三方五湖と鳥浜貝塚:縄文人の湖Jomon People of Mikata Five Lakes
今日は福井県の三方五湖にいます。三方五湖とは、日本海の若狭湾に面して形成された三方湖、水月湖、菅湖、日向湖、久々子湖の5つの湖沼群のことで、周囲を緩やかな丘陵や山地に囲まれ、若狭湾国定公園を代表する静穏で美しい景観を呈するとともに、2005年にはラムサール条約湿地に登録された自然環境としても知られています。その特徴は、五湖それぞれに水深や塩分濃度が異なり、湖水は淡水から汽水・海水まで変化に富むことから、生息する魚類や水生生物の種類も湖ごとに異なり、多様で貴重な生態系を育んでいることです。
中でも淡水環境の三方湖では縦に長い独特の舟を使い、冬になると古くから伝わる伝統漁法の「たたき網漁」が行われることで知られており、この三方湖だけは淡水であるため、鰻の名産地として知られています。そのため、駅から湖までの集落を歩くと、今日も酷暑であったことから人は外に誰もいませんが、鰻屋が軒を連ねている光景を目にします。しかし、私が最も惹きつけられるのは、この地域が持つ特異な『歴史の指標』という性格です。中でも注目は、縄文時代の最重要遺跡とも言える鳥浜貝塚に象徴される古代日本史です。
鳥浜貝塚は、三方五湖の一つである三方湖に注ぐ「鰣川(はすかわ)」と高瀬川の合流点付近の標高0m前後の低地に位置する湿地性の遺跡です。縄文時代草創期から前期(約1万3000年前~約5500年前)にわたる大規模な低湿地性貝塚であることから、縄文時代の全貌を知る上で欠かせない貴重な遺跡として注目されてきました 。1962年の発見以来、四半世紀にわたる発掘調査が行われ、従来の縄文人像を覆す数々の画期的な発見がもたらされたことに特徴があります。
遺跡が低湿地環境で長期保存された影響により、通常なら腐朽して残らないはずの木材や草・種子などの有機質遺物が極めて良好に保存されていた点が日本でも随一で、その出土点数は実に25万点以上にのぼります。これまで発見が困難だった縄文時代の有機質遺物の存在が豊富に鳥浜貝塚によって示されたことで、私たちは縄文時代の生業や環境、文化を総合的に復元することができたのです。
鳥浜貝塚を含めて、縄文時代を通じた気候変動の影響により、温暖化・寒冷化に応じて集落が移動していることから、厳密には鳥浜貝塚に限らず地域性として見るべきかもしれませんが、三方湖南部地域において、縄文時代の丸木舟が多数発見されたことで従来の歴史観が一変しました。鳥浜貝塚からは2艘、付近のユリ遺跡からは9艘の計11艘のスギ製丸木舟が発見されており、それらは単一の時代の遺物ではなく、約6300-2700年前と製作年代に幅が見られることから、鳥浜貝塚ーユリ遺跡は湖に出立する港のような役割を持っていた可能性が見えてきます。
ただし現在とは違って、縄文時代には三方湖はさらに南東部まで広がっており、現在は跡形もないのですがこれを総称して考古学では『古三方湖』と呼びます。この古三方湖の入り江に近接していたのが鳥浜貝塚ーユリ遺跡の縄文部族ということです(同時に彼らは気候変動で動いた同族系ともいえます)。また発見された丸木舟の実物を見ると、現在の三方湖の漁に使用する縦に長い特徴的な漁船と全く同じであり、あたかも縄文時代から連なる古法が継承されているように思えます。
そして実は縄文時代後期に入るほど、この丸木舟の構造が湖での漁に特化した形体に変化する傾向も判明しており、何と縄文時代前期頃から既にこの場所の縄文人は湖の漁に飽きると、三方湖→水月湖→菅湖→久々子湖を抜けて若狭湾の海洋まで出て遠洋漁業を行なっていたことも明らかとなってきました。実際、彼らの食生活は非常に豊かで、貝塚からはマグロ、イルカ、クジラなども盛んに食べられていたことが分かっています。これは従来の沖にまで出るような技術はなかったと見る動きを転覆し、かつ縄文人が既に沖でマグロなどの捕獲が難しい魚まで平然と獲っていたことが見えてきます。日本人のマグロ好きは、縄文時代から始まっていたのです。
またこの場所の縄文人が持つ航海技術は、漁に限らず各地との情報交通の役割も担っており、例えば縄文人が愛した黒曜石の流通は、基本的には主要産地であった諏訪周辺ですが、同時に東北日本海側の山形、さらには隠岐島などから入っており、サヌカイトは主要採掘地であった大阪の二上山、輝石安山岩は能登半島から流れていたことが分かっています。実際、日本地図を概観しても、若狭は縄文時代に発展していた日本海側の東西の交差点とも言える役割を果たしており、さらに三方湖の奥地まで入ると、さらに南下したところには広大な琵琶湖が広がっているため、日本列島に渡来した人々がどのように後の政治中枢地であったヤマト(奈良県南部)にまで動いたかという後代の姿までを私は想起することができました。
そしてこれは単に私の空想ではなく、三方五湖から電車で30分ほど東に向かった敦賀にも様々な伝承が残っています。たまたまホテルを敦賀で取っていたので出向くと、敦賀駅を出て一番最初に目にする銅像が、海の向こうの加羅国(古代の朝鮮半島)の王子・ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)であったことに驚きました。そもそも敦賀の地名の由来自体、このツヌガアラシトが関係しており、彼が現・敦賀に渡来した際に『ツヌガ(角鹿)』と呼ばれたことに始まると伝わります。実際、この地域は海を渡ってきた人々の伝承が多く残っており、重要なヤマトへ向かう玄関口となっていた可能性があります。これも若狭を眺める電車旅をしていると分かりますが、この地域は非常に水田稲作が盛んで、一面に青々しい稲が広がる光景を今日も随所で目にしました。
実際、三方五湖周辺で大規模な稲作が開始された歴史は12世紀頃で、貴族・寺社が領地を拡大する荘園開発の影響を強く受けたことに始まります。その影響は甚大で、鎌倉時代に激化した三方五湖周辺の荘園開発によって、特に三方湖周辺での水田稲作の割合が全体の農業の72.8%にも及んだことが分かっています。一方で水月湖周辺には水田稲作に適した平野がないことから今もほとんど見ることはできません。
そして重要なことは、一見すると渡来人の存在から、どうしても東の果てというイメージが強い日本が最終到達地だと思われがちですが、実はこの固定概念をこの場所の縄文人は転覆させているのです。その歴史を覆す重要な発見となったのが、鳥浜貝塚から発見された『ある芸術』でした。
この点は既に今日見てきたのですが、明日にでもお伝えしていきます。
しかし、外には誰もいません。集落を歩いてみましたが、広大な畑と家屋が立ち並んでいるものの、道端で一人も会うことがなく、無人化した世界に自動運転車だけが往来しているようです。この地域は20世紀的な日本を強く残していますが、どこか人口密度が極めて低かった縄文時代にタイムスリップしたかのような不思議な感覚に陥る今回の調査旅です。
今日は雲一つない夏空の下をずっと外を歩き続けてたため、何もない湖周辺で屋根を探して休息しようにも見つからず、場所柄、縄文時代の集落を一部復元していたので、縄文人の竪穴住居の中で日差しを回避して身体を休めるということもできました。まさか、酷暑を竪穴住居で避けることになるとは私自身も思いもしませんでしたが、分厚い茅葺き屋根が一面を覆い、木に支えられた縄文時代の竪穴住居の中は、光が入らずに薄暗く、外よりもずいぶん涼しく感じられます。かつて縄文人たちも気候変動を生き延びるために、室内で快適に過ごす知恵を今の私たち同様に考えを巡らせていたのかもしれません。太陽の日差しによるダメージを防ぐために、分厚い茅葺きを重ねたか否かは分かりませんが、この技術は彼らが生み出した後に日本全国に広がり、日本の村落の原風景となっていきました。
外には誰も歩いていないため、まるで縄文時代の集落を独り占めしているような状況でしたが、竪穴住居に入って非現実的な時間を過ごしていると、一体日本屈指のサバイバーであった縄文人は、私たち以上に過酷だった気候変動や自然災害をどのように生き抜き、乗り越えたのだろうかと若狭の風を浴びながら考える内省の時間にもなりました。