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縄文人はどこから来たのかWhere Did the Jomon People Come From?

最近は、9月から始まる調査旅の詳細なスケジュールや、事前に調べておくべき事項に集中的に取り組んでいます。中でも、私がこれまで7年間追い続けてきた最大の関心事は、縄文人が日本列島においてどのような動きを行ったことで、多元的な文化の土壌が築かれ、最終的に現代日本人へと至ったのかという点です。この点を明らかにするためには、古くから言われてきたように、縄文人と呼ばれることになる祖先集団が大陸から北方および南方の両ルートを経由して、古代日本列島へ入った過程を探る必要があります。

しかし、この想定に基づく調査は何十年も様々な分野で続けられてきたものの、いまだ明確な結論が得られていない大きな謎となっています。要するに、大体この二つの経路で日本列島に人が住み始めたことは自明と見られているのですが、この流れ自体がどのように起きたかが未だ不明なのです。確かに、当時の地形や海水面の低下などの要因から、北方ルートではサハリンから北海道北端の稚内方面に直接到達すること、あるいはわずかな航海で到達可能であったことは事実と考えられます。とはいえ、そうだとすればサハリン界隈と北海道北部で文化的な関連性があって良いはずです。しかし、その痕跡が未だほとんど見つかっていません。

縄文時代を特徴づけるのは土器の様式などの考古学的遺物と長年考えられてきましたが、この観点ではサハリンと北海道北部地域で性質が大きく異なっており、どう考えても連続的な縄文文化のつながりが見出せないことが挙げられます。一方で、もう一つの可能性として注目されるのが、千島列島経由の島伝いルートです。これはシベリア方面から船で複数の島々を少しずつ渡り、最終的に北海道の知床や根室方面へ到達するルートですが、面白いことにこちら側には古くから縄文文化の共通性が指摘されています。

ただし、この地域は第二次世界大戦以降は日露間の北方領土問題が横たわっており、時代ごとに日本側・ロシア側それぞれが調査を行うなど、外交的な制約から一貫した調査が困難となっており、その解明には至りません。そのため、このルートの全貌が明らかになるにはまだ相当の時間がかかると見られ、双方の国交回復などが急務となっています。

さらに北方系ルートの縄文人を調査するときに問題を複雑にしているのが、アイヌをどう位置づけるかという点です。「アイヌ」という言葉は、人々を指す場合と文化を指す場合があり、そこが区別されないまま語られる場面が多いと感じます。一般的にはアイヌを先住民とみなしますが、これは北海道という一部地域の話であり、しかも重要ですが『アイヌ=縄文』と単純に結べるものではありません。1960年代の『アイヌの墓 考古学からみたアイヌ文化史』という優れた著作の中でも、明治頃に人々の区分として『アイヌ』という言葉が使用されるようになったが、後に文化としての『アイヌ』が使用されるようになり、両者が区別されないまま重なって用いられているという指摘がなされています。これは根本的な問題で、言葉の使い方を丁寧にほどくところから、北海道の歴史は見えてきます。

また、アイヌと本土側との接触は江戸時代頃から大規模に始まったことが知られていますが、それ以前の歴史を辿ると別の可能性が浮かび上がります。そもそもアイヌという呼称が一般化したのは明治維新以降であり、それ以前の日本側の資料には存在していません。アイヌとは彼ら自身の言葉をルーツとする名称であり、日本側にとって一般的ではなかったからです。そのため、文献上では720年成立の日本書紀が初見となり、最初に登場するのは斉明天皇5年(659年頃)の「蝦夷(えみし)」です。この記述を読むときには、音の観点が欠かせません。『蝦夷』は初期的には「えみし」と読まれていましたが、なぜか12世紀ごろには同じ漢字を用いながら読み方だけが変わる現象が起きています。

そしてこの読み方が変わる12世紀頃、実は北海道側で異変が起きていました。この時、それまで先住だった縄文系末裔の部族集団の土地であった北海道に、大陸側オホーツク海沿岸地域を中心に生活してきたオホーツク人という全く異なる文化圏を持つ集団が、サハリンから北海道北部の沿岸部に渡来してきたのです。当時の日本は、武家政権が本格的に高まる鎌倉時代を迎えていましたが、同じ時代、全く記録に残らない北海道の辺境で、異なる部族集団が渡来してきたことにより、北海道縄文人の末裔たちの運命は大きく変動します。

つまり、アイヌ文化は、鎌倉時代にかけて北方からの移住者であるオホーツクの人々と縄文の流れをくむ人々が交わる中で形づくられた、日本史では比較的新しい歴史の層を持っており、縄文そのものと重なりつつも、同じものではありません。実際、近年急速に行われる遺伝子調査などでも、アイヌの人々に縄文由来の要素が強いことは間違いないのですが、それだけではないことが多角的に判明しており、大陸側の北方の人々が持つ特殊な遺伝子の要素も見つかっていて、この要素は縄文の人々には見られないことも判明しています。つまり、12世紀頃に『蝦夷』の音が変わったのは、何かしら鎌倉を拠点にしていた源氏などの勢力も、この北海道の変化を察知したからだと推定しているのが現在です。実際、源氏台頭の礎を担った源義経(1159-1189)は、従来の歴史では兄・頼朝と敵対して現・岩手県で死去したと言われていますが、私も長年彼に興味を持って調査していると、どうも複数の伝説は彼が北海道まで逃れたことを示唆しています。

時代はちょうど、北海道縄文人がオホーツク人の到来によって変動が起きていた頃。事実、義経は北海道中南部側のアイヌにカムイ(アイヌ語で神)と讃えられています。

私は常に日本語を「音の言葉」として捉え、古代日本の調査にあたっては音の変化に特に注意を払っています。今回の大規模な調査でも、この点についての見通しを立てたいと考えています。

北方ルートから入ってきたとされる縄文人の大規模な移動は、どのように行われたのか。なぜサハリンと北海道の縄文文化には関連性が見られないのか。そしてそれは人類史における東方への移動の一環なのか、それとも私たちがまだ知らない別の方向への動きだったのか。謎多き日本史を解明するために、北方・南方ルートの調査は必要不可欠です。