浅野和三郎と日本の心霊科学Turning Point of Japanese Spiritualism
江戸時代後半の国学の変様が、平田篤胤によって大きく変換されていき、そこから複数の経路との合流を経て大規模なスピリチュアルムーブメントに達した姿を知ることは、同時に神道がいかにしてスピリチュアリティを獲得したかという根源的な問いに深く関わります。元々神道にスピリチュアリティがあったことは言うまでもないですが、体系的に樹立したのは近代以降の話です。
明治に入り、国家神道や神社神道が国家経由で体系化される動きに反発するように、主に各地の辺鄙な山間部の村落を中心に様々な新興宗教が勃興しますが、やがて出口なおー出口王仁三郎の登場によって近代宗教は新たなステージに入ります。しかし、この大本教の動きは従来の宗教とは異なり、出口なおの神憑りや神託を基盤にしながらも、同時に知識人や海軍を中心とする軍人の大規模な流入が起きたことから、政府、のちに実権を握る陸軍の警戒を招くことになり、結果的に二度に渡る大弾圧が行われます。これは大本教が国家の推進する天皇崇拝の神話と異なる視座を提唱していたことが主因です。
その最初の弾圧が起きた大正時代の1921年以降、教団存続に執着したことで王仁三郎の体制迎合姿勢が顕著となったことから、大本教隆盛のブレインであった浅野和三郎が離脱します。しかし興味深いことに浅野は大本教を離脱後、やがて日本のスピリチュアリズムの開祖と言われるほどになり、独自の研究を科学的に推し進めていったのです。一方で大本教は王仁三郎の体制迎合姿勢に由来する親族で周囲を固める保守的な傾向に陥ってしまい、以後そこまでの力を持つことはありませんでした。
1921年の事件を契機に大本教を離れた浅野は、そこから心霊現象の科学的探究へと大きく舵を切ります 。二年後の1923年には東京本郷で『心霊科学研究会』を創設し、日本初の心霊専門誌である『心霊研究』を創刊して大きな注目を浴びます 。浅野は元々英語教師でしたから語学には長けていたため、当時すでに欧米のスピリチュアリズム思想にも深く通じていました。そこで自ら西洋の心霊研究を紹介・翻訳する傍ら、独自の実験も行ったのです。その成果、浅野は『霊魂は実在し、死後の世界との交信は科学的に証明し得る』との確信に至ります。この浅野による試みは、日本における近代的な心霊研究運動の幕開けとなったのです。これは以後、政治活動に傾倒した王仁三郎とは大きく異なります。
しかし、創設直後に第二次世界大戦前の日本を決定づける重要な出来事が起こります。それが1923年9月1日に起きた関東大震災です。この関東大震災は日本における最重要のターニングポイントで、大正時代の大きな性格である反動的な思想などが淘汰される契機となり、軍部の発言力が徐々に高まる時代を迎えていきます。
関東大震災の破壊的な影響により、雑誌『心霊研究』は創刊からわずか3号で中断を余儀なくされます。そこで震災後に浅野は方針を切り替えて大阪や横浜などで講演会や実験会を開きつつ、心霊研究の普及に努める方針へと向かいます。機関誌は『心霊界』、続いて『心霊と人生』と改題しながら刊行を再開しており、霊的現象の紹介や検証記事を発表し続けたのです。
この浅野の新たな動きは、大本教の開祖である出口なおー出口王仁三郎の宗教的要素から脱却し、宗教色を排した『心霊科学』というアプローチの先達となったことから、浅野の存在がいかに近代日本に影響を与えたかがわかります。この宗教家であり知識人である浅野の新たな提唱は、日本人の知的探究心を刺激し、超常現象を客観的に研究する姿勢が社会に新鮮な驚きを与えたのです。元々浅野は多くの人々から敬意を持たれていた人格者でしたから、浅野の動きは常に注目されていたのです。
同時に、浅野の心霊研究は日本に限らず、国際的な広がりも見せました。1928年にはロンドンで開催された『国際スピリチュアリスト連盟(ISF)』の第3回大会に福来友吉博士と共に日本代表として参加しており、ここで福来による透視・念写研究の発表が行われています 。福来は東京帝大教授(現・東京大学)で超常現象研究を先導していた人物であり、浅野が共にこの国際会議に臨んだことは、日本の心霊研究を世界に発信し、海外の研究者たちとの交流を深める契機となりました。
この新たな風を先導する浅野は、翌1929年に入ると東京に『東京心霊科学協会』を発足し、戦前日本の『心霊主義運動』の拠点を築きます 。以後は欧米の心霊研究における文献の翻訳や霊能者による心霊実験、自らや身近な霊媒を通じた霊界通信の記録、講演や著述による一般への啓蒙など活動は多方面に及びました 。そして浅野は「Spiritualism」を『神霊主義(心霊主義)』と訳して広めた先駆者です。ここから日本は1930年代の陸軍主導の戦時体制へと突入していくことから、この活動の発展には強い規制がかかりますが、彼が当時蒔いた種は、やがて戦後の心霊研究復興へと受け継がれていったのです。この流れを押さえておくことが重要です。日本のスピリチュアルムーブメントは、栄枯盛衰を繰り返しながら未だ途絶えていないため、今後起きるであろう同様の動きがこの流れに根ざしているからです。
こうした側面から、浅野和三郎が日本社会に与えた影響は計り知れません。浅野は第二次世界大戦直前の1937年に没しましたが、その後戦中の活動中断を経て、1946年には浅野の影響下にあった有志が『日本心霊科学協会』を設立して浅野の思想を復興する動きが起きています。つまり軍部の圧力が崩壊した戦後になって、浅野の門下生たちが協会の中心となり、心霊研究の系譜を絶やすことなく守り続けたのです。事実、浅野は著作活動にもかなり力を入れていたことから、浅野の著作や訳書は後進の研究家の重要材料として読み継がれ、戦後のスピリチュアリズム普及に大きな役割を果たしました。私も彼が残した著作からは大きな影響を受けています。
では出口王仁三郎と袂を分ちながらも、事実上は王仁三郎の正統な後継者と言える浅野和三郎の考えていた『神霊主義(Spiritualism)』とはどのようなものだったのでしょうか?次回はそこについてみていきます。