なぜ奈良盆地南部で『大和』は始まったのかWhy Yamato Began in Southern Nara Basin
卑弥呼が即位した背景に潜む湖の存在
天皇の正統性において最も重要となる『三種の神器』。しかし、元々は現在のように『八咫鏡』『草薙剣』『八尺瓊勾玉』から構成される三つではなかった可能性が、歴史的に古代氏族にルーツを持つ末裔によって示されてきました。前回は古代氏族で天皇の重要な神事を担った忌部氏が、同じ神事を担う古代氏族の中臣氏にルーツを持つ藤原氏の台頭により、宮中での力が弱体化し、最終的に歴史の舞台から姿を消したことに触れました。
そこで忌部氏の末裔である斎部広成は、事実上藤原氏の時代となる平安時代初期頃に、藤原氏の台頭を抑止したい第51代・平城天皇(在位: 806-809)の意向を受けて、80歳を超えて自らの出自に関わる古い伝承を取りまとめて献上します。それが『古語拾遺』(807)です。古語拾遺では、元々天皇の正統性は三種の神器ではなく、八尺瓊勾玉を除いた二つの神器より構成されており、八尺瓊勾玉は他部族(あるいは他氏族)の服属の証明として後に献上された可能性を伝えています。
そして今回お伝えするのは、忌部氏よりも古い古代氏族の末裔が記した書物です。そこには三種の神器が成立する以前から異なる存在が大和の実権を握り、そこで別の神器を継承していた異系の正統性を主張しています。この文書を残したのが古代日本史の最重要氏族である物部氏ですが、彼らの動きを知るためには、あまり考えられていない視点から全体像を見極める必要が先決です。
物部氏は日本神話に登場するウマシマヂ(宇摩志麻治命)を氏族の開祖に立てる有力な古代氏族の代表格です。特に仏教伝来以前の古代日本史において最重要の役割を担った神道の宗主的存在であり、同時に武力を司る氏族でした。推定で538-552年頃に百済(現在の韓国南西部)の聖明王が渡来し、当時大和(奈良県南部)に存在した朝廷に中国を経由した仏像・経典・僧侶などを献上したことから動乱の歴史が始まりますが、これ以前の歴史を通じて圧倒的な実権を握っていたのが物部氏です。
しかし、物部氏は仏教伝来という大きな出来事以降、大和の中でも中国・朝鮮系の帰化人が多く移住していたと考えられる飛鳥地方で、急速に移民を束ねて勢力を拡大した新興氏族の蘇我氏によって、あっという間に弱体化して歴史の舞台から姿を消します。蘇我氏自体も外来ルーツという視方が日本でも強くなってきた昨今ですが、当時の大和南部(奈良盆地南部)一帯は移民の混淆地域のような状態であり、中国・朝鮮からの帰化人に限らず、主に西日本や東海など日本各地からの移民も多く、互いに勢力を争っていたと私は考えています。この複雑な源流に位置するのが古墳時代です。
いわば、当時の大和は複合部族状態だったということですが、この大和の起源は現在の奈良盆地全域ではなく、かなり限定された一部の地域だったという観点が必須です。この大きな理由の一つは、特に水田稲作にとって、最も理想的な環境が大和の盆地南部に形成されていたからです。そして物部氏はウマシマヂのルーツをニギハヤヒ(饒速日命)という神に立てており、こちらが後に大和南部の橿原で神武天皇として即位するカムヤマト(神倭伊波礼比古命)が大和に進軍する以前の正統な神だと主張していました。
この重要なニギハヤヒは古事記・日本書紀でも登場はしますが、古事記は物部氏の祖神と示唆するだけで詳細を語らず、日本書紀はそれなりに記述していますが全体像は不明です。そこで朝廷での実権を失って以降、物部氏の残党は正統性を主張するために、氏族の古い伝承を取りまとめた書物を突如発表します。それが『先代旧事本紀』です。こちらは推定で10世紀前半頃の成立だとされており、制作者なども不明であったことから、長らく真偽の対象として議論されてきました。近年はやっと本文は正統だと学術的にも見られるようになり、少しだけ研究が進捗していますが、まだ古事記・日本書紀と比較すると全く追いついていません。
先代旧事本紀によれば、ニギハヤヒは『十種神宝』という十種類の神器と多数の家臣を従えて河内国(大阪の生駒山地付近)に到来し、さらに大和へ移住して統治していたと伝えています。この辺りはかなりややこしいので今後少しずつ伝えていきますが、ここで古代日本史において、なぜ『大和』の中でも特に南部で朝廷が始まったかについて見ていきます。この理解がニギハヤヒの動きと関わり、直接的に古事記・日本書紀の神話を理解する導入口となります。
あまり注目されていないのですが、そもそもなぜ奈良盆地の南部側で『大和朝廷』が樹立されたかのでしょうか?実際、現在では710年に平城京が樹立されて以降、今日も多くの歴史的な痕跡が残る盆地北部(奈良市近郊)の方が有名です。私自身は何度も奈良盆地全域を巡り続けてきたのですが、この点が非常に疑問でした。特に奈良盆地中部一帯は歴史の空洞とも言える状態であり、歴史的に僅かな事例を除けば政治の中枢地になっていません。視方を変えると、古代大和に居住した集団は奈良盆地の南部、大阪との県境に連なる山地の麓(特に北部と南部)、そして後に盆地北部(奈良市近郊)へと次々と移って政治の中枢地を打ち立てたと言えます。
この疑問に対して重要なことは、なぜ古代の人々は奈良盆地の南側に集中したのか?という問いです。盆地は広大ですから北部でも中部でも構わないにも関わらず、なぜか古代大和は南側から歴史が始まっています。この謎を解き明かす鍵は、実は現在では想像できない湖の存在にあります。元々数十万年前から現在の奈良盆地・大阪平野・京都盆地は海・湖でしたが、歳月をかけて海面が下がるにつれて、盆地・平野が形成されていった歴史を持ちます。
この太古の名残が、古代大和盆地中央部から北部辺り一帯にかけて、広大な湖として残っていたのです。そしてこの湖は縄文時代の時点では確実に存在したと考えられており、さらに759年頃に成立した万葉集にも湖を示唆する歌が残っていることから、かなり新しい時代までこの湖が規模を縮小しながらも存在した可能性があります。
この湖は『大和湖』と呼ばれます。しかし、これまでほとんど研究されずに放置されてきた空白の領域です。この全貌を詳細に明らかにした先駆者は、奈良盆地について実証的なフィールドワークを生涯続けた研究者の千田正美です。彼は1978年にその成果をまとめて、これまで全く考えられていなかった新たな視点を与えますが、大学の教授ではなかったことから学術的に無視されて放置されていました(こういうことは日本でも頻繁に起きます)。
そのため、以降50年近くこの重要な可能性はまともに考察されてこなかったのですが、近年は関西大学の一部で千田正美の考察が参照されるようになってきており、再び注目を集めています。千田によると、元々広大だった大和湖は断層による陥没ができて大阪平野に水が排水され、2500年以前には水面の標高が50m近辺まで低下した可能性があると述べています。この断層は大阪平野と奈良盆地の接合部と言える生駒山地と金剛山地に挟まれた大和川沿いにある「亀の瀬」と呼ばれる地域にありますが、ここは昔から地滑りが多発する地域として知られています。
この亀の瀬近郊で縄文時代ー弥生時代にかけて大規模な地滑りが発生したことで、大和湖は大阪平野に流れ出し、徐々に水位を下げながら湿地帯を周囲に形成したと考えられます。実際に私も奈良盆地の縄文ー弥生ー古墳時代における集落の変遷を何度も調査していますが、千田の考えと一致します。そして注目点は、この観点では少なくとも古墳時代頃の奈良盆地北部・中部は一部を除いて湖・湿地状態にあり、古墳時代の人々が大和で生業とする水田稲作に適していなかったということです。ここが古代日本史を読み解く一つの鍵です。同じ理由で古墳人は京都盆地(現在の京都市)に入植しませんでした。
このため、水田稲作に適した大和南部には各地から次々と人々が入植し、それまで雑穀など畑作を生業としていた人々が拓いていた土地をめぐって、田の適地という条件のもとで競り合いが激しくなっていきます。その過程で、もとから暮らしていた人々の一部は故郷を離れて各地に散っていったことも、個人的な調査で既に明らかとなっています。
つまり、この過程で狭い地域に由来の異なる人々の集団が入り乱れ、統治権を求めて争いが相次いだのが弥生時代後期です。これが天皇の起源と直接的に関わりますが、重要なのは、この争いを動かしたものが出自の違いではなく、田の適地が限られた盆地南部という場の条件と、そこに集まる力の構造だったことです。
この奈良盆地南部の当時の混乱状況について、文書で記した最古の記録が中国側の魏書の一部『魏志倭人伝』です。そして、この混乱状態を一時的に調停するために女王として即位したのが卑弥呼だということです。私はこの観点から、卑弥呼は、この争いの外側から迎えられ、土地に根差した祭祀を担った古代の巫女だと考えています。そしてもう一つ、後代まで有力な集団が大和湖の跡地に政治中枢地を移動させなかった点を知る上で必要となることがあります。それが湿地は『気』が悪いという古代から現在に至るまで日本人に根付いている観念です。これは風水とも関わる古代中国側の知恵であり、この影響などを含めて大和の始まりには深く古代中国側の思想が関係しています。
簡略的に全体像の理解を進めてきましたが、ここを基礎に物部氏について次回は見ていきます。次回に向けて一つの鍵は、物部氏は蘇我氏に敗れて滅亡したわけではないという視点です。