青島神社と宮崎中南部Aoshima Shrine and Central-Southern Miyazaki
今日は宮崎の中南部を動き回っています。まず最初に訪れたのが青島神社です。青島神社は宮崎市内南部の沖合に浮かぶ小さな島ですが、実はこの島は2400年前の隆起海床が起きて以降、貝殻が積み重なって形成された独特の深い島です。島自体は1周1キロ程度なので歩いて10分から15分程度で歩けますが、この島特有の環境特性は古くから海の信仰を有してきました。そしてこの土地も、神話に深い関わりがあります。
それが古事記や日本書紀で語られる天孫降臨の伝承に関連します。青島神社から西の山間部へ向かうと、鹿児島との県境にそびえる高千穂峰がありますが、ここに降り立ったアマテラスの孫に位置するニニギが、この地の神であるコノハナサクヤヒメに出会って契りを結び、三人の子をもうけたことから物語が始まります。この神社に祀られているのは、その中の一人であるホホデミ、別名・山幸彦と呼ばれる神です。しかし、これまでの調査を踏まえて感じるのは、ここはホホデミ以前から古い海洋部族の聖地であったこと、さらに巫女が司る弥生的な信仰が存在していたと思われる点です。
小さな島ながらも、境内には南国の熱帯亜熱帯植物が226種も自生して特有の環境を作り出しており、砂浜には無数の貝殻が散らばっているのですが、ここで「宝貝」という種類の貝を信仰に取り込んでいた部族の存在が示唆されています。その象徴が山幸彦であるホホデミの皇后となる海の女神・豊玉姫です。豊玉姫といえば、日本では童話・浦島太郎の竜宮伝説に登場する乙姫と重ねられることが多いのですが、乙姫はニニギの妃の一人として登場するもう少し南の日南沿岸部の神であったアタラツヒメであり、豊玉姫含めてこの地域にはかつて、弥生的部族の習俗の宝庫だった痕跡を残しています。
つまり、竜宮伝説以前に豊玉姫などの海洋部族の巫女こそがその原型的存在だったということです。そしてこの地に立つとよく理解できるのは、豊玉姫という部族的信仰が特に青島のジャングル中心部にある奥宮で顕著に表れているという点です。ジャングルの中を入った先にある奥宮の背後には古代の祭祀場が残っているのですが、事実、この辺りから弥生時代の痕跡が考古学的に発見されています。そして方角を調査すると、ちょうど祭祀場に向き合った方角は東を示しています。現在の本殿とは異なり、かつて本殿に相当するのは奥宮であり、そこが外部の他部族に漏らしてはならない儀式を行う秘儀の場であったことを考えると、「東向き」であったこと自体が重要な意味を持つ可能性があります。なぜならば、方角的に大和へ向かっているからです。
実際、ここに登場する山幸彦と豊玉姫は、後に子・ウガヤフキアエズを産みますが、この神はやがて神武天皇となるカムヤマトイワレヒコの父となる神です。神話における天孫降臨からアマテラスを筆頭とする天つ神の系譜が天皇へと結びつく過程で、この神話が極めて重要な意味を持ちながら配置されているのですが、特に古い時代から「東」への志向がすでに始まっていた可能性が示唆されている点が興味深い。その意味でも、この小さな島に残る神社の配置や信仰を読み解くことは極めて重要に思えます。
では、この青島を軸に考えると、古代この地に現れた海洋部族たちはどこからやってきたのでしょうか。従来の歴史定説では、朝鮮半島側からのルートばかりが重視されがちですが、実際には多様なルートがあり、特に南方ルートを考慮すべきです。その証拠の一つが、青島に自生しているビロウ樹にあります。この植物はこの島だけで5,000本も自生しており、最古の個体で350年ほどの樹齢が確認されていますが、それ以前から存在していたことは確実です。その起源については、これまで大きく二つの説があり、ひとつは南から北に流れる黒潮に乗って種子や流木が漂着し、そこから自生したとする説で、フィリピン沖や琉球・奄美を経由して漂着したと考えられます。もうひとつは太古の気候変動の時代にすでにこの地域に自生しており、青島の独特な気候環境の中で生き残ったとする説です。いずれにしても南方からの漂着説には大きな魅力があるのですが、それらがほとんど考慮されないのは、日本史の議論において海流や風向きの影響が考慮されてこなかったからです。実は、民俗学の創始者である柳田國男が早くからこの重要性を指摘していましたが、その後も十分に研究されずに現在に至っています。海流や風は季節や地域ごとに呼称が大きく異なり、多様な呼び名が存在していたのですが、既にわずかに民俗学者が採集した例を除いて、途絶えてしまいました。
そして青島から今度は宮崎の山側に入ってみると、この山幸彦なる神の姿は単純に「海幸と山幸」、つまり海と山という対立で捉えることができないことに気づかされます。例えば神話では最終的に山幸が勝利したと語られますが、なぜか海幸彦を祀る神社はほとんど存在しません。しかし、たった1社だけ海幸を主祭神として奉祀する神社があります。それが宮崎県奥地の潮嶽神社です。潮嶽神社は山中深くにあるにもかかわらず、そこに海の神が祀られている点に重要な意味があります。日向灘から河川を通じて内陸に至るルートの要所に位置しているのが潮嶽神社ですが、周囲には古くから禁足地とされる森や海幸彦にまつわる伝承が残されています。
一方で、神話では海幸彦の敗北を伝えており、山幸彦側が海の覇権も掌握したように語られていますが、そもそも海幸彦が山奥で奉祀されているという点に、日本の深い古層が感じられます。つまり、海幸・山幸神話が伝えているのは、古代日本において海と山が分離されていなかったという「非分離の世界観」です。この非分離の記憶こそが神社の配置や信仰の奥底に息づいており、部族たちが海と山を分け始める以前の生活圏を示しています。日本には古くから「海の者とも山の者とも知れぬ」という言い回しがありますが、それは海と山を往来する非分離的な生活を営んでいた古代の部族に由来すると考えられ、ここには縄文的な痕跡が伺えます。
つまり、神話では海幸彦も山幸彦も兄弟として配置されていますが、実際には海幸彦が古層の海辺の暮らし、縄文的な層を示しており、山幸彦はその後に山の暮らしを携えて力を持った層を表していると考えられます。この神話が伝えているのは、かなり古い時代に宮崎中南部一帯で、海の暮らしを担う層と山の暮らしを担う層のあいだに、主導権をめぐる力学が働いた可能性です。そして後者が、海からではなく、山から現れたことを考えると、列島に根づいてから数十世代が経過していた姿が見えてきます。では一体、なぜ彼らは海の主導権を求めて、山を降りなければならなかったのか?
その理由は九州に複数ある火山なのです。