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小倉から門司港へ:関門海峡の玄関口From Kokura to Moji Port: The Gateway to the Kanmon Strait

今日は、九州北部と本州の山口県下関の間に広がる関門海峡の玄関口である小倉から門司港に来ています。この地域を大きく見ると、九州北部に渡来した渡来人が瀬戸内海に入るための最初の関門であり、古来より在地部族にとってはこの海峡を守護することが朝廷のあった大和へ流入させない防衛の最前線であり、通過の玄関口となっていました。

そのため小倉をはじめとする北九州は、港町であることから昔から気質が荒っぽく、それでいて非常に穏やかな人々が多く、独特の共同体を育んできました。現在は対岸の山口県下関との間に関門大橋が架けられ、往来は容易になりましたが、かつては多くの船が常に行き交う風景が広がっていました。そして宇佐神宮などを経て南下し、神武天皇のルーツでもある宮崎・日向へ至るには、この海峡を越えなければならず、それが叶わなければ五島列島側を経由して熊本や鹿児島を大きく回らねばなりませんでした。では、この地域の古代日本史の実態はどうだったのでしょうか。実は日本列島防衛の最前線であったにもかかわらず、他地域に比べて多くが未だ謎に包まれています。

その理由の一つは、古代と現在で地形環境が大きく異なっていたことにあります。北九州の大半はかつて海であり、弥生時代から古墳時代にかけても同様でした。さらに九州北部は、朝鮮半島からの流入経路としてメジャーだった福岡県糸島市や佐賀県唐津市が魏志倭人伝に記された伊都国・末盧国と結びつけられて解釈される一方で、古代北九州東部側には大きな勢力は存在しなかったのではないかという見解が長らく有力でした。しかし、実際に土地を歩くと、そんなことはあり得ないと分かります。下関から小倉、門司にかけては古来より様々な部族が往来しており、それは出雲大社などと同様、海沿いに建てられた古い神社の存在からもうかがえます。つまりこの海峡地帯も、通過する海洋部族にとって重要な拠点だったのです。

そのヒントとなる地名がわずかに残っています。小倉から内陸部に入ると「山門(ヤマト)」と呼ばれる古い山麓地帯があるのですが、そこに注目すると興味深い歴史が見えてきます。従来「大和」といえば奈良盆地南部を指し、王権や朝廷の発祥地とされてきましたが、実は大和という音や地名の由来は、この北九州にあった可能性が高いのです。ヤマトという字が九州側では、『大和』ではなく「山」と「門」から『山門』と書かれるように、山が内陸に入り込んだ湾の門のように立ち並び、そこまで海が入り込んでいた当時の地形を示していたと考えられます。それは、小倉市南部の足立山と鷲峯山の二つの山であり、ゲートです。その間には現在も紫川が関門海峡に向かって流れていますが、この一帯が湾だったと考えられるのです。

そして、このゲートを守護するヤマトなる部族集団が後に東に移住し、奈良盆地の「大和」となった可能性があるのです。つまりこの地域は大和の始まりの地であり、後に日本を形づくる部族たちの本拠地だったといえます。

実際、この山と山の間のヤマト中心部からは、重要な遺跡が発見されています。それが城野遺跡です。城野遺跡の立地は、古代の湾の丘陵となっている陸地にあることに注目できますが、そこでは丘陵の頂に埋葬された二つの石棺が並んで発見されました。そして、なんといずれも小児用の石棺であり、しかもただの子供ではなく、副葬品などを添えて丁寧に埋められていたことから、この地域の皇位継承に関わる子供であった可能性が指摘されています。

興味深いのは、2つの石棺は埋葬時期が異なりながら、いずれも子供であり、そのうち一方は4,5歳だったことです(もう一つは遺骨不明)。そして両方とも石棺内部には厚さ1〜2センチの朱が塗られていましたが、分析の結果、それは弁柄ではなく水銀朱であることが判明しています。朱は縄文時代から使われていましたが、弥生から古墳時代にかけての転換期において、その使用が埋葬などにおいて急増することは、異なる信仰体系をもつ集団の流入を示唆しています。さらに副葬品も部分的に見つかっており、正確には断定できないものの、この地域の最後の王族の末裔、すなわち王権継承者が葬られた可能性があります。2人の子供は、兄弟と姉妹だったと考えられていますが、これは弥生時代の典型的な体制を示唆する重要な意味を持っています。

実は少し前の弥生時代後期後半、この地域の拠点は少し南側にあり、その後、弥生時代終末期に少し北上してこの地域に動いたことが確認されています。これは瀬戸内海への入口としての周防灘沿岸を守る要塞が何者かによって陥落・破壊され、弥生時代の終焉を迎えたことを示すのかもしれません。この幼児たちがどのような理由で死んだのかは定かではありませんが、1つの可能性として生贄の可能性も否定できないと感じます。

実際、幼児の遺骨が並んで出土する例は全国的にも稀であり、押し寄せる大きな変動を前に、弥生の人々が霊的な守護を祈るために、この子供たちが犠牲となった可能性があるのではないかと個人的に考えています。その後、この地の陥落とともに北九州の弥生時代は終わり、一気に古墳時代に突入します。すると、それまでの勢力図は一気に塗り替えられていき、急速にその流れは奈良盆地の大和へと繋がっていきます。もしかすると、この時、古いヤマト族はこの地を放棄して東の奈良盆地に逃れたのかもしれません。

すなわち、大和の始まりはこの地域の陥落と深く関わっていた可能性がありますが、この歴史がなぜこれほどまでに解明されないのか。これまでの私的な調査では、弥生時代の突如としての終わりは、弥生人たちの祭祀、特に共同体の象徴であった銅鐸などの一斉埋蔵などに現れていましたが、この埋葬された子供たちが伝える見えない歴史とは何なのか。

それまで見たことのない種類の力と暴力が、列島の勢力図を塗り替えていった痕跡は、各地を調べている中で少しずつ見えてきていますが、その力学とは一体何だったのでしょうか。弥生人が最後に見た光景、それを知ることによって、古代日本史の深い謎は新たな段階に入るのかもしれません。