和の変様と絶対服従:見えない日本的全体主義The Transformation of Wa into Absolute Obedience
今回は『日本的全体主義』とイコールとも言える『和』の概念が、どのように体制哲学として国民統制に利用され、今日に至るかについて見ていきます。というのも、日本の全体主義はどうも他国のものとは大きく異なる性質を根源に持つように思え、この観点からの洞察において欠かせない「和」を提示することで、読者も理解が進むと考えるからです。
まず、和は近年に生まれた新たな概念ではなく、その歴史はかなり遡ります。古来より「和」は日本の美徳とされてきましたが、古くは聖徳太子(574-622)の定めた憲法十七条第一条に『和を以て貴しと為す』が記載されています。この意味は「争わず協調することを何より尊い」と説いたものです。なぜこうした記載を聖徳太子が行ったかと言えば、何度かShitsuraeで見ているように、この時代は仏教の受容を巡る激しい闘争が起きた時代だったからです。そこでこの記載は、崇仏派の代表的イデオローグであり、当時の推古天皇、影の権力者である蘇我馬子と共に、日本初の全体主義的傾向を打ち出した最初の時代と位置付けることができます。
ただ古い概念としての和は、本来は対立を避けて話し合いによって秩序と調和を保つことを目指す理念であり、極めて温和なものです。しかし現代の和は、「忖度や空気を読む」ことによって「社会に波風を立てない」消極的順応と言い得る変様を遂げており、ここが根本的に異なる点であることには注意が必要です 。すなわち、「和」とは相互尊重に基づく積極的な協調原理がルーツにありますが、やがて単に自分を殺して他者に従うことを意味するように変様していったのです。ここに日本的全体主義を理解する難解性が潜んでいます。
その重要な変様が起きたのは江戸時代の儒教の受容期ですが、ここでは理解が進むように明治維新以降に焦点を当てます。当時の近代国家建設の中で「和」の概念は、為政者によって徐々に都合の良い統治手段へと再編されたからです。中でも、国家神道政策の一環として1870年代に発せられた『大教宣布の詔』は、端的に言うと「天皇への絶対服従」の心得を国民に示したものでした。これを当時は『随順』という言葉で表していますが、この言葉の起源も神話時代に遡ります。
つまり、端的に見ると江戸時代を通じて着実に変様した和は、近代国家の礎を築く明治政府のもとで伝統的価値観を装いながら、実質的には天皇への従順が国民道徳として強調されたということです。ここが直接的に第二次世界大戦期の日本国民の動きに関わります。
この和の変様は歳月をかけて国民に浸透していき、ついに戦前期に頂点に達します。実際、1937年に政府が編纂した『国体の本義』では、日本精神の本質として「和」を極めて重視しています。そこでは「日本の和」とは西洋的な個人主義社会における協調・妥協とは異質であると差別化を図っており、「全体の中に各人が分(ぶん)をもって存在し、その分に応じた行いを通じて一体を保つところの大きな和」であると説いていることが注目されます 。言い換えれば、日本では人々は独立した個人ではなく、全体の一部として再編され、各自が自らの役割に従順であるときにこそ真の調和が実現すると主張したのです。こうした思想は本来の日本に存在しないものでしたが、この時代以降、今日に至るまで日本人の精神基盤となっていきます。つまり、このイデオロギーが生まれる前と後では、日本人の精神は大きく異なるということです。
この為政者の論理では、欧米型の個人主義社会を万人の闘争に陥る悪因と見做しており、そこに真の和は存在しないと否定したことが象徴的です 。ここにおいて「和」は国家の統一を正当化するための倫理的支柱となり、国民に対して絶対的な服従と、自己犠牲を求めるイデオロギーへと歪められました。
そしてこの変様が国家体制に完全に配備された時、絶対服従の論理へと変様します。特に太平洋戦争期に日本軍(主に陸軍)は、米国に対して『総力戦体制』を行うことを提唱しており、これが実際の統治原理として極限まで推し進められて暴走を始めます。この大きな転換期について、後に優れた社会学者の山之内靖(1933-2014)は、総力戦下の日本社会について戦後に論じた際、「全国民を国民共同体の運命的一体性というスローガンのもとに統合しようと試みた」と指摘しました。
この総力戦体制は読者にとって馴染みがないでしょうが、近代の日本社会が内部に抱えてきた階級闘争や党派対立といった社会的紛争の要素を強制的に一掃し、社会全体を戦争遂行という単一の目的の下に合理化・統合するものでした。その証左として、1938年には『国家総動員法』が樹立しており、ここで為政者に不都合な政党は解散・統合され、労働組合は完全な国家の統制下に置かれて国民生活のあらゆる面が戦時動員へと従属させられていきます。ただ、こうした暴力的な方策一辺倒では国民統制は難しかったことから、軍国主義化を賛美する陸軍系の指導者たちは、古来より連なる「和」を自らに都合の良いように変様させながら、美化された「和」の名の下で内部の多様性を抑圧・排除し、個人や下位集団に対して国家・天皇への絶対奉仕(服従)を要求しました。
これは伝統的な共同体の和ではなく、国家による上からの一元的な“和”の強制であり、日本的全体主義の最初の完成形だったと言えます。そもそも伝統的な日本の共同体における和とは、統一国家の日本や単一民族の日本人という統一概念に対して存在したものではなく、無数に分散した村落共同体において育まれたものです。それでは彼らの理想統治を実現できなかったことから、彼らはこうした歴史実態を排除して存在しなかったことにしました。その代表的な位置付けが、天皇の起源である初代・神武天皇の即位年代を紀元前660年と定め、これに基づいて日本は約2,600年の歴史を持ち、その統治者である天皇は世界最長の絶対的な存在だと教化を推し進めたイデオロギーです。まさに山之内が指摘するように、この体制下で日本社会は「システム統合」された一種の巨大な機能体へと作り変えられたのです 。
私自身はShitsuraeを通して語っているように、神武天皇の即位年代の実定は恣意的であり、かつ当時でさえ統一国家の日本も単一民族の日本人も存在していなかったと考察を踏まえて見ています。そのため山之内の主唱に出会った時、深い感銘を受けました。この時代ほど論じることが難しい時代もないのですが、山之内は詳細にこのイデオロギーの変遷を追い、実体験を踏まえて二度と繰り返さないようにと警告を発していたのです。
しかし、日本の社会の性質の一つにあるのは「一度決めたことを変えにくい」ことです。つまり、一旦こうしたイデオロギーが浸透してしまうと、社会規模で見た場合、多数派はこの前提が日本の実像であると捉え、それ以外の説は全て異端として退ける傾向が現れます。こうした性質が組み合わさったことで、日本的全体主義が本当の深刻な問題となるのは戦時以上に戦後でした。
1945年の敗戦によって確かに日本の軍国主義体制は崩壊し、米国主導のもとで定められた新憲法のもとで、民主主義と個人の権利が謳われるようになったことは事実です。ただし、これらは表面的であって国民精神にはほとんど影響を及ぼしていません。この重層性を見抜けない多くの論者は、「和」を美化した裏にあった日本的全体主義の構造を断絶したと見做す傾向にありますが、この認識は完全な間違いです。私は日本的全体主義は戦後において最高精度のレベルに達したと考えています。
戦後に入って急速に表面的な西欧型デモクラシーがイデオロギーとして新たに刷り込まれていったことで、大勢の論者は戦時の日本的全体主義を終わったと見做したのですが、ここで反旗を翻したのが山之内靖でした。山之内は鋭くも、戦後の豊かな社会基盤は敗戦という断絶によって突然生まれたのではなく、その多くが戦時の総動員体制の中で形成されたと指摘したのです 。実際、戦後の占領期にも財閥解体などは一時的に起きましたが(後に復活します)、旧来の統治機構やエリート層は温存されており、新たな統治秩序と結びつきながら戦後日本の社会構造を形作っていきました。ここで米国との密約のもとで躍進したのが、戦犯者で東京裁判で本来は死刑になる予定だった岸信介(1896-1987)です。彼は満州国で夜の帝王(アヘン利権のトップ)と呼ばれた人物で、1957-1960年に首相を務めましたが、彼は元首相で銃殺された安倍晋三の祖父です。
戦前の「和」を利用した統制論理は公的には否定されていますが、実は社会の深層において形を変えながら生き続けたのです。驚くべきことに、これは現在でも全く払拭されておらず、むしろ再強化されていると昨今の日本を見ていると感じます。そのため、私の目には現代日本はかなり不穏であり、表面的な平和とは全く異質の何かが地上に満ちており、悪い方向に大きな変動が生じる予兆に思えてなりません。
戦後日本では、軍国主義的な面影を持つ「和」の理念は以前のように国家イデオロギーとして表立って唱えられることはなくなりました。しかし、その本質にある「個よりも集団を優先し、秩序や統一を乱さないことを善とする規範」は、むしろ社会レベルで強固に深化したと言えます。人々は民主主義と権利のもとで自由を得たように思えた一方、他者と摩擦を起こさず、円滑にやっていくことへの過度の配慮が根強く残り、こうして「和」の制御装置は、かつてのような強権的強制ではなくなったものの、今度は見えない同調圧力や自己検閲といったソフトな形で社会に浸透していったのです。
はっきり言えば、目に見える形で現れる戦前・戦時的な和よりも、目に見えない形で現れる戦後的な和の方が問題です。これを『新たな和=目に見えない日本的全体主義』として捉えていますが、戦後は高度経済成長と絡み合いながら、企業文化、学校教育、社会規範などで広範囲に波及していき、現代では最高度に達する見えない統治原理にまで配備されています。山之内の未来に対する警告は、最悪の形で現実化したと言え、現代日本は既に自浄作用を完全に喪失しました。個人的な推察に過ぎませんが、おそらく日本はこれから戦前を模倣したような状態に再び急速に向かうでしょう。
「和」という概念は本来、人々が対話と互譲によって平和な秩序を築くための尊い知恵であり、これが本来的に日本人が持つ優れた特質の一つでした。しかし江戸時代から近代以降にかけて、その理念は為政者に利用される形で体制イデオロギーへと変様していき、やがて日本的全体主義の絶対服従の論理へと歪められてしまいました。戦前・戦中には「和」が国家への無条件の団結と犠牲を強いる思想装置となり、戦後もその構造は解体されずに形を変えながら社会の底流に流れ続けており、日本人が感じる生きづらさ、思考放棄など多面的に悪影響を及ぼしながら、多くの人が本来の力を発揮しにくい現代日本の社会が形成されています。
顕在的なイデオロギーではないことから、中々、他国の人々には読み解けない難しさがあるのですが、習慣や空気といった見えない形で深く浸透した分、一層自覚しにくい束縛となっており、日本人自体もここについて説明不能な次元にまで統制が完璧に樹立しています。そのため、他国のように絶対的な指導者や、国家による最新テクノロジーを駆使した国民管理を必要とせずとも、日本は為政者が何もせずに統治できる奇妙な構造形態となっており、このことが分析を一層難解にしており、国内外の論者の指摘が全く的を得ていない惨状になっていると感じます。
日本に生まれて日本に生きる私としては、この日本的全体主義の中に部品として配備されてしまった多くの日本人の姿を日々見ることは本当に辛く、彼らが本来持っている優れた能力を発揮する機会もなく、そのまま疲弊して死を迎えなければならない光景に強い憤怒を覚えます。他国であれば、革命が起きやすい土壌といえますが、こうした歴史的側面を冷静に捉えると、日本で起きるであろう次の革命はまだ時機ではなく、私を含めて日本・日本人の本来的な「和」の可能性を信じる僅かな者たちは、それぞれの使命を全うし、来る大きな変換期に備えているのが現状です。
この日本的全体主義を賛美する他国の指導者などは多くいますが、実際にはこれは日本の歴史・文化が長い歳月をかけて育んできたものであるため、事実上、他国で同様の体制の樹立は不可能です。こうした点を踏まえて、是非とも読者が日本に訪れた際、随所で見られる日本的全体主義の姿を見てください。それが良い未来ではないことは、静かに見れば理解できるはずです。残念ながら、歴史は繰り返します。