賀茂真淵と本居宣長の出会いFrom Buddhism and Confucianism to Era of Shinto
江戸時代中期に日本の古典研究、すなわち『国学』は大きな転換期を迎えます。その中心人物の一人が、国学者・賀茂真淵(1697-1769)です。真淵は国学の基礎を形成した先人である契沖や荷田春満らの業績を継承しつつ、独自の学問体系を築き上げ、国学の発展に大きく貢献して後代の思想運動に強い影響を与えました。
まず、賀茂真淵の学問の根幹をなしたのは、日本最古の歌集『万葉集』の徹底的な研究です。この研究は単に歌の言葉を解釈するに留まらず、歌に込められた古代日本人の精神性、生活様式、そして彼らが重んじた『道』の概念を探り当てることを目指す壮大な学術の旅でした。その研究を通じて、真淵は『万葉集』の歌風には飾り気がなく、男性的でおおらかな力強さを持つ『ますらおぶり(益荒男振り)』という特質を見出します。これは後代の繊細で優美な『たおやめぶり(手弱女振り)』や、中国風の『からくにぶり』とは対照的な日本固有の美意識であり、古代日本人の理想的な精神の発露であると真淵は位置付けます。この素朴で純粋な古代精神に対する探求は生涯に渡って続けられましたが、やがて真淵は万葉集の次に「ある古典」の解読を行う夢を抱きます。
それが『古事記』です。712年に成立した日本最古の書物でありながら、その特異な表記法や難解な語彙のために、長らく多くの人々にとってその内容は閉ざされたままでした。しかし、真淵は古事記こそが古代日本人の純粋な精神や思想を解き明かすための最重要の鍵だと考えたのです。
残念ながら、この壮大な夢は真淵の生涯をかけた探求にもかかわらず、道半ばで終わります。古事記着手の機運が巡ってきた時に彼は既に高齢であったことから、彼自身によって古事記の本格的な注釈書が完成されることはなく、「未完の夢」となります。並々ならぬ古事記解読の夢を抱いた真淵は、自らの事績を継承する若き人物の登場を願いますが、中々そのような人物は現れないまま月日だけが過ぎていきます。しかし、真淵の切り開いた国学の未来は、やがて一人の若き天才との運命的な出会いによって大きく進展し、後に日本自体を変革する原動力となるのです。
その人物が、本居宣長(1730-1801)です。伊勢国松阪(現在の三重県松阪市)に生まれた国学者・本居宣長は、家業である木綿商の傍ら、若い頃から学問に対して強い情熱を抱いていました。そして京都での医学修業時代に、国学の先駆者である契沖の著作に偶然触れたことが大きな転機となり、国学の世界へと独学で深く分け入っていくことになります。宣長は松阪で町医者として生涯を送りましたが、その傍らで膨大な古典研究に没頭し、次の道を切り開く意志を固めていきます。
特に平安時代の『源氏物語』の研究を通じて、宣長は『もののあはれ』という日本固有の美的・情的理念を提唱します。この「もののあはれ」の思想は、後に没頭する古事記研究において、儒教的な道徳観や仏教的な因果応報論といった後世の価値観を排して、古代日本の精神を理解しようとする方法論にも通底する宣長の学問における思想的基盤となります。
既に真淵は江戸時代以前に日本で大きな影響力を誇った仏教、さらに江戸時代に大きな影響力を誇った儒教に対する対抗心を打ち出しており、これら外来の価値観を『漢意(からごころ)』として概念化しています。漢意とは歴史的に日本に深い影響を与えた中国の思想や哲学などを包括的に示す概念であり、この漢意の影響を除去した先に真の日本精神があると捉えた思想です。真淵や宣長は漢意を『物事を合理化し、是非を判断しようとする思考の型』と捉えました。私は、この型をいったん脇に置くことが、古代の言葉に近づく方法だと捉えています。ただし、真淵は安易に漢意を排斥するのではなく、どのように漢意が日本精神に影響したかを詳細に研究する態度を徹底しました。むしろ、漢意をいったん脇に置いて日本精神の源泉へと突き進んだのが宣長と言えます。ただし、時代は儒教が圧倒的な影響を持っており、漢意への反発は僅かな国学者だけが共有していた精神でした。
そうした未来への意志が日本に生まれ始めた中、国学の礎を築いた老齢の真淵と、国学の最重要な人物となる若き宣長は、遂に1763年に運命的な出会いを果たします。それが、1763年5月25日の夜です。当時、伊勢神宮参詣などのため関西方面を旅していた賀茂真淵(67歳)が、松阪の旅籠に滞在していました。するとそのことを聞きつけた若き本居宣長(34歳)が突然訪ねてきたのです。長年敬慕してきた真淵の地元滞在を聞いた宣長が行動力だけで宿を来訪し、自らの国学に対する意志を示した重要な出来事でした。そして実は、この時が二人の生涯でただ一度きりの対面となります。
真淵は、紹介状も持たずに訪れた無名の若者の真摯な言葉と思いに深く心を動かされ、温かく迎え入れて弟子入りを許可します。そして真淵は自らの意志を継承するため、一晩をかけて宣長に対して今後の学問の進め方について貴重な教えを伝授し、宣長の生涯を大きく変えます。この時、真淵は古事記という難解な書物を解読するためには、まず万葉集を通じて古代の言葉遣いや表現を深く理解することが不可欠であると説きました。
この運命的な出会いを境に宣長は正式に真淵の門人となり、ここから江戸と松阪の物理的な距離を越えて、書簡による活発な学問的交流が始まりました。その後、宣長からの万葉集に関する鋭い質問に対して、真淵は一つ一つ丁寧に指導を与えていくのですが、やがて宣長の才能と強固な意志に敬意を示した真淵は、自身が果たせなかった古事記研究の夢を宣長に託し、その研究を心から応援します。こうして宣長は真淵の意志を継ぎ、古事記解読という壮大な夢に取り組む決意を固めたのです。実際、宣長が真淵に入門した翌年から本格的に古事記の研究に着手したことを考えても、この出会いが彼の人生に与えた決定的な影響がうかがえます。
驚くべきことに、宣長は1764年頃から本格的に古事記の研究に着手しますが、完成までに35年を費やしており、まさに一生を古事記解読の事業に捧げたのです。そして1798年に、全44巻にも及ぶ大著『古事記傳』を完成させて歴史を変えます。
現在、私たち日本人が古事記を気軽に読むことができるのは、本居宣長の功績であり、感謝に絶えません。というのも、当時の古事記は特殊な漢字の使い方や、意味の通じない言葉が多かったことから、宣長の時代でさえ解読不可能な状態にあり、事実上学者たちに放置されていたからです。宣長は日中は町医者として多くの患者を診察して生計を立てる多忙な日々を送りながら、夜になると一人で書斎にこもり、古事記の難解な一語一語と格闘して膨大な注釈作業をこつこつと続けました 。その研究の緻密さと数十年にわたる驚異的な根気と集中力は、まさに驚嘆に値します。
さらに宣長の研究方法は、それまで行われていた各時代ごとの注釈に安易に頼ることをせず、徹底した文献実証主義に基づいていました。何よりも重視したのは、古代日本人が実際に用いていた『言葉の感覚』に立ち返ることであり、古事記の本文そのものと真摯に向き合うことでした。つまり、当時の儒教や仏教の学者に典型的に見られたような、文字を字義通りに受け取って論じる学者的な態度を退けて、一語ずつがどのような古代日本人の思想、信仰、習俗の観点から生まれたのかという点を見極めたということです。これはShitsuraeで何度か触れているように、古代日本に文字がなかったこと、さらには言霊思想が宣長の時代頃から高まるからですが、ゆえに古事記解読はただの文献解読ではなく、古代精神の源泉を探し当てるスピリチュアルな作業でもあったのです。ある意味、宣長は時空を超越して古代日本人の精神と邂逅を遂げたのです。
宣長は、後世に中国などから入ってきた価値観である漢意をできる限り慎重に排除し、古事記に記された古代人の精神や世界観を外来の先入観なしに、ありのままの姿で理解する努力を重ねます。宣長にとって古事記の言葉は単なる文字の羅列ではなく、それを通じて古代の人々の姿を目の当たりにし、その声を直接耳にするかのような生き生きとした実体だったのです。
35年にも及ぶ古事記研究は、当時「解読困難」 というよりも不可能とされ、しかも依拠できる先行研究が極めて乏しい中で、ほとんど独力で道を切り開く孤独な作業でした。そうした困難を乗り越えて生まれた本居宣長の『古事記傳』は、国学の歴史における金字塔であり、日本の古代研究に画期的な進歩をもたらした最重要の書物です。そして稀代の二人の天才が意志を継承した運命的な出会いは、ここから始まる、儒教・仏教の枠組みが重なる以前の古層へ立ち返り、神道を復古させる時代の流れを創造したのです。