『安政の大地震』と明治維新の起点Ansei Earthquake and Meiji Restoration
昨日の記事を踏まえて、もう少し詳細に踏み込んでみようと思います。以前書いたように、日本は世界有数の地震大国であり、大小様々な地震が頻繁に起きる国です。日本には地震を発生する活断層が2000以上もあると言われており、海に囲まれた島国であることから津波も起き、さらに火山も無数存在することから噴火のリスクと隣り合わせです。こうした環境で長年生存してきた日本人は、他国の人々とは自然災害に対する視方が大きく異なります。
さらに、巨大地震には一定の周期があることが既に判明しています。以前も書いたように、東京周辺で起きるマグニチュード7程度の『首都圏直下地震』は、今後30年以内の発生確率は70%、東海ー関西を中心に西日本に大きな影響を及ぼすマグニチュード8-9クラスの南海トラフ巨大地震は、今年1月に試算が見直されて30年以内の発生確率は80%に引き上げられています。それ以外にも全国各地で地震は起きています。
まず日本では地震に限らず、津波・噴火などを単なる自然災害と考える以上に、自然が時代に対して発するメッセージとして捉える精神性があります。これは自然信仰と呼ばれる日本人の精神に由来するとは思いますが、自然が発する声を聞いているということです。歴史的にも巨大地震は時代ごとに異なるメッセージを発しており、さらに長期的にはその後の社会変動とも関連しています。その社会変動が良い未来と悪い未来のどちらに転ぶかは時代によって変わりますが、今後のために直近の巨大地震を参照し、未来を読み解いていきましょう。
まず最初は、1855年11月11日に南関東直下型の大地震である『安政の大地震』が起きて、江戸(現・東京)に甚大な影響を及ぼした出来事です。実はこの前年の1854年にも、南海トラフ巨大地震である『安政東海地震』(M8.4)と『安政南海地震』(M8.4)がわずか32時間の間に立て続けに発生し、東海から四国にかけて広範囲に被害をもたらしています。当時は特に津波によって和歌山など沿岸部の地域が壊滅しています。これは事実上、南海トラフ巨大地震と首都圏直下地震が立て続けに起きた稀な事例ですが、この地震をトリガーとして『反幕府』という大きな社会変動が激化して新時代を迎えます。
この点において個人的に最も重視しているのは、安政の大地震によって水戸藩(現・茨城)の藤田東湖(1806-1855)が死んだことです。今では考えられませんが、当時の水戸藩は各地の新たな社会運動の精神的支柱として絶大な崇敬を受ける地域でした。このルーツには、水戸藩が江戸幕府を樹立した徳川家康によって、幕府を守り将軍を補佐する藩として認められた三つの藩の一つであることが要因です(水戸家)。その伝統的自負に由来する強い気風を持っていた水戸藩の侍たちは、幕府を支える重要な責任に加えて、神道や皇室の研究を最も積極的に行なった背景から天皇崇拝を強める特異な地域でした。こちらの精神は水戸家の当主であり第2代・水戸藩主の徳川光圀(1628-1701)によって開始された『大日本史』という歴史書にルーツを持ちます。大日本史は光圀の死後も水戸藩の事業として200数十年に渡って続けられ、最終的には明治時代に入って完成した大事業です。
ただしこの大日本史の編纂が、主に儒教の学者たちによって行われた点も考慮しなければなりません。つまり江戸時代に由来する朱子学の忠誠概念がここに介入しており、後に天皇への絶対忠誠へと変換されます。光圀は「彰考館」という儒学奨励の学校を立ち上げて、大日本史の編纂を通じて天皇史を深く理解させることで、後に『水戸学』と呼ばれる独自の学問の基礎を形成した中心人物です。この水戸学は後に精神となって水戸藩の侍に代々継承されていったのですが、徐々に激動の幕末に近付くにつれて、次の時代を求めて水戸学の精神に教えを請う全国の若者が集まる最重要拠点となります。明治維新の源泉にあるのは水戸学です。
その水戸藩の中で、次世代を担う若者を束ねて深い影響を及ぼしたのが藤田幽谷(1774-1836)です。当時は鎖国時代であったため、西洋諸国の船が日本の近海に現れては市場の開放を迫る動きが続いていたのですが、それに激憤した幽谷は『攘夷』という概念を主張します。これは外敵を日本から撃ち払う思想です。そこに水戸学を経由した天皇崇拝である『尊皇』という思想が合流し、後に『尊皇攘夷』という思想に変様して明治維新の原動力を形成します。
この二つの思想の合流地点に立ったのが、幽谷の子・藤田東湖です。水戸学の精神は幽谷の没後、事実上は東湖によって支えられ、彼と共に戦う会沢正志斎(1782-1863)などの優れた侍を通じて全国的に有名になります。後に長州藩の精神的支柱となる吉田松陰(1830-1859)は、若い頃に会沢正志斎の思想に感銘を受けて、直接学びを請うために水戸藩の藩校で修学しています。さらに後に薩摩藩の指導者となる西郷隆盛(1828-1877)も、藤田東湖から絶大な影響を受けていました。このように、水戸学の精神を通じて長州藩と薩摩藩が『尊皇攘夷』をスローガンに明治維新を行なったことは見逃せません。
ただ残念ながら、明治維新の激動を目前に藤田東湖は地震によって死去してしまいます。これを機に、人格者として知られていた西郷隆盛は東湖の意志を継ぐ決意を固めるのですが、一方の吉田松陰は長州藩に戻って自らが主導する『松下村塾』を隠れ蓑として、地元の下級武士を中心とする若者たちにイデオロギー教育と武道教育を徹底させます。そこでは、目的のためには邪魔者を殺害せよという過激な教育を行ったことから、現在では事実上のテロリスト養成機関と見る批判的な向きもあります。松蔭自体は過激思想が問題視され、結果的に明治維新前の1859年に死罪となりますが、松蔭の過激イデオロギーに影響された長州の下級武士たちが、やがて明治維新の立役者となっていきます。ただ彼らは水戸学の精神を正統に継承する人々ではなく、あくまでも吉田松陰を通じた恣意的解釈の影響を受けたため、ここで『尊皇攘夷』は表向きのスローガンとして形骸化し、結果的には下級武士が上級武士を打倒するだけの軍事クーデターになってしまいました。
この水戸学の精神を表面的にしか解さない長州勢に対して、強烈に反発したのが西郷隆盛に率いられた薩摩勢です。薩摩の人々は「藤田東湖ー西郷隆盛」からの意志を直接継承していたことから、単なるヘゲモニーの移行を求めておらず、真に日本の未来を考え続けていました。このため薩摩藩と長州藩はかなり険悪だったのですが、土佐藩の脱藩者である坂本龍馬(1836-1867)の仲介によって同盟が締結され、一時的に明治維新に限って協働することで折り合います。ですが明治維新以後、新政府の長州系役人は人格者として崇敬される西郷隆盛が邪魔になります。というのも、西郷は東湖由来の思想を基盤に据える人物であり、長州系役人とは日本の未来に対する考えが全く異なったからです。
特に長州系役人は『尊皇攘夷』を掲げて明治維新を起こしたにも関わらず、急に攘夷を手放して西洋の制度を範とする方向へと転換し、尊皇も憲法によって天皇を讃える政策を整えただけで中身はありませんでした。事実、長州系役人の山縣有朋は、近代日本を朱子学に由来する官僚主義体制に転用する方策を作っており、徳川幕府の問題をそのまま継承しています。これに対して西郷を始めとする薩摩勢は、それでは徳川家の統治時代と何も変わらないではないかと激怒、両者は明治維新の協働から一転して内戦を始めます。1877年に西郷隆盛は薩摩の侍を決起して、明治政府というよりも、官僚機構を握った長州系役人に対する大規模なクーデターを仕掛けます。しかし、近代兵器を所有する新政府に抗う術はなく、最終的に西郷隆盛は自害してしまいます。
西郷が死去したことは、日本の新たな未来にとっては大き過ぎる損失でした。これにより、官僚主義と西洋の制度の模倣が社会に徹底されていき、国家が内実を欠いた方向へ向かう道を形成したのです。ここが大日本帝国(特に陸軍)による周辺国の植民地主義へと結びつくため重要です。この近代日本の始まりのトリガーとなったのが、安政の大地震であり、特に地震に伴う藤田東湖の死去でした。まずは近代日本の前後をここで押さえておき、次回は1923年9月1日の関東大震災が第二次世界大戦に向かう陸軍の暴走を招くトリガーとなった点を見ていきます。