天王寺の変遷史Transformation History of Tennoji
主に梅田は北大阪や兵庫、京都南部の人々が集う交流拠点として発展し、難波・心斎橋は大阪南部、さらに西部の人々が集まる交流拠点として大きく発展してきました。こうした気風の異なる背景から、大阪では長らく梅田界隈を「キタ」、難波・心斎橋界隈を「ミナミ」と呼ぶ独自の文化を作ってきましたが、私が最も愛着を持っていたのは、さらにこれら都市部から南部に位置する天王寺です。もともと私の生まれが大阪中南部の堺市だったため、街に出る際に最も近いのが天王寺であり、小さい頃から何度も通ってきたこともあって、その変遷をそれなりに見てきたつもりです。
一つ興味深いのは、「キタ」や「ミナミ」が大規模再開発によって、かつての勢い、どこか危ない感じや得体の知れない人々が混然と集まっていた熱気を完全に失い、今や観光客向けの街並みに置き換わり、街を行き交う人々の層もまるで東京のように均質化してしまったことです。言い換えれば全てが表面的にだけ「きれい」になったわけですが、このきれいさが大阪独自の文化やアイデンティティーを一気に喪失させてきた事は否めません。しかし天王寺だけは、かつての面影を今もぎりぎり残しながら持続しており、あと数年で失われる予感がしていることから、街自体が最後の大阪の気風の残渣と言えます。もっとも天王寺もキタやミナミと同様に再開発の対象となり、私が学生時代に見ていた景色からすれば、人も街も大きく一変しました(実はこちらの再開発は大失敗しました)。現在、大阪で最も高いビルとして知られる「あべのハルカス」の場所には、かつて雑多さの残る近鉄百貨店があり、その背後にある「あべのキューズモール」も当時は存在しませんでした。そしてこのキューズモールの完成が、実は大阪独自の文化・アイデンティティ喪失の象徴となったのです。
本来、関西系の電鉄会社である近鉄・南海・阪神・阪急などは強い独自性を誇っており、かつては東京の企業が入り込む余地がほとんどありませんでした。そして電鉄会社はグループ会社として不動産事業も行っていますから、基本的に各々の電鉄が強い地域はそのグループ会社の不動産開発が行われるという暗黙のルールがありました。しかし、このキューズモールは東京の電鉄会社である東急グループの不動産会社の運営です。つまり、ここに大阪が東京に敗北し始めた、言い方を変えれば大阪が東京に同化し始めた兆候を読み取ることができます。そしてこのあべのキューズモール開業が2011年4月26日と、ちょうど前月に東日本大震災が起きた時期だったことも見逃せません。
元々、東西の大都市として歴史的に対抗してきた東京と大阪は、それぞれに固有の基盤を育み、強いアイデンティティのもとで対抗意識を持ちつつ切磋琢磨して発展してきたため、気風も大きく異なる特徴を帯びてきました。一般に大阪の人が社交的だと言われる一因も、こうした歴史的背景にあるでしょう。東京はかつて江戸時代に「町人の街」であったにもかかわらず、近代以降にその精神を忘れ、江戸の外から大量に流入した人々のもとで都市化・官僚化が進む中で、どちらかといえば距離のある気風を帯びるようになりました。典型的なのが明治維新を担った長州や薩摩の出身者が、新たな支配層としての地位を獲得した仕組みに表れています。一方、大阪は江戸時代を通じて「商人の街」として大規模に発展してきたため、近代に入っても社交的な気風を残しやすかった側面があります。
しかし現在ではその独特のアイデンティティも失われ、大阪の最大の特徴であった「雑多でやや危険な匂い」も、約20年近く前から為政者たちが金儲けを目的とする再開発で悉く潰してしまったため、かつて私が肌で知っていた大阪という感覚が失われつつあるのが事実です。そうした中で私は、かつて存在した大阪の遺産を求めて文字通り隅々まで歩き回ってきましたが、東急系が参入して以降、やはり天王寺の風景も一変したと感じます。そうは言っても中々実感が持てないでしょうから、この大きな変容を理解するために、まずは優れた写真家の作品を改めて見直すことから始めるのが先決です。そこを踏まえると、この地域に驚くほどの変化があったことに気づくはずです。
今では都市化しているので実感が持てないでしょうが、天王寺はもともと「天王寺村」と呼ばれ、かつては芸能者など社会的に無所属の漂流民が多く住み着く独自の気風を持つ雑多な地域でした。この気風は戦後になるまで育まれて継承し、やがて日本の第二次世界大戦敗戦を契機に、職を求めて地方から多くの職人・労働者が流入し、一気に芸能の村だった天王寺村は日雇い労働者の街・西成区として変容し始めました。興味深いことにこの無所属のアイデンティティーが戦後にも強く継承されていったのですが、何よりも幸運なことは、この時代に優れた写真家が住みつき、西成区を撮り続けたことです。
中でも最高峰の存在が、私も敬愛する井上青龍(1931-1988)です。井上は実際に天王寺村の流れを汲む西成区釜ヶ崎に住み込み、この街の人々を撮り続けた稀有な写真家で、彼の作品には、当時の雑多で言葉にできない人々のエネルギーが見事に記録されています。大阪のストリート写真は井上青龍から始まったと言っても過言ではなく、現在では世界的に知られるストリート写真家・森山大道も大阪出身であったことから、かつて井上に付き添って西成を撮った記憶を折に触れて語っています。当時は相当危険な場所だったそうですが、今では西成区も日本の高齢化の波を避けられず、一気に衰退しています。
また写真に限らず映像面でも、井上に強く感化された人物が登場します。その筆頭格が異端の映画監督・大島渚(1932-2013)です。これは大島が井上と同世代だったこともあると思いますが、大島は1950年代後半に大手映画会社の松竹からキャリアをスタートしますが、京都大学在学中に学生運動の洗礼を受けた背景から、後に日本映画にインディペンデントの精神を持ち込む先駆者となりました。そこで井上青龍に感化された大島が西成の空気を掴み取った作品が『太陽の墓場』(1960)です。この作品は以外にも松竹から発表されているのですが、井上の系譜を映画映像へと巧みに翻訳して見事に結実させています。
作品発表としては、大島渚の映画が1960年、井上青龍の『人間百景ー釜ヶ崎』が1961年ですが、井上の作品は4年以上も西成に住み込んで撮影し続けて発表したため、こちらの方が先駆的です。
この偉大な二人の写真家・映画作家による作品が社会に突きつけられたことによって、影響力の強さからしばらくこの地域を舞台とする作品で秀逸なものは生まれてこなくなるのですが、時を経た1981年になると、かつて学生運動や成田空港反対運動という農民による闘争などの戦後社会運動を徹底的にスナップしてきた写真家・北井一夫(1944-)が改めてこの地域に目を向け、1979年から二年間住み込みながら人々の日常の風景を撮り続けます。北井の作品で注目すべきは、井上青龍や大島渚が表現した「雑多で危うい」天王寺村/西成区のイメージとは対照的に、「そこに日々暮らしている人たちがいる」という視点を前面に押し出し、地域に付着していたイメージを一変させたことです。これ以降も多くの写真家が西成を撮影しましたが、先代たちがあまりにも素晴らしかったため、中々後続が新たな視点を打ち出せずに停滞し、やがてほとんど注目されることはなくなって今日に至ります。
つまりある意味では、井上青龍・大島渚・北井一夫が天王寺村・西成区のイメージを記録・表現した影響が強いため、現状を見なければ今もそういう気風があると勘違いされてしまうほどです。しかし実際には、もはや彼らの記録した風景も人もほとんどいません。何より、熱気が消えたこと。これこそが大阪文化・アイデンティティ最大の特徴であったことを、もはや為政者は知る由もないのです。