神話の宿る古代の海Ancient Sea Where Myths Reside
今日は徳島港からフェリーに乗り、和歌山港へ渡ってから用事があったので大阪へ移動しました。この徳島と和歌山を結ぶ海上ルートは、以前から関心を持っていた航路のひとつです。その理由は、古代において四国の在地の人々がどのように和歌山を経由して集約的な王権機能を有していた大和と接触していたのかを考えるうえで、この航路と海を往来していた海人の存在が極めて重要な意味を持つからです。
この海域には、徳島から四国最大の河川である吉野川が流れ込み、その北西には鳴門海峡が広がり、淡路島と接しています。その先には友ヶ島水道をはさんで和歌山県があり、さらに南側には紀伊水道の広い海域が広がっています。これら三つの潮流が交わる地点は、古来より「海の難所」と呼ばれてきました。現在のフェリーでは約2時間の航行ですが、古代において小舟でこの海を越えることは、天候や潮流に大きく左右される命懸けの旅だったと考えられ、かなり高度な航海技術を持っていた海人たちがいたことは明らかです。
実際に船上から景色を眺めてみると、四方を島々に囲まれているはずの海域であっても、少し空が霞むだけで島影は霞み、風景の中に溶け込むように見えなくなり、方向感覚を失います。古代の航海者たちも同じ光景を目にしていたでしょうから、航海はかなり慎重に進んでいたであろうことを思わせます。
そして、この航路で特に重要なのは、ちょうど中間地点にある小島・沼島(ぬしま)です。私が沼島を調査したのは5年ほど前になりますが、淡路島南端からさらに南へフェリーで15分ほどの場所に浮かぶこの小さな島は、『古事記』『日本書紀』において、イザナギとイザナミが最初に降り立った「国生みの島」と伝えられています。古名は「おのころ島」と呼ばれ、現在も島には、おのころ神社が祀られています。また、神話に由来するとされる神立岩が海上から空を貫くように立ち、神秘的な景観を形づくっています。そして海上から沼島を見ると、背後に淡路島の諭鶴羽山地の山陰が連なり、まさに神話の舞台そのものです。
さらに航行を続けると、淡路島南部の東端の生石鼻や、和歌山側の加太岬、その間は地ノ島や友ヶ島が見えてきます。徳島側は吉川でしたが、和歌山側では紀ノ川が流れ出しており、背後には無数の紀伊山地がそびえています。この和歌山沿岸部で注目すべきは海上から見える小さな山です。現在は広大な平地が広がっていますが、ここは古代から長らく海であったため、現在見えている小さな山は、さらに内陸部に入るために重要な島嶼でした。そのため当時の航海者にとって海上から見える和歌山沿岸部の景色は、無数の島々が浮かぶ群島のように映ったことでしょう。
何よりも考えなければならないことは、古代の人々が四国から大和を目指す際、まだ知らない土地に入る前には、まず付近の小さな島に上陸し、周囲の地形や状況を確認したうえで本土に上陸したと考えられます。縄文時代からすでにこれら地域には人が住んでおり、いきなり本土に突入するのは大きな危険を伴ったはずです。そこで一旦目印となり、観察しやすい環境の小島を拠点とし、現在で言う所の外交官や使者を送り込み、在地の人々との間で交渉や儀礼を経て、初めて本土に入るという手順がとられた可能性が高いと考えます。この「小島を経由する」という習慣は、国生み神話の舞台設定そのものに反映されていると見ることもできるため、古代の航海者にとっては必須の教養だったと言えます。
このように徳島から和歌山へ至るこの海路は、単なる交通の道筋ではなく、日本神話の舞台であり、古代の交流と外交の玄関口でした。フェリーの甲板から眺める景色は、古代の人々が命を懸けて渡った海と重なり合い、神話と歴史が現在にまで息づいていることを実感させてくれます。