼らは大前提として、現実の不可能を認めないことによって、システム維持を可能としているとさえ言えます。現実の不可能を認めた瞬間、このシステムを支えている真の正体が暴かれてしまうからです。

現実は不可能だからこそ、立ち向かい続けなければならない。ですが現代では、この現実の不可能を回避し、疎外された現実性の都合の良い部分だけを可能領域として捏造し、安寧の世界が成立したように振る舞うことしかできていません。ゆえに、あらゆるものが不安定を含有したまま、いつ崩壊してもおかしくないリスクを抱えているのです。この非常に厄介な問題を前にした時、現代で語られる「慈悲(Compassion)」という概念が抱える、決定的な欺瞞を暴かなければ先へは進めません。なぜならば、慈悲という皮を被った潜在的利己主義の個人が、他者に対して為すことは救済ではなく、「天命の剥奪(Deprivation of Tenmei)」だからです。この文脈での個人は疎外されているため、「現実を持たない個人」と定義します。

ここまでを総括して今後のために示唆しておくと、現実から現実性が疎外されていく契機は、実は言語が「主語」を立てる構造を取った時にあると私は考えています。そしてこの裂け目を「疎外的裂け目」と名づけるならば、実は長らく問題にされてきた「疎外された個人」とは、個人に震源地を発しているのではなく、言語の変様に鍵があるということです。この辺りは今後も歳月をかけて開示していきます。

さて、「天命の剥奪」について見ていきましょう。天命はShitsuraeが中心に扱う主要テーマの一つであり、孔子が古代において残した概念の一つです。これは誰もが天から与えられた使命に尽力して生きることこそが、真に生きることであるという明快な教えです。ゆえに天命の剥奪は、人間が人間として霊的に完成するために、あるいはその境地に到達するためにこの世に生まれてきた根源的な生命の使命を剥奪するという、人間存在に対する最も下劣で最も残酷な行為です。不思議なことに、戦争は駄目だと主張はされるが、この残酷な行為に対する主張は行われていません。そこに、ヒントが隠されています。

現代的な慈悲を定義すれば、私の言い方では「慈悲=天命の剥奪」となります。しかし、誰もが心では分かっているように、それは本来の慈悲が持っていた可能性や力ではない。おそらく、このことに気付いている人は多いはずです。

ではなぜ、この暴力性は多くの人々の目には見えないのか、いや、無視されてしまうのでしょうか。それはこの三次元の物理的次元において、「目の前の障害を取り除いてあげる」ことによって見える行為が、短期的には善行として完結したように見えてしまい、ドーパミンを刺激するからです。痛がっている人から痛みを、迷っている人から迷いを奪うことは、一見すると美しい慈悲に見えます。しかし、それは見える世界(現実性)の快・不快の判断基準において、物事を裁定する域を脱していないのです。

確かに、その苦痛を誰かの慈悲によって除去された人は、その瞬間には楽を感じます。ですが、あくまでもその瞬間でしかなく、時間軸を限りなく切り刻んで分離した恣意的な「点」の問題でしかないのです。そもそも人生を分離した「点」の列挙として捉える視座ならば、仮に一つの細部化して抽出した「点」の問題を除去したとしても、その総体自体は微動だにしません。なぜならば、霊的な視座で個人の人生を俯瞰した時、正しいことの本義は反転するからです。「点」で物事を見る視座の限界は、常にここに尽きます。

そこで一度、考え方を反転させてみましょう。実は、その人が直面している障害や苦難こそが、その人にしか経験できない霊的成長の絶好の機会であり、その機会を霊的に求めて、この世界に降り立った根拠そのものであったとしたらどうでしょうか。それは彼らが向かうべき場所へ至るための不可欠な通過儀礼であり、魂を鍛え上げるための唯一の霊的鍛錬であった可能性です。

さらに言えば、その障害こそが、その人を低きに流れる安き場所から、高みへと押し上げるためのトリガーとして機能していたはずです。霊的次元を無視した視座では、単に不幸で哀れに見えるその摩擦や苦痛であり、気付いたならそれを取り除くことが慈悲だと正当化されますが、実はそこにこそ落とし穴がある。それは、本人が自らの意志で乗り越えることによってのみ得られる霊的成長の機会だからです。この時に本当に重要なことは、その個人が自らの意志で乗り越えようとする強い決意に至るか否かであり、その機会が訪れた時、立ち上がることができるかという一点にかかっています。人生は常に「やるか、やらないか」だからです。

しかし現代社会では、それを一方的な価値観の裁定によって、「可哀想だから」「不便だから」といういヒューマニズムの専横を武器に、先回りして収奪するサイクルを強化し続けています。最も厄介なのは、この霊的な収奪行為が慈悲、優しさ、人権、配慮といった様々な形で社会や制度次元にも現出し、誰も反対できない耳触りの良い言葉でパッケージ化されて世界的に拡散され、正当化されていることです。ここでの最大の問題というか特徴は、各人それぞれに固有の天命があることを絶対に認めないことです。私は、各人それぞれに固有の天命がある事実を拒絶する原因を、アイデンティティの所在の誤りに見ています。

これまで喧伝され過ぎて、大勢を疲れ果てさせた「誰もが異なる」という多様性の主張は、不思議なことに、見える世界にのみ常に限定されながら次々と設置されていき、見えない世界の多様性は無視される状態が続いています。しかもなぜか、見える世界の多様性は積極的に肯定、あるいは否定されるが、見えない世界の多様性である個人の天命に関しては、それを打ち出すことさえ拒絶される有様です。つまり、なぜ各々の個人が天命を有していることを、ここまで頑なに認めることができないのか。理由は単純明快、内省できる人々があまりにも少ないからです。

ここまでを踏まえると、私が私であるための闘争は、本来、社会正義において語られるものであってはならないと私は考えます。社会正義とは、正しくは後から生まれてくるものであり、最初に配置されるべきものではないどころか、もっと突っ込めば、私は社会自体に正義も何もないと考えています。つまり、運動を起こす際や問題を設定する際の立脚点、さらにはベクトルが間違っているのですが、この間違いが一向に正される気配がないどころか、間違っていないと正当化する妄信だけが極端化してきたように感じます。我を見失った人々の発狂が世界規模で始まったからです。

内省の欠落が高まれば高まるほど、この極端への暴走は歯止めが効かなくなります。ソーシャルメディア世代の社会運動の特徴が、こうした極端さへ収斂するのは、この意味では必然です。なぜならば、この世代の極端への暴走のトリガーは、血糖値スパイク同様、ドーパミンスパイクがトリガーとなるからです。私はミレニアルズに該当しますが、GenZを含めてこの世代において沈黙を貫く者の中に、真の賢者がいるだろうと常々感じています。ソーシャルメディアには絶対に現れない人物ですが、今後内省を抜きにした暴走が過激化する潮流の大きさに比例して、このような人物の影響力が静かに浸透するでしょう。

個人的には、日本の1960年代後半の学生運動の動乱を考察していると見えてきたのですが、彼らの大半は、社会運動に傾倒して革命を高らかに宣言はしていましたが、それ以前にやらなければならない革命を無視・放棄していました。真の闘争とは、自分が自分にはっきりさせるためのものであり、最初から最後まで、自分自身の問題であるというのが私の根本的な考えです。

なぜならば、個人の闘争を超えた社会運動というのは、深刻なリスクを最初から抱えているからです。それは社会運動によって個人の闘争が非在化し、社会運動のマジョリティは必ず非在化した個人の集積となることです。社会運動である限り、ここに陥ることは何をやっても避けられません。だからこそ、私は如何なる社会運動も信用できません。なぜ、社会運動は長期化すると形骸化するかと言えば、個人の非在化の集積では、結合強度が根本的に脆弱だからです。いわば、時間耐久性がない。時間耐久性がないということは、短期的に現実性の政治政策を変更できても、長期的に何かを変える力を持っていないということです。

健全な社会運動とは、徹底的に個人の闘争を各人が行うことによって、振動として振幅する波のことです。なぜならば、時代性というものが、その時代を生きる全ての人々に圧力をかけており、自分自身との激しい内省がそこに呼応すれば、必然的に社会運動になるからです。この形態の社会運動の特徴は「目的意識」を共有していないことであり、ゆえに実践(praxis)を伴わないことです。ですが、非在化した個人の集積としての社会運動は、時間耐久性が脆弱なため、「目的意識」を前提に強調しなければ、即座に解体のリスクに陥るため、徹底的に目的完遂への実践(praxis)を主張します。

しかし、個人の闘争によって振幅する連動型の社会運動には、こうした目的完遂への実践は存在せず、在るのはただ実際行為(pratique)だけです。ゆえに、こちらを社会運動と呼べるのかさえ、私は懐疑的です。竹林の七賢人が社会運動ではないことと同様です。ゆえに私は社会運動を信じていないのです。

残念ながら、社会運動として現在語られる全てのものは、この個人の闘争が非在化しています。個人の闘争という最も困難な格闘の経験なきままに、非在化した個人の集合体が社会運動に邁進することが美徳化し、常態化しながら頻度だけを増加させています。しかも、最初から参加することが「声をあげている」と肯定的、かつ礼賛されるご褒美まで用意されている周到さです。つまり、個人の闘争を非在としたままであっても、社会運動に加わることによって、自己実現の欲求をある程度満たすことができるという決まった確約のもとで、社会運動は行われているのです。なぜ、そのような集合体に人々が集うかと言えば、個人の闘争という生きることを放棄することへの一時的な休息があるからです。ですがこの休息はHRVが上がる副交感神経優位のセロトニンベースの休息ではない、交感神経優位のドーパミンベースの休息であるため、その休息は一過性の興奮という刺激によって触発されたものなのです。変わった言い方をすれば、現代の社会運動は「触発された生理現象」です。これは現実逃避などの便宜な言葉ではもはや言い表せない次元であるため、私は生きることの自己放棄だと言っています。

個人非在の社会運動が標準化された現在。個人から孤独な闘争を剥奪し、全人類が共通して目指すべき「快適で安全な幸福」という、均質化された目的地へと回収しようとする暴力が過剰に高まっています。この動きが高まれば高まるほど、非在化する個人は虚無を彷徨う亡霊となり、現実は完全に彼らの眼前から見えなくなります。この時、対象は完全に消えるのですが、ゆえに「人を見る」ことの重要性を執拗に述べているのです。

これでは、何のために生まれてきたのか分からないのは当然です。なぜならば、自分たちの人生を生きる決意・決断をせずとも、時間を消費するためのパッケージが四方八方に用意されており、その現実性を現実と虚構する檻の中で生涯に渡り、自分自身を誤魔化し続けることによって、80年程度の人生を消費することが可能となっているからです。そして適度に自己実現の欲望を満たす解消策として、様々な参加イベントまで用意されている。このように全てが整い、自分で何もせずとも生きられる社会は、確かに大勢にとって魅力的です。ゆえに、どれだけ社会システムが悲鳴をあげていても、老朽化していても、守る、あるいは修繕しようとするのです。彼らの目は、現実自体を抉ることまでは絶対に為し得ないからです。

本来、システムが破綻する時機が早ければ早いほど、私たちは次へ進むことができることは無視されます。なぜならば、人間の平均的な寿命を考えれば、誰もが自分の人生の範疇で楽に生きたいと願うからです。こうして負債は、未来の世代へ雪だるま式に先送りされていきます。

現実から現実性へ、現実性から現実へ。大勢にとって過酷な現実は、突如眼前に現れることを忘れてはなりません。