震災と復興:神戸が教えるものEarthquake and Recovery
今日は神戸に来ています。神戸は、小さい頃に夏休みになると、父親が神戸近郊で行われるビーチバレー大会の主催をしていたり、その時期には花火大会もあったことから、毎年のように訪れていた思い出の地です。それ以降はなかなか訪れる機会もなくなりましたが、パンデミック頃に頻繁に足を運んで夜の潮風を浴びる豊かな時を過ごしていました。
神戸は関西有数の港湾都市として栄えてきましたが、その歴史を大きく変えたのが阪神淡路大震災です。1995年1月17日に発生したこの大震災によって、長年築き上げてきた街の繁栄は一夜にして崩れ去り、1から再建を余儀なくされます。また、島国の日本にとって、防衛の最重要拠点は古代から沿岸部に置かれており、神戸もその例外ではありませんでした。特に現在の大阪北部の摂津と播磨の中間地点に位置し、壮大な六甲山地に挟まれた独特の地形は、既に縄文時代から人が暮らしており、弥生時代に入ると他地域の文化や人・物資が交わる重要な結節点となっていました。大変興味深いのは、出雲地域だけでなく、この界隈でも銅鐸の大量埋納が次々と発見されたことです。個人的には、神戸湾岸はかつての大和政権への海上防衛の要衝であった可能性を示唆していると考えており、この神戸の湾岸を誰が握るかが各地の首長たちにとって非常に重要であったと思われます。
神戸から西に向かうと舞子や明石と言う兵庫県沿岸部に至りますが、ここからは淡路島が近く、瀬戸内海を通じて四国や関西沿岸部を結ぶ要衝でした。実際、日本神話でも日本創生の最初にこの淡路島が設定されています。そのため、この地域には古くから後の海賊に近い集団もかなり存在していたと考えられ、潮の流れに加えて古代の海を行き来する人々にとっては非常に航海の難しいエリアであったと思われます。こうした要所の沿岸防衛を担ってきた歴史的背景もあり、神戸近郊は古代から中国地方・四国・東海から関西に至るまでの文化や人々が交わる場として大きく発展してきました。こうした気風は、戦後に山口組というヤクザ勢力の勃興へとつながり、初の日本統一を成し遂げたことにも顕著に現れています。山口組は、当初はこの地域の湾岸の利権を握る小さな勢力に過ぎませんでしたが、後に3代目組長・田岡一雄の登場によって一気に全国規模へと拡大しました。
一方で神戸は、明治維新以降、西洋文化の玄関口としても独特の発展を遂げてきました。日本の中でも外国人居留地の規模が大きく、居留する人々の暮らしに合わせた決まりが、まちづくりの基本に取り入れられていきました。この影響を受けて、洋食や牛肉の消費など、江戸時代には表向きに禁じられていた食文化が港を通じて広がり、異国情緒漂う都市へと変貌していきました。
しかし阪神淡路大震災以降、状況は大きく一変します。私自身、2011年の東日本大震災以降、何度も三陸の復興へと向かう光景を見てきましたが、その時に改めて思ったのは、本来三陸地域が未来のモデルとして反面教師として学ぶべきだったのは、神戸の復興であったということです。なぜならば、阪神淡路大震災の頃には、まだ日本は完全にバブル経済が崩壊していたわけではなかったため、復興期には多額の補助金が国家より投じられ、一時的に神戸の都市部は表面的な華やかさを取り戻しました。しかし補助金が尽きると次第に街の本質が露わになり、かつての独自性を失い、迷走を続けることになります。
その結果、神戸を歩くと人が多いように見えますが、実はかつての勢いを欠き、若者の人口流出が加速しています。三宮や元町の繁華街には平日でも人通りはかなりありますが、昔と比べると都市としての力は明らかに弱体化しており、観光地としての魅力も伸び悩んでいます。こうした姿を見ると、神戸の未来以上に厳しい状況が予想されるのが三陸や、昨年正月に地震のあった能登半島であることが見えてきます。政府はすでにこれらの地域の救済を事実上放棄し始めており、神戸の事例のように巨額の復興資金が投入されることはもはや期待できません。
これは、国家財政に大問題があることも、当然要因となりますが、すると今後の日本では、地震や津波などの震災から立ち直れる地域と、そうでない地域の分裂が顕著になることが予測されます。つまり後者は見捨てられると言うことです。久しぶりに神戸を見ていても、一見すると人の賑わいはあるものの、どこかうまくいっていない空気が漂っています。それはまさに、1990年代の補助金頼みの復興が生み出した「考えないまま迎えた未来」の姿なのかもしれません。