大隅半島と南方ルートの古代信仰The Osumi Peninsula and Ancient Faith on the Southern Route
今日は大隅半島を南下して、鹿児島、宮崎を巡り、謎多き古代日本の南方ルートの文化伝来に関する痕跡を追いかけていました。
大隅半島は、九州南部の東側にある半島ですが、古くから、この地域一帯には神話や伝承に登場する未だ解明されていない重要な部族が広範囲に存在しました。そして彼らの信仰は縄文時代に由来しています。つまり、九州北部から中部一帯にかけては縄文の痕跡以上に朝鮮半島経由の交流による文化の重なりが顕著であるのに対して、南部一帯には古い暮らしを守る力が強く働き続けたのですが、そこに暮らした人々はかなり長い期間、縄文時代の習俗を続けることができた古代日本史において重要な人々です。
しかし、歴史的にほとんど調査されず、なかなか語られることもない大隅半島の縄文人は解明することが非常に難しい状態が続いています。そこで今回訪れた感覚から洞察する余地を開いていきます。まず最初に来訪したのが都萬神社(ツマ)です。
この神社は今では「都萬」と漢字で書きますが、かつては「妻万」とも記され、「妻の宮」として長らく奉仕されてきたと伝えられています。ここで祀られているのは、コノハナサクヤヒメですが、この女神は天孫降臨を行ったニニギの正后となり、三人の子供を産みます。それが昨日お伝えした海幸彦、山幸彦です。ですがこの時、母乳だけでは足りなかったため、甘酒を作り母乳代わりにして養育したと伝えられており、それ以降、お産で母乳が足りない婦人たちはこの神社に参拝し、祈願すれば乳が出るようになると古文書に記され、古代から信仰を集めてきました。
これらを踏まえて地形図と照らし合わせて神社の位置を見てみると、この地は古代の丘陵部に立っており、古くは眼下に湾や湿地が広がる光景だったことが見えてきます。実際、神社が建立されている丘陵部からは、弥生時代と推測される鏡などの祭祀具が多く見つかり、銅鏡が51個も発見されています。これらは中国の王朝側からの影響を受けていた要所として栄えていた面影を伝えています。現在はその面影は全く残っていませんが、この丘陵地帯から望む一帯には、かつて海が複雑に入り組んだ湾であったことがわかるため、この神社の信仰が極めて古い時代に遡ることを示しています。中でも都萬神社は、かつて日向国に存在した五郡それぞれに神社が創建されたと伝えられるほど重要な社であり、創建年代は不詳ながらも、コノハナサクヤヒメへの信仰が相当古くから根付いていたことを感じさせます。
しかし、コノハナサクヤヒメ以上に大隅半島、そして縄文部族の信仰を理解する上で最重要の神社があります。それが、串良という変わった地名の場所に立つ、月読神社です。ツクヨミは日本神話においてアマテラスやスサノオとともにイザナギから生まれた神の一柱として登場するものの、不思議なことにツクヨミに関する記述は極めて少なく、また全国的にも主祭神として祀られる神社は非常に限られています。これはアマテラスやスサノオがあまりに有名なことを考えると、何か古層に大きな出来事があったことが伺えます。
まず、「月を読む神」とは、農耕や漁業に必要な月の満ち欠け、月齢を読み解き、そこから起こる事象を占い、それに対応する方策を示す呪術的役割を担った部族集団を率いた巫女が奉祀する神であった可能性を示唆します。当地の月読神社は社伝によれば15世紀頃の創建とされますが、地形を歩いて確認すると、ここはかつて湾に入り組んだ小島の上に立地しており、古代部族にとって極めて重要な信仰地であったことが窺えます。
またクシラという地名自体も意味深です。現代人には霊的な響きを伴うこの地名ですが、クシ(櫛)とは神に祈りを捧げる際に用いていたと考えられる呪具や占具であり、この地域の『風土記』にも「クシラの神」を祀る特定の集団の存在が記されています。古代において櫛は呪術的道具でもあり、巫女が櫛を用いて占卜を行い、神の神意を問う。そこからその神託を政治を担う男王に伝えていたのですが、その部族的な祭祀形態が伺えます。実際、訪れてみると神社が立つ島自体が古墳であるように感じ、古い祭祀遺構の名残を強く感じます。
さらに月読神社に祀られる神々の構成も古層をかろうじて伝えています。主祭神は月読命ですが、それ以外には稲の神格である神が祀られ、稲作信仰との結びつきが明らかですが、これはかなり後代に転化された祭神であって古層とは異なります。一方で、配祀にタケミナカタとヤサカトメが祀られている点が注目です。タケミナカタは出雲の大神であるオオクニヌシとコシ(現・北陸)の女王・ヌナガワヒメとの間に生まれた出雲系の重要な神であり、現在は名高い諏訪大社の主祭神として祀られています。ヤサカトメはその妻とされますが、これはタケミナカタ、つまり出雲系部族がこの地に進出してくる以前から、この地で在地部族を率いていた女性首長であった可能性を示唆します。
すなわち、出雲に由来するタケミナカタが勢力拡大のために大隅半島を来訪し、在地の首長であるヤサカトメと婚姻(同盟)を結んだ痕跡と考えられる配置となっています。そのため、ツクヨミの信仰が早くから発達した背景には、こうした部族的要素と月齢を基盤とした農漁業の神託を通じた指導、さらに櫛による呪術的儀礼の存在が結びついていたと推測され、明らかに巫女の存在が示唆されています。そもそもツクヨミがなぜアマテラスやスサノオと並ぶ神格として日本神話に登場したのか。その手掛かりは大隅半島に存在した縄文部族が、後に関西方面に進出し、強い影響の候補起こったことが関与している可能性があります。その大隅半島を拠点としていた縄文部族が、薩摩の隼人です。
そして隼人の痕跡は、月読神社界隈に多く残されているのですが、縄文、弥生、古墳が混淆して複雑化しており、本来であれば、この地域における時代ごとの部族変遷の歴史解明がひいては大和などの理解につながるはずですが、残念ながらここに注目が集まる事はありませんでした。
大隅半島には無数の古墳がありますが、例えば塚崎古墳群は4世紀〜5世紀に築造された古墳群で、円墳54基、前方後円墳5基、さらに南九州独自の地下式横穴墓29基が確認されています。地下式横穴墓は、この大隅半島の隼人特有の葬送方式です。注目すべきは大隅で前方後円墳が建造されていること、そしてこの前方後円墳が日本列島本州最南端の前方後円墳だと言うことです。古墳時代において、この類の古墳は高位者しか築造できなかったことから、この地が日本列島最南端の古墳文化圏であったことを示しており、さらにかつての調査では埴輪や須恵器など、後に大和の圏域で極めて重視される当時の先端的な遺物も出土しています。
現在、この古墳群周辺は平地に開拓されて田畑が広がっていますが、地形的に見ると古代は古墳造営地は例外なく丘陵部が突出した地点に築造されており、そこから志布志湾や大隅湾が入り組んだ環境にあったため、舟の往来が基本だったと考えられます。古墳群の立地がこの地形に対応していることは、古代において特別に選ばれた場所であったことを示しており、そこが彼らの重要な生活拠点だったことを伝えています。とりわけ、前方後円墳や出土した須恵器・埴輪が「日本列島の最南端で確認された」という事実は極めて重要です。
なぜならば、これは定説化してしまった古代移民の朝鮮半島経由だけでなく、南方経由で到来した渡来部族の存在を示唆しており、中国大陸沿岸での混住、さらには東南アジアから琉球、奄美を経て、日本列島に分散的に上陸した未知の部族の可能性を物語っているからです。
しかし残念ながら、古代日本史の南方ルートの文化伝来を読み解く鍵となる大隅半島の調査は、まともに行われたことがなく、調べ、語り継ぐ機会にも恵まれなかったことから、既に失われつつある文化として位置づけられます。隼人の記憶は、大隅の暮らしの底にいまも静かに息づいていますが、それを受け継ぎ語る場がほとんど失われてしまい、今日も隼人に関する神社や古墳などを回っていても、その記憶が表に出る機会がいかに乏しいかが、ひしひしと伝わってきます。
逆に言えば南方ルートが明らかにならない以上、今後も朝鮮半島経由のルートばかりに固執して行き詰まる事は明白です。ですが、古代日本史をめぐって各地を移動していると、それは断じてありえないことが見えてきます。一体このまま光の当たらない歴史を置き去りにして、すべてを埋もれさせてしまうのか。それとも土地に息づく隼人の記憶に再び光を当て、しっかりと理解を推し進める動きが生まれるのか。大隅半島を回っている限り、今は前者に傾いているのだろうと思った今日の旅でした。これは、均質化されてしまった近代以降の悪影響と言えますが、事情は大隅半島に限らず、東北なども同じです。