C:\SHITSURAE\> TYPE SJ215.TXT

SJ215.TXT2025-09-1513KB

筑後川をたどる:大分から佐賀へFollowing the Chikugo River from Oita to Saga

今日は大分市内から出発し、日田市、うきは市を経由して有明海まで至り、その後、佐賀に来ています。今回この経路を選んだ目的の一つは、筑後川に注目するためです。筑後川は阿蘇山を水源として、九州地方北部を東から西に熊本、大分、福岡、佐賀の4つの県を流れて、有明海に注ぐ大きな川です。その筑後川に沿って有明海まで下ってみたのですが、まず訪れたのがその河川の要所ともいえる、山間部の入り口に広がる盆地の日田市です。

日田市は現在ではほとんど注目されることはありませんが、歴史的には極めて重要な意味を持ち、特に江戸時代には幕府直轄の『天領』として大きく注目を集めました。その理由は、日田市が地理的に九州全体へ放射状に道や河川が伸びる交通の要衝で、北は福岡、東は大分、南は宮崎・鹿児島、西は佐賀・長崎と結ばれており、古くから日田街道として知られ、多くの人・物・情報が行き交ったからです。特に江戸時代は、この九州が徳川家の江戸から最も遠い土地であることから監視が難しく、反乱を防ぐための監視拠点とされ、幕府直轄領となったのです。

しかし、日田に注目したのは徳川家が最初ではありません。驚くべきことに弥生時代から古墳時代にかけてもこの地は重要視され、それに伴う開発が進んでいた痕跡が見られます。ではなぜ現在では目立たないこの地域が、古代から人々を惹きつけてきたのでしょうか。その理由の一つが、海上交通との結節点にあったという点です。実際、日田のすぐ横を流れる三隈川(筑後川のこの地域名)は筑後川の本流であり、ここからおよそ75キロ下れば有明海へ至ります。日田周辺には古墳や古代集落跡も多く見つかっており、古代海洋部族の活動とも深く関わっていたことが推測できます。

長らく、日本に渡来した部族は朝鮮半島から対馬などを経て玄界灘へ入り、そこから九州北部に上陸して南下したとされます。しかし今回、実際に筑後川を辿ってみると、玄界灘のルートではない、有明海から遡上するもう一つのルートが存在していたことが見えてきました。その古い痕跡は、今も筑後川流域の神社の配置や祭神の性質に残存しており、この筑後川流域に古くから海洋部族のが深く関わっていたことが見えてきます。たとえば日田市の三隈川でも鵜飼いの習俗が伝わっていますが、この鵜飼いは川でありながら、川鵜ではなく海鵜を用います。この点にも、明らかに古い海洋部族が河川流域の文化に与えた影響が見て取れます。

日田にはUFOのような大きな円墳などが遺跡として残されていますが、その西部に隣接する福岡県うきは周辺まで進むと、不思議なことにこの地域の信仰には出雲系の影響が海洋部族の信仰と絡まりながら強く認められます。筑後川流域の神社の多くに出雲ゆかりの神々が祀られており、出雲族がかつて移住、あるいは進出してきた痕跡と考えられます。

この時に考慮すべきが神話に描かれる「国譲り」の物語です。これは出雲を筆頭に、出雲に属する巨大な圏域を統治していた現・出雲大社の神であるオオクニヌシが、新たに登場したアマテラスの一派に国を譲ることを要求された説話に由来しますが、神話では描かれないものの、国譲り以降、覇権が衰退した出雲の人々が各地へ散った可能性が高くあります。これは単なる個人的な推察ではなく、日本全国各地に残る地名、そして古い記録、神社の祭神や伝承に至るまで、この神話とも歴史とも言える大事件を示唆しているからです。

また、出雲大社の祭神であるオオクニヌシは「大いなる国の主」であり、複合的な部族連合を束ねた古代の有力な王に等しい存在でした。また、オオクニヌシは婚姻関係を通じた同盟を行い、全国各地の部族を服属させていましたが、もしかすると、筑後川流域に残る出雲信仰の名残は、起源を遡れば出雲勢力が九州各地とも関係を持った、あるいは国譲り以降に流れた古い記憶を伝えているのかもしれません。

こうした視点から考えると、従来の玄界灘ルートだけでなく、有明海から筑後川を遡ったルートを考慮する重要性が高まります。なぜならば、この筑後川のルートは、日田が要所となり、放射線上に九州各地に道が続いていることからも明らかなように、江戸幕府に限らず、この地を収めることが、ひいては九州を征服する重要なポジションだったと思われるからです。

何よりも海洋部族の動きに注目するならば、有明海から筑後川を遡上して日田まで入れば、あとは他の河川を利用して大分市内方面、さらには別府などから国東半島南部へ至るルートが考えられ、古代の主要経路の一つだったと見えてきます。先日お伝えしたように、日本有数の神格を持つ宇佐神宮の伝承にも、謎に包まれた祭神・ヒメノオオカミの最初の上陸地は、宇佐側ではなく、国東半島南東側の奈多宮とされており、直接宇佐に降り立ったのではないことが示されています。

現在では、宇佐神宮のヒメノオオカミは、宗方三女神として知られる福岡県宗像市側(玄界灘)の海洋部族の女神信仰と伝えられていますが、これははっきり言って後世の改竄であり、古層は玄界灘ではない有明海から進出してきた女神信仰に由来しているのです。これらを総合すると、有明海から筑後川を伝って内陸へ入り、大分へ抜ける古代のルートが存在し、その要所に日田やうきはが位置していたことが浮かび上がり、そこが大和で天皇史が幕を開ける以前、かなり重要な地域だった可能性が浮上します。