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日本式アナキズムの本質Essence of Japanese-Style Anarchism

個人的に好きな思想の一つにアナキズムがあります。ただし、アナキズムとは言っても社会運動や政府を解体する類のイデオロギー的な側面ではなく、本質的な意味でのアナキズムです。ここは日本で『無政府主義』と翻訳されて根付いてしまったことから、歴史的に日本人のアナキズムの考察は酷くて参照できません。そこでこの哲学的観点について、日本に影響を与えたアナキズムの歴史を見ながら、真のアナキストとは何なのかについて思考を深めていきます。

日本では、明治後期から大正期にかけてアナキズムの思想が西欧から導入され、主に大正時代に大きく発展する社会主義運動の一潮流として受容された歴史があります。明治期の初期的な社会主義運動は、マルクス主義、そして英国や米国の社会改良主義だけでなく、ロシアやフランス発のアナキズム思想や国家社会主義など、多様な思想を同時に取り込みながら始まっているため、西洋の文脈とは大きく異なります。これは日本における歴史的な仏教、儒教の受容が事実上のリミックスのような形で行われ、即座に新たな思想、信仰、教義などを日本化するという日本人の特徴でもあります。

中でも当時の思想家や活動家に絶大な影響を与えたのが、ロシアの革命思想家ピョートル・クロポトキンです。クロポトキンの影響が、日本の急進的知識人にダイレクト・アクション志向をもたらし、明治以降の近代史を大きく変様させていきます。例えば明治の社会主義者であり、後の社会運動の主軸を担った幸徳秋水(1871-1911)は、クロポトキンと書簡を通じて交流しながら知見を深めています。これは彼がアナキズムの直接行動論へと傾斜していった時期の書簡であることから、海外のアナキズム思想との直接的な接触が日本人思想家に与えた刺激を物語っています。幸徳はクロポトキンの著書の翻訳にも取り組み、西洋思想の紹介を通じて日本にアナキズムの理念を伝える先駆的な役割を果たしました 。このように、西洋由来のアナキズム思想は明治末までに急速に知識人層へと浸透し、大正時代の自由民権運動や社会主義運動の文脈で受け入れられていったのです。

当初、社会主義結社・平民社の活動家だった幸徳秋水は、議会主義的な社会改良を目指していましたが、1904-1905年の日露戦争後に非戦論を提唱して投獄された際に、クロポトキンの著作に触れて強烈な影響を受けたことから、アナキズムへと思想を転換します。出獄後の1906年には渡米して米国の労働運動に接し、その影響から帰国後は議会制に頼らない直接行動論を唱えるようになります。当時、幸徳と同胞は『平民新聞』などを発行して急進的な思想を日本に広めましたが、この行動が政府の警戒を招き、第二次世界大戦へと繋がる重要な事件に至ります。

それが『大逆事件』です。明治晩期の1910年に、明治天皇の暗殺を企てた疑惑で幸徳秋水らアナキスト・社会主義者が一斉検挙される事件が起こります。政府は天皇暗殺を国家に対する『大逆』と捉え、社会主義者・アナキストが「天皇暗殺陰謀」を企てたとして、幸徳秋水ら12名に死刑判決を下し、市ヶ谷刑務所で全員を即時処刑します 。しかし、実はこれは政府によるでっち上げであり、彼らはそのような計画を企てていないことが後に判明しています。さらに、この裁判は非公開で行われ、証拠や手続きの正当性は捏造・支離滅裂です。この事件の実態は、当時の政府が国家体制への脅威の排除として位置づけて、大々的にアナキズム弾圧を正当化するための事件であったと今ではようやく認められました。事実、この時に処刑された和歌山県新宮市生まれの医師・大石誠之助(1867-1911)は、事件から100年以上を経た2018年に冤罪が認められて名誉市民に認定されています。以前、彼の生家跡を訪れて祈りを捧げたことがあるのですが、大石もかなり興味深い人物なので、今後機会があれば記事にしようと思います。

大逆事件が事実上の政府による思想弾圧であったという側面は、遺恨を残しながら昭和初期の軍部の暴走にまで繋がっていくのですが、この事件の衝撃は大きく、明治期に活動していた社会主義・無政府主義運動は壊滅的打撃を受けます。政府は事件後に社会主義的な結社や出版物を禁止し、特別高等警察を強化配備して思想の取締りを徹底したことで、当時の知識人は沈黙を貫き、徐々に日本に不穏な雰囲気が流れ始める重要な転換点となりました。国家ぐるみの近代日本史上最大の冤罪事件と呼ばれる大逆事件が与えた影響は、続く市民社会の力が強まる大正時代に入って大きく進展していきます。

ここで新たに登場したのが、私が敬愛する思想家の大杉栄(1885-1923)です。大杉は幸徳とは長年の盟友でしたが、事件当時は別の事件で投獄中だったことから処刑を免れています。大杉は大逆事件の本質を見抜いていたため、亡き友人の意志を継承して大正期のアナキズム復興を担う先鋒に自ら名乗りをあげます。大正時代に入ると、第一次世界大戦後の「大正デモクラシー」と呼ばれる新たな時代の中で、一時は沈静化していた労働運動や農民運動が活発化し、途絶えたに見えたアナキズム思想が再び頭角を現していきます。

1885年生まれの大杉は、10代で軍隊教育を受けるも脱走し、東京で幸徳らの平民社に加わって社会主義運動に身を投じた筋金入りの活動家です。当時の幸徳がロシア社会革命党に共鳴して直接行動論へ転じると、大杉もこれを支持して行動を共にします 。大逆事件で師匠と仰いでいた幸徳を失った後も、大杉は投獄と釈放を繰り返しつつ、革命家としての活動を継続し、やがて重要な思想の原動力となっていきます。

大正時代の1910年代後半から1920年代初頭にかけて、日本アナキズム運動の代表的思想家として頭角を現した大杉は、1913年にサンディカリズムの研究会を創立し、1914年には平民新聞を復刊するなど組織づくりにも尽力しました 。思想面では、「個人の解放があらゆる社会的解放の基礎である」と徹底的に主張し、権威や権力への反逆と個人の自由を重んじる論陣を張りました 。この点がなぜか未だに日本でも誤解されているのですが、大杉の思想は別に政府の解体を標榜する思想ではなく、個人の解放をアナキズムの文脈から理解している点は見逃せません。というのも、ここに深く関係しているのは実は西洋由来のアナキズムではなく、儒教だからです。

従来の視方では、幸徳が儒学的な正義感を根底に置いていたのに対し、大杉はフランス流の徹底した個人主義に立脚していたなどと指摘されますが、当時の知識人は大杉に限らず、誰もが西洋の様々な思想・哲学・学問に影響を受けていた時代です。実際に大杉が目指していたのは、生命の躍動や個人の尊厳を重視する独自のアナキズムなのですが、なぜか日本では大杉を『無政府主義者』と未だに語る不可思議な点があります。

なぜ日本では大杉を政府の解体を要求するイデオロギー的なアナキストに紐づけるのかについて私には理解できませんが、おそらく西洋由来のアナキズムが日本の歴史的思想に支えられながら、複雑に混淆して成熟した底部を知識人が理解できなかったからだと考えています。なぜならば、確かにアナキズム自体は西洋から明治以降に流入したものですが、それ以前の江戸時代の時点で、日本式アナキズムと呼べる本源の思想が存在したからです。ここの理解がなければ、なぜ大杉がアナキズムを社会運動、国家運動ではなく、徹底的に個人の問題だと捉えたのかについて理解できません。

その日本式アナキズムの理解に欠かせない概念。それが江戸時代の儒者たちの重要な哲学である『自反』です。次回はこの点について探究しながら、大杉栄の思想的意義と大正時代について見ていくことにします。