長谷川等伯と能登の震災Hasegawa Tohaku and the Noto Earthquake
先月後半に震災の痕跡が色濃く残る北陸の能登半島を一周しましたが、この地域に訪れたもう一つの目的が、私が敬愛する絵師・長谷川等伯の展覧会に出向くためでした。
2024年1月1日の地震以降、長期間の閉業を余儀なくされていた能登の七尾美術館ですが、9月20日に再開館が行われ、開館30周年記念と震災復興を願って『長谷川等伯展』が来週16日まで行われています。七尾市は能登半島の南東部側に位置する半島の玄関口にあたります。険しい山々に囲まれてアクセスが困難な事情から、復興が全く進まない北部の輪島市と比べると、七尾市は富山市などからのアクセスが容易であったことから復興が先行的に進みました。
そしてこの七尾こそ、戦国時代から江戸時代初期という動乱期を生き抜いた絵師・長谷川等伯の故郷です。1539-1610年に生涯を生きた等伯は、20代は主に絵仏師として七尾で活動していたとされています。この絵仏師とは、僧籍にあり主に仏教絵画制作や仏像の彩色に従事した寺院お抱えの専門絵師集団を指しますが、七尾の寺院にはこの時代の等伯の作品が信春の名前で残っており、今回の地震でも被災しながら、何とか継承することに成功しました。
ちなみに絵仏師とは日本由来の職種ではなく、古くは仏教を筆頭とする中国由来の文化が次々と日本に流入する過程で、特に絵画制作を専門とするギルドのような組織と仕組みが日本に導入されたことに由来します。6世紀後半から7世紀前半を生きたと伝わりながらも、常に実在の是非が問われている皇太子・聖徳太子の時代から絵仏師に繋がる制度化が朝廷で行われており、律令制時代を経由して成立していきます。この成立過程で唐で活発だった密教が遣唐使として派遣された留学僧の最澄や空海によって伝来、この密教の影響が朝廷界隈で極度に強まる過程で、密教の曼荼羅のように複雑な仏教絵画の需要が急増し、絵仏師と呼ばれる仏教画専門の絵師が登場する基盤が生まれたのです。
ですが、地方出身の絵師が京都に上洛して活動を行ったにしては、等伯は唯一と言えるほどの正確さでその生涯を追うことのできる貴重な人物です。ただし一方でその明確さゆえに彼の生涯については疑念も多く付き纏っており、先人たちの等伯研究には、後代に過度な恣意的解釈が施されていたのではないかという批判が絶えないことも事実です。実際のところは未だ不詳ですが、何しろ等伯は当時の京都画壇における最大派閥の狩野派に対して、自らの才覚だけで挑戦して狩野派の覇権を動揺させた存在です。超保守的な京都の画壇に単身で乗り込み、絵画制作の利権を掌握する最大派閥に果敢に挑んだ能登生まれの等伯の生き様が大勢の日本人を感銘させてきたことは事実のため、ある程度の恣意的な装飾は避け難いと言えますが、この点を念頭に置いて等伯と向き合うことで初めて実像が見えてくるように感じます。
特に、上記に示した能登時代の等伯が絵仏師として早くから活動していたという解釈自体が、怪しいことは事実です。一般に現在の等伯研究者の大半は、能登時代の長谷川等伯の活動は『信春』という名前で行っていたという解釈が前提されており、すなわち『長谷川信春=長谷川等伯』の構図が自明とされています。しかし、本当に等伯が信春と名乗って能登で絵仏師として活動していたのかと問われると誰も証明できず、しかもこの説は1938年に打ち立てられた比較的新しい一人の人物による説に依拠しており、それまでの歴史認識とは大きく異なるのです。
江戸時代に記された書物にはその新説を破棄する記述が随所に見られます。例えば、17世紀後半から行われた日本画史の編纂書物である『丹青若木集』、『扶桑名公画譜』『画乗要略』などの江戸時代の絵画史にまつわる書物では、信春は等伯の子供と記されており、1678年に開版された日本画の絵師伝であり、日本絵画史の基礎資料の一つである『本朝画史』では、信春は春日絵所の絵師と記されています。春日絵所とは、15世紀半ばに土佐光信が宮廷・幕府の絵師職として工房を確立したことに由来していますが、この日本絵画史における土佐派は、京都で最大派閥の狩野派と拮抗した代表的勢力です。
つまり江戸時代の絵画史に基けば、江戸時代を通じて長谷川等伯と信春は同一人物ではなく、別人だという認識が一般的でした。しかし、1938年に突如この既存の説がひっくり返されます。当時、美術史学者の土居次義(1906-1991)が京都・本法寺の所蔵していた『日堯上人像』に長谷川信春の署名があり、同作品の制作年代と等伯が京都に出て活動を始めた時期が一致することから、これは等伯が34歳頃の作品だと解釈され、当時の等伯は信春と名乗っていたと前提されたことから、土居のもとで『長谷川信春=長谷川等伯』という同一人物説が提唱されます。いわば、江戸時代を通じて別人と考えられていた等伯と信春が、1938年に一人の美術史家の解釈によって同一人物へと変更されるのですが、この時に江戸時代の記録は確証がなく稚拙だとして否定された歪さを孕んでいるということです。正直、戦前の時勢ということもあって、この説にはかなり恣意的な意図を感じます。
まず、大前提として、寺院の行事や法事など公的な場で用いられる用途に限定される密教・涅槃図などの仏画は、一般に鑑賞される絵画のように筆者を問う必要はないため、古くから通常は絵師が署名を入れることはありません。これは日本各地の寺院に出向いて現在鑑賞できる涅槃図などを見れば分かりますが、まず作者の署名などありません。しかし、能登で絵仏師として活動したとされる謎の信春は、こうした仏画の表面に堂々と年齢と名前を署名しており、印章を押している事実があります。信春は仏画に自ら署名を行い、場合によっては義父の名前も書いていたことが数々の現物から分かるのですが、絵師が自らの主体性を打ち出す時代は江戸時代から盛んになる動きであり、中でも伝統的な絵画界隈ではなく、むしろ町の浮世絵師たちが仏画を描くようになった時代に盛んとなり、この頃には首都・江戸の浮世絵師が自ら制作した絵画に堂々と署名を入れることが流行しています。ただ一方で、現代のDJのように素性を隠す必要がある場合は、『隠し落款』を用いる場合もありました。分かりやすく言えば、浮世絵作品で私たちは北斎や歌麿などの作品を知ることができ、彼らの素性と活動期を大体推定できますが、一方で正体を隠して次々と作品を発表した写楽については何も分からないことと同じです。
信春は養子先の両親の死去を契機に能登を去り、幼い息子の久蔵を伴って京都に向かったとされています。久蔵は等伯の子として知られており、等伯の後継者として優れた才能を持っていましたが、26歳で謎の死を遂げています。一説には、京都における長谷川派の台頭を抑止するため、狩野派が暗殺したとも言われています。ここも議論が分かれますが、一説では信春は京都に到着するなり狩野派に入門したとも伝わります。信春が狩野派の門人であったか否かは今も随所で曖昧な記載が取られて断定はされていませんが、物語としては狩野派に入門したとする方が魅力的なことから、こうした説が重宝される傾向もあります。一つだけ確かなことは、京都に到着した信春は故郷の能登で長谷川家の菩提寺であった本延寺の本山・本法寺に入ったことです(これは普通のことです)。
しかし、疑問は新たな疑問を生む連鎖となります。京都上洛から直ぐの1572年に信春は『日堯上人像』を制作したと言われているのですが、当時は他の寺院も含めて本法寺もお抱えの絵仏師を大勢抱えていた時代です。このような時代にあって、突然能登のような地方から現れた絵仏師の信春を、大勢の絵仏師を差し置いて大仕事に抜擢した辺りに様々な憶説を呼んでいます。しかも、当時の寺院の絵画に自らの落款を入れることは考え難く、異例の抜擢という物語も、超保守的な当時の京都では起こり難い側面を考慮すると、むしろ同作品の制作時期の実定自体に誤りがあったのではないかという疑念が浮上します。
この絵画で描かれた日堯とは、京都・本法寺の第八世住職ですが、ちょうど信春が京都に上洛したと言われる1572年に30歳の若さで没した僧侶です。その日堯の死を受けて『日堯上人像』が本法寺の絵仏師である信春によって描かれたとされるのですが、実は『信春=等伯』同一人物説の根拠は、この『日堯上人像』が描かれたと見られる1572年の落款を前提に、当時は作者・信春が34歳だったこと、そして1572年ならば等伯も34歳だったことと通じていると実定し、かつ65歳で死去した道浄なる名の父を互いに持っていたことが共通していたことに起因します。これが土居の提唱した同一人物説の根拠ですが、上記を追うだけでもかなり恣意的なこじ付けが強い傾向が察知できます。
この土居説は今や各方面で長谷川等伯を語る上での前提になってしまっているものの、一方で反論がないわけではありません。例えば『日堯上人像』は死後すぐに描かれたものではなく、1561-1585年にかけて妙國寺開祖の僧侶が記した日記の『己行記』では、日堯の三回忌に大規模な法要が営まれた記述が残っており、この三回忌に合わせて『日堯上人像』が信春によって描かれたという反論があります。すると制作年代は1572年ではなく1574年となりますが、ここで信春が34歳だったならば、等伯は36歳のため二人は別人ということになります。ただし、ここで父・道浄なる人物が二人に共通している点が混乱を招いており、また2歳しか歳が変わらないのであれば、江戸時代の記述にある信春は等伯の子という説も成立しません。このように長谷川等伯が何者なのかについては、分かっているようで実はほとんど分からないのが実情なのです。ちなみに道浄とは、等伯の養父のことです。
そして信春は本法寺で重要な仕事を行って以降、数々の画を京都で制作したと考えられますが、一方で30代後半から40代の活動詳細が全く分かっていません。この頃の活動が判明しない有力な理由としては、当時は本法寺の第十世住職・日通上人(1551-1608)が関与しているという説です。日通上人は日蓮宗の僧侶ですが、本法寺は日通上人登場以前の1536年に法難によって一時京都を追われており、ここで新興都市・堺に避難していました。この後、再び堺から京都で再興するのですが、特に1587年に将軍・豊臣秀吉による聚楽第建設に伴う都市整備の影響で移転します。この移転を先導したのが堺生まれの日通上人ですが、ここで彼は文化的に深い関わりのあった時代を象徴する文化人の本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備し、本法寺は京都の町に一大栄華を誇るまでに繁栄させています。
この日通上人と京都の本法寺で深い親交を持ったのが長谷川等伯なのです。等伯は日通上人との親交を介して、彼の故郷であり当時猛烈な勢いを誇って独自の文化を形成していた新興都市であり、文化の中枢地であった堺を往来していたと考えられます。そして日通上人の交友関係を介して、堺に集う当時最先端の文化人たちと交流する機会を得た等伯ですが、その文化人が集うサロンが茶室でした。この時、茶道成立の原動力となった堺の千利休との関わりを持ったと考えられ、茶の湯文化を経由して新たな時代の美を培ったとも思われます。何より、この千利休との関係が、後に等伯が京都・大徳寺への出入りが許される契機となったのです。千利休は、生前から等伯の腕を高く評価した文化人の一人で、様々な仕事を等伯に流しています。この京都有数の規模を誇った禅宗寺院・大徳寺との深いコネクションができたことが、等伯の人生を大きく変えたことは見逃せず、さほど等伯の生涯に縁のなかった最先端の禅宗から生み出された水墨画に与えた影響も計り知れません。
この点を踏まえて改めて考えると、そもそも等伯と名乗る以前に信春と名乗った時代があったと一般的に考えられていますが、実のところ信春から等伯と改名したのはいつ頃かは不詳で、この重大な点については何も詳細は分かっていません。また仮に「信春→等伯」の過程があったならば、この時期の作品がほぼ確認されていないことも問題であり、このことが一層、長谷川等伯の謎を深めています(ある意味、この謎に多くの人々は魅了されているとも言えます)。さらに長谷川等伯の観点で言えば、その精力的な活動は50代を迎えて以降のことで、現存する等伯の傑作は例外なく晩年の作品です。これは一人の絵師自体を見るよりも、むしろ時代の動きと呼応していると個人的には考えているのですが、等伯の生涯はまさに各地に武将が点在して勢力を競い合い、日本列島統一を掲げた戦いが終盤に至った頃です。つまり、いよいよ統一する将軍が現れ始めた時勢と深く関係しています。
等伯の生涯が本当に1539-1610年であったとすれば、その前半はちょうど尾張国(現・愛知)の織田信長(1534-1582)が勢いを拡大し、次々と他国を服属させて全国制覇に迫る時代と呼応しています。ただし、織田信長は全国統一寸前まで迫りながらも、日本を植民地化するために国内で暗躍していたポルトガル宣教師と、彼ら宣教師にインド・ゴアで諜報訓練を受けて日本に派遣された黒人諜報員の弥助(宣教師によって織田信長に意図的に献上され、側近として重用された)を筆頭に、キリシタンによる転覆工作によって本能寺の変で没します。ここで続いて名乗りをあげたのが、農民出身の豊臣秀吉(1537-1598)です。
秀吉は、信長の死の背後に蠢くポルトガル勢力の暗躍があったことを熟知していたことから、ポルトガル宣教師からのバックアップを受けて織田信長を自害に追い込んだ明智光秀(1528-1582)を討つために即座に挙兵。圧倒的な豊臣側の軍事力に為す術なく、光秀は没します。この時、ポルトガルが日本を植民地化する夢は完全に崩壊し、豊臣秀吉から次の徳川家康にかけて、日本の情勢を表に裏に揺さぶるポルトガル宣教師勢力の存在が疎ましくなり、排撃体制に向かいます。彼らの狡猾な侵略の理想は他国に通用したとしても、日本には通用しませんでした。こうして全国統一の道を築いた秀吉は、1588年に母のために京都・大徳寺内に天瑞寺を建立します。これは明治に廃絶して現在は残りませんが、当時はかなりの評判を呼ぶ豪華な大建造物であったと伝わり、中でも障壁画は最高傑作だったと言われています。そしてこの障壁画を制作した人物こそ、狩野家の中で最高の才能を持って登場した狩野永徳(1543-1590)です。彼こそが、長谷川等伯の最高のライバルでした。
残念ながらこの障壁画は現存しませんが、江戸時代末頃に一部を模写した縮図と写生が発見されており、これに基づくと松の木などが巨大に描かれ、狩野永徳の最高峰の完成度を誇っていたことが示されています。当然、大徳寺と深い関わりを持っていた等伯も永徳の傑作を制作過程から目にしたと思われ、この永徳独自の木を巨大に描く表現には衝撃を受けたとも言えます。この大徳寺内の天瑞寺における障壁画で永徳が生み出した表現は、即座に時代を象徴する様式として狩野派以外にも広がるターニングポイントとなり、等伯自身、さらには等伯が率いる長谷川派にも強い影響を与えることになります。ただし、ここで永徳の様式を単に模倣するのではなく、永徳の高度な表現を踏まえて独自の表現で超越する新たな世界こそが等伯の志した絵画でした。ただし、惜しいことに永徳は1590年に若くして没してしまい、等伯は最高のライバルを失うことになります。
そして実は、ここから長谷川等伯という一人の絵師の大躍進が京都において始まるのです。一体、長谷川信春と長谷川等伯は同一人物なのか。それとも血を分けた別人なのか。ならば長谷川等伯とは何者で、50代を超えてから大活躍した原動力はどこにあったのか。大好きな等伯については今後も様々な角度から書く予定ですが、七尾という等伯の故郷で震災で生き残った信春と等伯の見事な作品を静かに見ていると、能登の風が京都最高峰の狩野派の技術と組み合わさり、昇華された文化こそが長谷川等伯の絵の真髄だと感じます。そしてこの能登で語りかけてくる風こそが、あの代表的な等伯の水墨画を生み出したように感じてなりません。能登の風と仏教への信仰、そして躍動する自由闊達な禅宗が、能登ー京都ー堺で融合しながら生まれた長谷川等伯の作品。地震の影響が今も深く残る能登半島に吹く風は、今も昔も変わりません。