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大阪の文化の入れ替わりOsaka's Cultural Replacement

大阪市内の大開発は長い時間をかけて行われてきましたが、今回はその中でも「梅北(うめきた)エリア」と呼ばれる地域開発について見ていきます。もともと歴史をたどると、現在の梅田あたりが繁栄していた痕跡はほとんどなく、大阪市内は天満宮のある天満橋、さらにはもう少し南の中之島や難波方面に商人たちが多く住み、経済活動を行い繁栄を遂げていました。梅田はその中では、漢字表記からも分かるように、何もない田んぼが広がっていたのどかな地域でしたが、徐々に戦後の開発によって今のようなビルが立ち並ぶ姿へと変容していきます。当時から大阪の人々は「南」といえば難波・心斎橋方面、「北」といえば梅田あたりを意味する言葉を使っていましたが、オーバーツーリズム時代が始まると、この南と北の大開発が進み、それ以前に存在した大阪の文化的景観が一気に消滅していきました。実際、私は長らく大阪を見てきていますが、もうかつて見た風景や人々の気配は消えており、観光客の流れに合わせた街並みへと変容してしまいました。

正直、近隣に京都や奈良などの歴史都市があり、そして東側には東京という大都市を抱えて、西の最大拠点として発展してきた大阪の歴史を考えると、大阪の文化という本質的な部分を失うことは本来あってはならなかったはずです。しかし残念なことに、ここへの認識を持つ指導者たちがいなかったことから、この20年で大阪の文化は一気に失われてしまいました。

そしてもう一つ、大阪の都市課題として長らく挙げられてきたのが「緑の少なさ」です。実際、47都道府県で見ると森林の占有面積が最も低いのが大阪です。これは歴史的に、大阪の誕生が、もともと現在の大阪城南側の大部分を除けば大半が海だったこと、そして歴史的に見ても大阪に朝廷や幕府に相当するものが恒久的には存在しなかったことが考えられます。例えば、京都、鎌倉、東京などは幕府が生まれ、強い指導者のもとで都市開発が行われました。代表的な例でいえば、徳川家康が江戸という世界最大の街に発展させた都市計画は優れたものでした。一方、大阪には豊臣秀吉の時代を除き、その後、徳川家との戦いに敗れたことで指導者を失った歴史があります。

しかしこれは否定的な面だけでなく、むしろ大阪の人々がもともと持っていた自主的な気質を引き出すこととなり、実際、大阪は長い歴史において強い指導者を必要とせず、市民自らが繁栄を築いてきたという、日本では唯一の都市だといえます。京都には朝廷があり、江戸には幕府がありましたが、大阪はそういったものを必要とせず、商人たち自らの手によって繁栄を成し遂げた点で特別な存在でしょう。実際、戦国時代まで大阪の南側にある平野区や堺市などは完全な自治都市として全国唯一の強さを誇っており、それが中之島方面の発展にもつながり、証券取引所や商家が立ち並び、彼らの娯楽の場として劇場などが無数に作られていきました。

大阪の歴史の発展において見逃せないのは、1920年代の関東大震災によって東京の都市機能が麻痺したときに、「阪神モダニズム」と呼ばれる新たな文化が生まれ、ここで南北ともに大規模な発展が進んだことです。こうした歴史的な基盤も、すでに失われています。

さらに近年、この緑の少なさをなんとかしようとする動きが高まり、その一環として「うめきた開発」と呼ばれる大規模な事業が行われてきました。実際、うめきた開発には「グリーン」という名が示すように、大阪市内の緑地計画の一つとして進められてきた側面があります。しかし、ここには大きな問題が存在します。開発時に判明したのは、南側に大規模な歴史的墓地が存在していたという事実です。大量の人骨や副葬品が発見されましたが、あまりにも多かったため、結局ほとんど調査されないまま埋め戻され、その上にマンションを建てる計画が始まりました。墓地の範囲がどこまで広がっていたかは定かではなく、ろくな調査も行われませんでしたが、おそらくうめきたエリアの大部分は江戸時代や明治期、あるいはそれ以前から大規模な墓地として使われていたと考えられます。

実際、「梅田」という地名の語源は「埋め田」であり、埋め立てられた田や湿地、あるいは墓地だった可能性が高いのです。これが、かつて梅田が都市機能を持たず、田畑が広がっていた理由の一つです。江戸時代の人々は、ここが墓地だったという考えから、開発することはありえないと見なしていました。しかし、すでに大阪の文化を失い、本来不要であるはずの指導者が誤った判断を下したことによって、この開発は進められ、結果的に無理やり公園を作る羽目になりました。本来であれば緑地計画を行うのであれば、そもそもビルなど必要なく、大規模な公園を整備するべきですが、もはや日本はコンクリート依存から抜け出せない体制となっており、「何が何でもビルを建てる」という前提が都市計画を縛っています。

こうしてオーバーツーリズムの中で文化を失った大阪の人々、本来なら自主性の強いはずの大阪人の文化が失われたことによって登場した感覚の乏しい指導者たち、そして日本全体が抱えるコンクリート依存。このすべての要素が重なり、墓地の上に築かれているのがうめきたエリアです。このため、こうした歴史を知る人々はうめきたエリアには近づきません。京都でも同じように、日本の観念では墓地の上に人が住むことは忌避され、何かしらの災厄をもたらすと歴史的に信じられてきました。したがって、うめきたエリアに集う人々や、そこに建つマンションに住む人々は、こうした歴史を知る機会がないまま、何が起きても備えようのない状況にあると言えるでしょう。

このように現在のうめきた開発の姿を見るだけでも、大阪が完全に未来を失っていることは明らかです。実際、他の大阪の観光地である市場などを歩いても、土地の人々の姿は薄れ、観光客向けの店頭の風景が一般的になっています。これが大阪の文化なのか、私には見えてきません。こうして歴史や文化への理解が及ばないまま計画が進み、大阪の文化は次々と潰され、その結果、土地に住む人々でさえ何もする気がなくなってしまったのが現状です。これが、西日本最大の都市であった大阪の衰退を招いた原因です。

人口や各種のデータを比較しても、かつて東京に次ぐ都市として繁栄し、東京への強い対抗心を持っていた大阪の気質は完全に消え、今では東京都市圏(神奈川、埼玉など)の発展に負けるほど衰退しています。その影響は西日本全体に及び、特に神戸に顕著です。1995年の阪神淡路大震災で壊滅した神戸は、「復興」という名目で大規模な発展を遂げ、大阪経済圏の一員としてこれまで繁栄してきましたが、この10年で状況が変わり、若年層の流出が止まらなくなっています。京都も同様で、住民の入れ替わり(リプレイスメント)が始まり、観光客の増加と同時に地元の人々が去っていくという、世界的主要観光都市に共通する現象が進行しています。もはや急速に進展するオーバーツーリズムは、経済効果よりも、土地の文化が削られていく仕組みとなっていることは言うまでもありません。