戊辰戦争と奥羽越列藩同盟:会津の運命Origins of Japan's Skewed Power Balance
1868年に薩摩藩・長州藩・土佐藩を中枢とする新政府軍が明治維新に勝利すると、新政府の樹立時代に新政府軍はさらに戦乱を拡大していきます。その最大の戦いとなったのは戊辰戦争です。戊辰戦争は旧幕府軍と新政府軍の内戦として位置付けられますが、徐々に大きな戦争へと発展していき、近代以降の日本の未来を大きく決定づけ、今日まで深い影響を及ぼす内戦となりました。今回はこの戊辰戦争の概観について見ていきながら、重要な奥羽越列藩同盟について見ていきます。
1867年11月に京都の二条城で江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇に行いますが、この直前の10月に朝廷への裏工作を活発化させていた薩摩藩・長州藩は武力による倒幕を志向するようになり、天皇からの勅令を出させて自らの軍事クーデターを正当化する準備を行います。
天皇の権威を象徴的に利用した軍勢は幕府軍に対するクーデターを開始、1868年1月に鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、東へ向けて進軍する新政府軍の状況を鑑みた徳川慶喜は、本拠だった江戸城の無条件明け渡しを行います。これにより江戸幕府は崩壊し、約260年続いた江戸時代は終焉します。しかし、その後も軍事力に酔いしれた新政府軍は攻勢を止めず、東の江戸を陥落させると、さらに東の東北方面へと進撃を開始します。この背後には、幕府軍の中枢勢力に主に東北の会津藩や庄内藩が関与していたからです。新政府軍は江戸を陥落させた後、続いて会津藩と庄内藩を最大の敵とみなして、これらを一掃すべく進軍を続けました。
軍事力によって日本を転覆しようとする新政府の動きに危機感を抱いた会津藩は、東北に戦乱が及ぶ危険を避けるために降伏の表明を行いますが、新政府軍はここで会津藩主・松平容保の引き渡し、会津城の明け渡し、さらに会津藩の全面的な領地没収といった非現実的な降伏条件を突きつけます。これは当然受け入れられないものでしたが、この新政府軍の傲慢な姿勢を目の当たりにした会津藩士たちは、新政府軍に対する徹底抗戦を決意します。ここには当時の事情として、そもそも新政府が薩摩藩・長州藩・土佐藩の下級武士を中心に構成ことが関与しています。会津藩は江戸時代を通じて名門の藩であったことから、こうした下級武士が近代兵器を活用した武力に頼って権力を掌握することを快く思わなかったのも事実です。しかし、結果的にこの新政府軍の横暴と会津藩の決断が、東北諸藩に緊張が走る契機となります。
1868年5月に入ると、会津藩の決意に感銘を受け、新政府の横暴に抵抗心を抱いていた仙台藩が盟主となり、東北・越後の有力な25藩が宮城藩の南の要所だった白石城に集まり同盟を結び、会津藩と庄内藩の赦免を新政府ではなく朝廷側に直訴します。しかし朝廷は既に新政府軍に逆らうことができなかったため、これは実際には黙殺されます。これが契機となり、東北・越後など全31藩が結束することになり、新政府軍への抵抗を表明します。ここで成立したのが奥羽越列藩同盟です。この同盟は当初は会津藩討伐の命令を撤回させるための防衛的な連携に過ぎませんでしたが、徐々に新政府に対抗して諸藩の独立性を主張する政治的な傾向を強めていきます。
これによって明治維新期の幕府軍と新政府軍の争いを終えた直後に、日本は大きく二分化したのです。しかし問題は、列藩同盟は非常に広大でそれぞれ文化圏が大きく異なっていたことや、歴史的な遺恨なども深く根ざしていたことから、内部では諸藩の目的は一致しておらず、新政府軍の躍進が表面化すると即座に寝返る藩が存在するなど、全く足並みが揃っていませんでした。この結果、同盟の結束はかなり早期に揺らぎ、新政府軍の圧倒的有利な状況を作ったのです。
では、ここでなぜ会津藩が重要なのかという視点について見ておきます。会津藩は地理で見ると東北の玄関口にあたる場所に位置しており、江戸時代を通じて全国的にも広大な藩として、徳川幕府の譜代大名の中でも中枢的な存在として君臨してきました。会津藩の藩祖である保科正之は第二代将軍・徳川秀忠の四男で、三代将軍・家光の異母弟にあたり、家光の死後には四代将軍の後見役として幕府の大老を務めるなど、江戸の将軍家と血縁関係を持つ政治的にも非常に重要な重鎮的存在でした。このような背景があったことから、会津藩は江戸時代を通じて幕政に対する強い発言力を持ち、他藩と比較してもかなり広大な領地を治める大藩として軍事力・学問力など高く評価されていました。そして会津藩には、元々徳川の将軍家との関わりが深い由来があったことから、徳川家(江戸幕府)への忠誠が他藩と比較しても徹底されており、いかなる状況でも主君である将軍家への忠義を尽くすことを信条としてきました。
この松平家に徹底されていた一つの信条が、結果的に新政府軍との対立が避けられない状況を生み出します。実際、幕末期の藩主・松平容保もこの松平家に継承される信条を固く守っており、28歳にして幕府の命令で京都守護職という京都の治安維持を担う要職に就任していました。これは当時の京都は京都は不穏で治安が悪く、薩摩や長州を含めた倒幕思想を持つ浪人たちが隠れて潜伏して横暴を繰り返していたこと、さらにこの勢力に反動的な組織もそれなりにいたことから、毎日のように暴力・殺しが横行していたからです。この重要な職責を受けた松平容保は、1862年末ごろに会津藩から1000人余りの藩士を率いて京都に入っています。この京都における幕末期の遺恨が、後の新政府軍として勝利することになる新政府軍の人々が、会津藩を最大の敵とみなす根拠となっていきます。
結果的に新政府軍は会津の徹底的討伐を掲げて戦争を一方的に開始し、大総督府下の参謀であった世良修蔵が各地で独善的な強硬策を取ったことで諸藩は次々と動揺し、どんどん戦線が拡大していきます。新政府軍は兵力を増強して北上を続け、越後方面での北越戦争で旧幕府軍を撃破すると、白河城(現・福島県白河市)の攻防でも勝利し、続いて二本松城(現・福島県二本松市)を攻略して会津を取り囲むように迫ります。この挟み撃ちによって、会津藩領での戦いである会津戦争が勃発しました。しかし会津若松城は非常に堅牢な城として有名であり、城内には約5000人の兵力を有していたことから、近代兵器を有する新政府軍も撃破することに手こずり、結果的に1か月にも及ぶ激しい攻防戦となります。
ここで新政府軍は最新の銃や大砲を駆使して城を包囲攻撃し、1868年9月14日には大量の総攻撃を加えるなど猛攻を浴びせ、同時期に共に戦っていた米沢藩を筆頭とする諸藩の降伏が相次いだことから、籠城する会津藩の人々は物資が尽き、悲惨な状況となったことから降伏します。これが9月22日です。こうして戊辰戦争における会津戦争は終結し、旧幕府側の抵抗勢力は鎮圧されたのです。この時、会津藩の戦死者は約2400名にのぼり、一般市民も含めると数千名規模の犠牲者を生む悲惨な事態となりました。
しかしそれでも新政府は容赦しません。降伏した会津藩に対して、さらに厳しい処分を下し、完全な破壊を試みています。藩主・松平容保は切腹を免れたものの長期的な謹慎を命じられた上に領地はすべて没収、さらに会津藩は一旦取り潰され、藩士たち全員が新政府の厳重な監視下に置かれる処置となります。
この状況が会津藩を根底から破壊したのですが、今度は1869年12月に入ると明治政府は会津松平家当主の家名存続を特別に許して会津藩士たちの反乱感情を抑制します。ただしこれは政府側の狡猾な思惑があり、同時に新政府は開拓を目論んでいた僻地の青森県・下北半島に新領地を与える条件を提示しています。これは優遇措置ではなく、反乱可能性のある勢力を辺境に追いやり、開拓民として徹底的に酷使することで骨抜きにする政策です。この結果、会津藩士のほとんどが故郷の会津を強制的に追われて下北半島を中心とする僻地へ移住することになったのです。
しかも青森県東部北端の下北半島は、西部北端の肥沃な盆地を有する津軽半島とは違い、歴史的に農耕には非常に不向きな土地であり、かつ冬の寒さも非常に厳しく、開拓は困難を極めます。これは事実上、新政府に敵視された会津藩の人々に対する過酷な死刑宣告です。これにより移住した旧会津藩士は家族を含めて約17,000人に達したと言われており、その多くが飢えと寒さに苦しんだ挙句、さらにそもそも農業経験のない武士を中心とした開拓は完全な失敗に終わります。
実際、私自身、何度も下北半島を訪れていますが、今もこの当時の名残が強く残っています。下北半島は部分的に街ができていますが、大半は作物の育たない荒地であり、これが事実上の流刑であったことは一目瞭然です。
そして明治政府はその後も旧会津藩を中心に戊辰戦争で敵対した勢力に対して、執拗な圧力を加えていきます。特に重要な視点は、その後1877年に明治維新で一時的に妥協として同盟した長州藩と薩摩藩の士族が対立し、大規模な内戦を勃発したことです。これにより、勝利したのは長州側で薩摩側も政府における影響力が衰退し、長州系勢力の時代が幕を開けたことです。ここに日本列島の本州東北部側と、西部山口側(旧・長州)のパワーバランスが東京(旧・江戸)において生まれてしまい、実は今もこの明治時代の歪なパワーバランスが多方面に影響を与えているのです。