『涼』の文化哲学と芹沢銈介の型染Ryo Cultural Philosophy
梅雨が終わり本格的に夏が始まった日本。しかし日本の夏は年々温暖化の影響もあってかなり厳しくなっており、自由に外を歩くことさえままなりません。気候がどうなるかは誰にも分かりませんが、今こそ歴史的な日本の文化を個々人に合ったライフスタイルに取り入れる試行錯誤が重要だと考えます。この文化の試行錯誤こそが、今後さらに厳しくなることが予想される夏を快適に乗り越えるための重要なファクターとして位置付けられていくでしょう。
この厳しい夏のサバイバルにおいて、今回私が新たに提示したいのは『涼』の文化哲学です。簡潔に言えば、『涼しさ』を取り入れたライフスタイルの実践ですが、これは現在日本で日常的に目にする小さな扇風機を顔に当てたり、冷たい水を飲んだりすることではありません。文化的な側面から「涼しさ」という哲学的観点を踏まえて、人それぞれ異なるライフスタイルに最も適した要素を可能な限り取り入れていき、厳しい夏であっても豊かに暮らすことができることが目的です。
最近、私は民藝を調査する過程で一つの素晴らしい扇子を手に入れました。その扇子は観光地などで売っている大量生産品の質の低いものではなく、文化史を継承する職人が一から全て手作りで行っている良質な扇子です。ここで一般的には扇子は大量生産品であっても、職人の生産品であっても、風を受けることに関しては同じではないかと考えられますが、それが全く異なることを今回の扇子で実感しました。そこに深く関係するのが日本文化史の知恵の結晶と位置付けたい『涼』の哲学です。では一体、この『涼』の文化哲学とは何なのか?日本文化を装う表面的な偽物が市場に氾濫する現在だからこそ、この点の洞察は重要だと考えます。
まず、『涼』を冠する言葉は古くから多くあります。以下に主な言葉を列挙しておきます。
・涼風: 涼しく感じられる風。夏や初秋に心地よい風のこと。
・荒涼: ひどく荒れてさびしいさま。人けもなく冷たく感じられる風景。
・秋涼: 秋になって感じる涼しさ。秋の爽やかな気候。
・清涼: 清らかで涼しげなこと。水や空気が澄み、心地よく冷たいさま。
・爽涼: さわやかで涼しいこと。風や空気がすがすがしく冷たい感じ。
・納涼: 夏の暑さを避けて涼を楽しむこと。風鈴や夕涼みなどの風習に関わる語。
・爆涼: 現代の造語的用法。猛烈に涼しい、突発的に涼を感じる様。広告などで使われることがある。
・涼蔭: 涼しさを感じる木陰や日陰。夏の避暑場所として好まれる。
・涼気: 涼しい気配や空気のこと。風や空気から感じる涼しさ。
・涼秋: 涼しさを伴った秋。秋の気候が心地よいこと。
・涼亭: 涼をとるために設けられた東屋や休憩所。庭園などにある建築。
・涼味: 涼しさの味わい。夏に感じる涼の趣、または涼感のある食べ物にも使う。
・冷涼: ひんやりと冷たいこと。寒すぎず、適度に冷たく感じられる気候や空気。
これ以外にもたくさんありますが、『涼』という言葉が様々な文脈で使用されていることに気付くはずです。私は『涼』とは、単に気温や体温を下げるという意味に限らず、むしろ扇子であれば表現されている色・デザイン、そして使用する染色・木材など多岐に渡る文化の観点から、歴史を踏まえた日本人の文化哲学が継承されていることによって体感する哲学概念だと考えます。『涼』を感じる色、『涼』を表現したデザインとも言えますが、今回の扇子で感じた興味深い発見は、本物の扇子は『香』が深く表現されていることです。
つまり扇子とは、ただ日本文化の象徴として手に持って仰ぐものではなく、美術、香り、実用など総合的な日本文化の結晶だと言えます。これにより、厳しい夏であっても『涼』を感じることができ、かつ『香』によって安らぎをもたらすのです。現在のストレス社会において、この日本文化の観点は相当重要であるように感じます。そしてこの文化哲学が今日まで僅かな職人に継承された背景には、一人の重要人物の存在があります。それが芹沢銈介です。
何度か民藝について軽く触れてきましたが、芹沢銈介(1895–1984)は日本を代表する染色家であり、柳宗悦の先導した民藝運動の中心的人物として活躍した人物です。私自身も何度か芹沢の作品を見たことがありますが、彼の作品はただ美しいのではなく、民藝思想が深く関与する高尚な文化産物だと感じます。中でも注目すべきは、芹沢が特に『型染(型紙と防染糊を用いる染色技法)』に独自の美を見出し、その技法を通じて日本文化の本質を追求した点です。この功績がなければ、私が手に入れた扇子は今日では途絶えた文化だったかもしれません。
芹沢は型染という伝統技法の中に日本文化の深い美の本質を感じ取り、それを見事に昇華した先駆者です。その思想的背景には、彼の人生を変えた二つの出会いが知られています。まず一つ目は芹沢が32歳(1927年)の頃、船旅の途中で読んだ柳宗悦の論文『工藝の道』です。芹沢は柳の考え方に深い感銘を受け、自身の工芸が進むべき道が明瞭に見えたと語っています 。そして二つ目は、翌1928年に東京で開催された博覧会の会場で、沖縄の伝統染織である『紅型』に初めて出会ったことです。そこで芹沢は「その模様、その色、その材料、こんな美しい楽しい染物以上の染物があるかと、夢のような思い」になるほど心を奪われ、自らの理想とする染めの姿を紅型に見出したのです 。この紅型との出会いは芹沢にとって型染という技法が単なる染色技術を超えて、日本の風土と伝統が育んだ美の本質を体現するものであると確信する契機となりました。
そこで芹沢は以後、型染を自身の表現の核と定め、生涯に渡って取り組みます。この型染は元来、図案描き・型彫り・染めの工程を分業で行うことが一般的でしたが、芹沢は全てを一貫して一人で手がける画期的な挑戦を行います 。これは作品の細部に至るまで統一した美意識を行き渡らせる試みであり、伝統技法に対する深い敬意と、自身の創意によって新たな文化を開拓しようとする強い意志の表れでした。現在は世界的にも分業化された産業化社会に対する反発から、一貫して制作から販売までを行う方式が広まっていますが、ある意味、芹沢はこの先駆的存在に位置付けられます。
特に日本文化は江戸時代頃に分業方式が高度に形成されていたため、明治期に入った産業化の流れにスムーズに移行することができ、加速的に工場の分業方式が全領域において広まっていました。これに反動する形で芹沢は分業を破棄して、一貫して自らの手で制作する道を開きます。これは単なる質の問題以上に、私は『想い』が制作者から購入者まで行き渡る文化循環だと重視しています。私が日本文化を見る、そこに携わる人々の話を聞く時に最も重視しているのは、この文化循環の有無です。
こうして、芹沢が確立した作風は伝統的な「型染」に留まらず、後に「型絵染」と称されるまでになり、独自の文化を創出するに至りました。型絵染という呼称は、1956年に芹沢が型絵染の人間国宝に認定された際、新たに考案されたものです 。当時の芹沢に対する評価は、「日本の型染の特質をとらえ、その伝統に基づいて絵画的な文様を確立した」とされますが、そうではなく日本の文化本質を見事に昇華したということです。
芹沢は柳宗悦の民藝論に感化されていたため、徹底的に日本人の生活に根差した季節感や自然観を作品に込めています。つまり芹沢の型染は単なる伝統文化の継承ではなく、「生活と芸術が溶け合う」日本文化の真の姿だということです。そのため、芹沢の作品は着物・帯・暖簾・屏風といった伝統的な染織品のみならず、テーブルクロスやカーテン、書籍の装幀、カレンダー、うちわ、マッチラベル、カレンダーに至るまで日常生活のあらゆる品々に及んでいます 。それら生活の実用品にこそ真の美が宿るという民藝の信念こそ、芹沢が型染を通じて追求した日本文化の本質だったのです。ここに日本人の文化リミックス能力が存分に発揮されています。
そして芹沢が素晴らしかったのは、同時に後継者の育成に力を入れたことです。彼の工房には戦後を通じて多くの弟子が集い、型染の技と精神を学ぶ重要な文化の交流点となります。そして型染の魅力を日本に普及するために、芹沢は自宅敷地内に「芹沢染紙研究所」(1955)を設立します。敗戦から10年後に設立された研究所の想いは、戦後間もない当時の物資不足が深刻な日本の姿を見て、芹沢が手仕事による美しい日用品を世に送り出すことによって、苦境の中にあっても人々の暮らしを彩りたいと願ったからです。この研究所の理念は「暮らしに溶け込む」です。私はこの彼の想いに深く感銘を受けています。ここには侘び寂びの文化精神を発見することもできるでしょう。
私が手に入れた扇子は、この芹沢染紙研究所で芹沢銈介に弟子入りした職人の作品です。この扇子を使うと他の扇子を使えなくなるほどですが、それは単に良質な扇子だからではなく、芹沢の日本文化に対する哲学が一貫して後継者に継承され、「暮らしに溶け込む」ことが本質次元で捉えられているからです。つまり文化循環が時空を超えて私に伝わっているということです。
型染は華々しい高貴な友禅染と常に比較され、歴史的に民衆の文化であったことから評価に結び付かず、むしろ卑下されてきました。しかし、柳宗悦の民藝論を経由し、芹沢銈介という類稀な職人の手によって、型染の再考と評価が劇的に高まりました。18世紀頃にピークに達したと言われる型染の文化力は、衰退した友禅染とは異なり、大量生産品が氾濫する現代にあっても途絶えることなく継承されています。
ぜひ、日本に限らず厳しい夏を乗り越えるために、読者も自分のライフスタイルに合った扇子を探す日本の夏を送ってください!