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時空を消して歴史を見る:古墳の謎Erasing Time and Space to See History

大阪府の中南部に位置する私が生まれ育った堺市は、大和川を挟んで北側が大阪市、南側が泉大津・岸和田など旧和泉国との中間点となっています。最初に生まれ育った地域は、古い歴史を持つ鳳大社の付近でしたが、実は現在では鳳大社は堺市に編入されていますが、古くからここは和泉国と呼ばれる別の国でした。その後、私の両親が堺市の新興住宅街に引っ越したことから、古い歴史的な場所から離れましたが、祖母の家が古い堺市の町にあったことから、頻繁にそこを訪れていました。その中でも、今振り返ると特に身近だったと感じるのが古墳です。

現在では世界遺産に登録された堺の古墳群ですが、改めて振り返ると、2021年に文化庁が発表した報告によれば、日本全国に古墳に該当する遺構は159,953もあるとされています。高度経済成長期の全国的な大規模開発によって古墳と気づかれずに破壊されたもの、さらにまだ見つかっていない古墳などを含めると、実際には相当数に上ると考えられます。

また都道府県別の数字を見ていくと、興味深い傾向が見えてきます。古墳が最も多いのは大阪府に隣接する兵庫県の18,707、続いて日本海側で弥生時代に大きく栄えた鳥取県が13,505、次に京都府が13,103となっています。こうした数から見ると、私の住む大阪府は3,428であるため一見すると少なく見えます。しかし大阪の古墳の特徴は巨大な古墳が多いという点です。

一方、隣の奈良県には9,663の古墳があり、奈良はかつて大和と呼ばれたように歴史的に非常に遺産が豊富であることから、何かしら当時の朝廷があった奈良方面に向かう古墳の変遷史があったはずです。この辺も現在調査中ですが、とにかく無数の主張が入り乱れいるため、正直どのルートで大和の古墳に影響与えたのかについてはなかなか理解が難しいのです。

そして古墳の流れを追ううえで重要なのは、瀬戸内側の岡山県であり、ここには11,880が存在しています。元々、現在の岡山市から倉敷市一帯は、海を渡ってきた人々が集まる最大の地域のひとつだったのですが、同時に朝鮮半島側から渡来するメインルートを考えれば、福岡県の10,759という古墳数も注目され、ここを経由して瀬戸内海の広島・岡山を経て、兵庫・大阪・奈良に至る流れが1つのルートとして想定されます。ただし、古墳は大小問わず数多く築かれているため、数が多いからといって必ずしも発展の度合いを示すわけではなく、むしろ地域ごとの古墳に対する価値観の違いが大きく現れていると見るべきでしょう。古墳の規模が大きければ大きいほど、それを築いた集団の結びつきの規模が大きかったということです。

かつて祖母の家を訪れた際には、土地の重要な神社である方違神社に参拝していましたが、その裏には反正天皇陵と呼ばれる古墳があり、さらに奥には大仙陵古墳、すなわち仁徳天皇陵という有名な超巨大古墳が存在します。これらは前方後円墳と呼ばれる特殊な形状を持ちますが、全国的に見ると円墳や方墳など多種多様な形があり、地域ごとに埋葬の文化が大きく異なっていたことが理解できます。実際大阪ように作られている古墳もあれば、山間部に隠れれるように作られる古墳も無数にあります。

中でも、個人的にずっと気になっているのが古墳の「向き」です。しかし、大型古墳で歴代天皇陵として明治時代に国家的に比定された古墳については、現在も宮内庁の規制によって調査が困難な状況が続いており、埋葬者がどの方角を向いて埋葬されたかなどの詳細については、未だ大部分が不明なままです。明治以降、宮内庁の言い分としては、歴代天皇の陵墓を調査するなど、神でもある天皇に対して無礼だと言う天皇主義的な認識に由来するのですが、これはあくまでも表向きの理由であって、裏事情は全く異なります。今回はここについて触れませんが、要するに調査されてしまうと、大陸との交流を示す無数の遺物が発見される事は自明なため、これまでの語りの枠組みに関わる問題が起きることを避けているのです。

一方で葬送については、埋葬者を埋める際に、西や東なら歴史的な死生観として理解しやすいのですが、堺の古墳を見ていると北北東などを向く古墳も多く、その理由は謎に包まれたままです。1つ参考になるのは、古い埋葬形式を残していたと思われるアイヌの墓制です。『アイヌの墓』という優れた調査書によれば、多くの墓は夏至から冬至にかけての太陽の昇る、あるいは沈む範囲に収まっていることが示されています。しかし、大和川以南に無数にある大型古墳の多くは、この方位に当てはまらないものが多数あります。そして一定の方向性が地域の信仰の系譜として現れているように思えても、隣には逆方向を向く古墳も多く、そもそも古墳の向きが何を意味するのか明確な答えを出すのは困難です。

また、この問題に古代日本人の死生観だけを持ち出して考えることも危険です。なぜならば、当時の大阪平野の地形、そして地域ごとに異なる信仰やルーツに深く関連していた可能性があるからです。例えば、自分たちの来し方となった故郷の方角を示すために向きを定めたとも考えられる古墳もありますし、そもそも古代に私たちが想像する意味での死生観がなかった可能性さえ前提しなければなりません。さらに現在の大阪平野は完全に平地化されて大都市圏となっているため、古代の地形状況を想像しながら歴史を考察するのが非常に難しいのが現状です。

特に古代大阪平野を考える際に厄介な問題となるのが、大和川です。現在の大和川は、奈良から大阪の柏原市を通過し、堺と大阪市の間を沿って大阪湾に流れ込む西方向のルートをとっていますが、実はこれは江戸時代に付け替えられた新しい経路です。大和川は古くから氾濫を繰り返す暴れ川として知られ、大規模な洪水や水害によって人々を苦しめてきました。そうした背景から、1704年に江戸幕府は2月から10月までの約8ヶ月間で大和川の大規模改修工事を行い、それまで北西方向に流れて大阪城付近で淀川に合流していた経路を断ち切り、西向きに流路を変更しました。

この結果、たった8ヶ月で大和川は淀川から独立し、直接大阪湾に注ぐようになったのです。つまり、現在の堺市から柏原市にかけての大和川の姿は、わずか300年程度の歴史しか持たないことになり、古墳が建造された時代とは状況が全く異なります。

ここを踏まえて注目すべきは、世界遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群が、いずれも大和川の南側付近に集中している点です。すなわち古墳が築造された当時、現在の大和川は存在していなかったことになりますが、一方で、古墳の立地環境を鑑みると、古くから古代の人々は、大阪平野のどこの部分に古墳を作れば良いかと言うことを熟知していた可能性が見えてきます。実際大和川北部側には目立った古墳が見当たりません。これは一体なぜなのか?

江戸時代の高度な技術によって付け替えが行われた大和川の位置を考えても、この南側一体に限定的に建造された巨大古墳の数々が、明らかに地形状況などを総合的に理解した上で建造されていることがわかります。

実際、大仙陵古墳をはじめとする巨大古墳には、堀の中に水路が張り巡らされた構造が多数見られ、その内部は3重構造になっていることが判明しています。一体、この水はどこから流れてきたのか?このことについては今なお大きな謎として残されていますが、時空を消滅させた位置から改めて歴史を見ることによって、これまで見落とされていたことが見えてくるのかもしれません。