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文化受容のリミックス史:表面の受容と深部の抵抗A History of Japanese Cultural Remixing

日本人の特質の一つとして、よく他国の文化を受容する能力に長けているという認識が、現在ではかなり国際的にも共有されていると感じます。地理的側面から考えると、島国という日本の位置は隣国に広大なユーラシア大陸が存在し、特に中国という歴史的な大国を経由した影響が複数の時代で大きく影響したことは理解できます。しかし中国と言っても、現在の主流である漢民族からの影響に限らず、古代から連なる複合民族的で多面的な影響があり、さらには北方のロシア、東南アジアや中央アジア、遠くは中東から西洋の影響までが歴史的に起きており、事態を一層複雑にしています。ただ、こうした歴史的要因が複雑に深化しながら、日本人特有の気質が形成されたことは十分に考えられます。

ですが、単に外来要因に限って洞察することはできず、むしろ古くから持っていた日本人的気質なるものが底にあるからこそ、そうした他国では見られない特異な性格が歳月をかけて形成されたと私は考えます。よく同じ島国で隣国に欧州が存在した英国との類似性が語られますが、実際に私も2018-2019年にロンドンに住んでいた頃、確かに日本と同じとは言えないが似た気質が英国にあることは同意できます。ただ一点だけ、英国と日本の大きな違いは、日本精神に類似したものが英国では見出せない点です。

そこでこの記事では、まずは歴史的に大きな脅威となり、実際に日本文化史、あるいは精神史に多大な影響を及ぼした主要な出来事について見ていきます。大きく重要なファクターとして、今回は仏教伝来、唐・新羅連合軍の脅威、蒙古襲来、黒船来航、第二次世界大戦後の占領を見ていきますが、これをさらに遡ると縄文時代から弥生時代、さらに古墳時代という異なる民族文化圏の影響から始まります。

先に私が考える日本人の気質について言っておくと、基本的には非常に穏やかだと見ていますが、動乱期を前後として高揚が高まり、あっという間に新たな文化へと変様する速度があると考えます。今の日本・日本人は非常にスローなことから、そうした気質は失われたように見えてしまうのですが、再び何かしらの動乱が差し迫る不穏な昨今、次の変様期に同質のことが起きる可能性は十分に考えられ、ここで他国の日本に対する見方や評価は一変すると思います。ただし、これまでの歴史における中国、ロシア、ヨーロッパ、英国、米国などの時代ごとの大国の影響を終えた今、次に絶対的な大国が現れることはなく、21世紀は世界的に力の分散は自明であるため、どのように次の時代の文化流入を日本人は受容するだろうかという点は興味深いものです。

例えば、隣国の中国で大きな政変が生じれば、多くの人々が日本に向かうでしょうし、朝鮮半島で変動が生じても、台湾有事が起きても、同じように大きな人の移動が日本に及びます。さらに独自の視点として、オーバーツーリズムやデジタルノマドの流入も、一種の大量渡来の現象と私は位置付けて日々考察しており、これら複合的要因が次の日本社会の心理に強い影響(同時に強い抵抗)を生むことは、歴史の流れから推察可能です。

そしてこの時代になると、日本は穏やかで平和という現在の固定概念は一変すると予測します。社会の緊張が高まると、外から来る人々への反発が強まる局面が生まれやすく、既にその兆候は東京でも高まっており、各地の移民が多い地域である大阪、静岡、愛知、群馬、埼玉、沖縄などでも着実に表れています。そのため、何か象徴的な事件が起きれば、社会の空気が驚くほど瞬時に変わりうることを頭に入れておいてください。これは単なる憶測ではなく、私なりに日本を洞察してきた中で確信を持っていることです。

歴史的に見てみると、6世紀中頃に日本に初めて仏教が伝来したことに始まります。元々日本には存在しなかった仏教ですが、その後の歴史を通じて仏教文化は日本文化に欠かせないほど深く根付くことになります。ただ日本の仏教はインド仏教というよりは、中国でリミックスされた仏教である点には留意が必要です。さらに当時の日本人は素直に仏教を受容したわけではなく、崇仏派と排仏派の激しい対立が起きており、結果的に戦争になって為政者が置き換わる新たな時代を生む原因となりました。新たに崇仏派が権威を握る時代になると、朝廷は積極的に仏教を受容し、寺院建立や経典の伝来が加速しました。

一方で中央からの仏教推進に対して、まだ統一国家ではなかった当時の日本では、多方面から仏教受容に対する反動が生じており、権威を有していた仏教勢力でさえ、これらを無視できない次元にまで高まります。そこで日本に仏教を根付かせるための施策として、外来宗教の仏教と固有信仰の神道を衝突させながらも調和させる方針に舵を切らざるを得なくなります。他国では宗教同士が激突して融合する例は稀でしょうが、この時、日本では神と仏を同一視する『神仏習合』の思想が生まれました 。外来の信仰を土着の神と結びつけることは確かに柔軟さとも言えますが、同時にこうした表面的な日本人の文化受容に惑わされてはいけません。というのも、日本の文化受容の重要な仕組みの一つは、表面では受け入れながら、深部では固有のものを守ろうとする重層性にあるからです。ここが、外からは読み解けない難しい構造となっており、国際的な日本理解がズレる要因となっています。

次に、663年の『白村江の戦い』があります。この時、日本は初の対外戦争を行うも、圧倒的な唐・新羅の連合軍に大敗を喫します。勢いに乗った連合軍の侵略危機に直面した日本は、強制的に統治機構の抜本的改革を迫られました。実際、白村江敗戦後に唐・新羅の侵攻に備えるため、外交・軍事・政治など統治システム全般を根本から変革する試みを行なっています 。それは「防人(さきもり)」の配置や通信網の整備、外敵の上陸地点である九州北部への城塞築造など防衛体制を強化する点に現れています。ただこの時は幸いにも唐と新羅が戦争状態に入ったことから日本侵略は起きませんでした。そこで日本は絶対的な強国だった唐の律令制度にならった中央集権体制づくりを本格的に進める余地が生まれたのです。その結果、日本は「律令国家」として天皇を中心とした国家を標榜し、国号を『倭』から『日本』へと改めました。

この窮迫した危機対応によって、「日本」という国名や天皇制、外来文化を受容しつつ独自発展させる文化的特質といった日本の基盤が築かれたと言えます 。現代日本人の「島国意識」などの源流は、特に7世紀後半の国家的危機にあると言えるでしょう。しかしここまでは実際的な他国からの侵略は起きておらず、むしろ大陸・半島側で戦争状態となり、そこで敗北した難民が日本に逃れて新たな文化を伝来するようなことが頻出していたに過ぎません。その危機が現実的にならない状態は長く続いたのですが、13世紀後半になると外敵の侵略が現実に起き、ここで日本は初めて外敵を意識するようになります。この状態は現在の国民意識とまでは言えないものの、その祖型が生まれる大きな原因となりました。それが『蒙古襲来』です。

時代は武士が貴族政権を打倒して権力を握った鎌倉時代の13世紀後半です。当時、躍進するモンゴル帝国(元)と高麗は1274年と1281年の二度に渡って日本に侵攻しますが、これを『元寇』と呼びます。

元寇の襲来に対して鎌倉武士たちは抗戦を続けますが、仮に元寇が日本に大量進軍できた場合、勝ち目はありませんでした。しかしこの時、元寇が朝鮮半島から九州沿岸部に進軍する最中、突然の暴風雨によって軍勢は木っ端微塵となり、結果的に元寇は日本侵略を諦めることになります。この幸運は『神風(神の風によって外敵を撃退した)』と称されて語り継がれていき、後の天皇崇拝にまで連なる源流となります(戦時の神風特攻隊もここに基づきます)。この出来事はこれまで伝説と考えられてきましたが、近年の考古学が証拠を発見したことで、本当に起きたことだと明らかになっています。

この未曾有の外敵襲来の危機感は、日本社会と精神文化に大きな衝撃を与え、日本の軍事体制・社会構造・精神文化に大きな影響を及ぼしました。それまでは主に内輪の戦い(国内の合戦)に明け暮れていた日本人に、「外敵に備える」という意識が芽生えたことは大きな変化でした 。それ以降、博多湾岸には防塁が築かれ、幕府も異国警固番役など制度面で備えを固めて脅威に備える意識を現実化しています。

しかし、ここで外敵の脅威が過ぎ去ったことから、再び侍が国内の合戦に明け暮れる戦国時代に突入します。また大航海時代に日本へ伝わったキリスト教の影響も定着しなかったことから、特段大きな外敵は存在しませんでした。その状態で統一状態となる江戸時代に突入し、さらにキリスト教一掃の観点から鎖国政策が始まったことで、歳月をかけて外敵という意識が日本人の中で徐々に薄れていきます。この国内統治の安定期になると、すでに長らく外敵による襲来危機はなかったため、為政者たちは島国の性格を忘れて、沿岸部の防衛を怠るようになります。ここで日本各地を踏破して、沿岸部防衛の重要性を幕府・藩・皇室に直訴した先駆的存在が林子平(1738-1793)でした。

子平は危機を訴え準備を行うことを論じますが、平穏な時代で外敵襲来は夢物語だと無視されてしまいます。そこで子平は人生の集大成として『海国兵談』を1791年に自費出版で30部だけ発行、海防の重要性を説きましたが、無念にも誰にも理解されないまま生涯を終えます。しかし発行の翌1792年、実際にロシア皇帝の国書を携えたロシア人が北海道根室に入港し、通商を求めてきた事件によって幕府の楽観は瓦解します。こうして結果的に子平の提唱から60年後の1853年、ペリー提督率いるアメリカの黒船が浦賀沖に出現して、次の動乱期を迎えます。以前にも少し書きましたが、黒船襲来が変動の直接的原因ではなく、それ以前からこうした事態に陥ることは僅かな日本人によって指摘されていました。それを無視した為政者が問題だということです。

こうして激動の幕末になると、徳川家の執政では次の時代を乗り越えられないと考える多くの若者は、所属していた藩を離脱して各地を動き回り、有志と集って暗躍を始めます。この時、強烈に敵対していた薩摩藩(現・鹿児島)と長州藩(現・山口)を同盟させなければ、幕府を転覆できないと一部の者は考えました。そこで同盟に奔走したのが土佐藩(現・高知)生まれの坂本龍馬(1836-1867)です。坂本は西洋文化を即座に取り入れる柔軟性を持ち合わせた才覚で、幕府転覆の資金・武器供給を握ることで同盟を締結する強硬手段に出ます。この依頼を引き受けたのが、大英帝国が日本の市場開放を画策していた時代に武器商人として日本に入り込んでいたスコットランド人のトーマス・グラバーです。こうして坂本は遂に薩摩・長州を同盟させて下級武士を中心とした軍事クーデターを起こす波を生みます。これが『明治維新』へと連なる重要な動きです。

既に機能不全となっていた幕府は、欧米列強の軍事力を見せつけられ、国内も無法状態に陥ったことから、強制的に開国に追い込まれます。この開国は良い意味ではなく、強制的な市場開放としての強要であったため、事実上の日本に対する侵略として、多くの日本人が反動心を高める動因となりました。中でも欧米の圧力に抗う先鋒に立っていたのは、血気盛んな水戸藩(現・茨城)の侍たちですが、無念にも1854年の「安政の大地震」によって主力人物が死去したことから下火となり、クーデターは事実上、薩摩・長州に依存するしかなくなりました。

こうして徳川家から実権が移った1868年の明治維新では、名目としては旧来の封建体制を廃して近代国家への大改革を断行したと美化されていますが、内実は軍事革命であり、表面的に西洋模倣が始まったに過ぎません。そのため、内面では欧米の圧力に対する強い苛立ちを抱えて新時代をスタートしたことを見逃しては本質を見誤ります。

ただそうは言っても、侍の刀で近代技術の軍艦や砲撃に勝つことはできません。そこで明治政府は一旦、欧米の先端制度や技術を導入することによって、将来的に欧米と対等に渡り合う日本の未来に賭けたのです。こうして急速に中央集権体制の確立や憲法・議会の制定、近代軍隊の創設が行われ、社会のあらゆる側面で西洋化が推し進められました。しかしその過程で当初の思惑であった対等な未来も、明治時代が安定してくると為政者たちは忘れてしまい、利権に固執するようになります。特に明治維新の立役者である薩摩の指導者・西郷隆盛(1828-1877)が長州勢の思惑によって、最後は自害に追い込まれたことが後に大きな影響を及ぼします。西郷を政権から追い出したことによって、邪魔者を排撃した長州系政治家は、一気に山縣有朋のもとで官僚主義国家の創設に向かいます。

ここで理解が必要なのは、西郷は当時の日本人にとって、最高の人格者として崇められていたことです。薩摩に西郷が居たことで、西郷を慕う多くの九州の若者たちが深い影響を受け、やがて長州系の実権時代となる明治時代が進むにつれて、西洋の象徴とみられていた利権や打算を長州系役人が体現する姿に彼らは我慢ができなくなります。こうして明治時代に日本で右翼が初めて誕生したのです。日本右翼の源流は明治にありますが、ここで躍動したのは西郷隆盛の意志を継承した九州の人々だったという点が重要です。その代表格が西郷の薫陶を受けていた頭山満(1855-1944)で、右翼団体・玄洋社を立ち上げて欧米のアジア進出への抵抗を強固に主張し、主に朝鮮、中国、インドなどの独立運動を支える主軸となりました。この頭山の正統な継承者が右翼団体・黒龍会の内田良平(1874-1937)ですが、彼らは共に九州の生まれです。

一般的には、ここが後の『大アジア主義』の源流とみられていますが、これは右翼史を考察する私からすると完全な誤りです。頭山や内田のアジア主義的理念は、後に日本政府(陸軍)が主導で行なった他国への侵略肯定の詭弁ではなく、各国の独立運動を行う指導者たちをバックアップし、時に軍勢を日本から支援して欧米の支配に抗うことにありました。実際、頭山ー内田系右翼組織から他国の独立運動のために日本人が関与しています。

私は頭山や内田、さらにその系譜に位置する戦前・戦後の右翼の大物である安岡正篤(1898-1983)の人格を高く評価していますが、彼らは満州などの侵略を肯定する陸軍的な国家主義・民族主義などに強く反動していました。これらを同一視しては歴史を見誤ります。ですが彼らの運動は政治的には局所的な影響を与えたのみとなり、役人と官僚の結託による開国以降の時代、政治・社会・文化のあらゆる面で欧米礼賛の急激な変化が起きてしまい、新政府は欧米文化を取り入れつつ、近代化を推し進めて形骸化していきます。

この時に掲げられた象徴的な理念が『和魂洋才』でした。すなわち、日本人の精神(和魂)を保ちつつ、西洋の知識・技術(洋才)を積極的に取り入れる方針です。この理念が明治に続く大正時代(1912-1926)になると、明治の動乱期を知らない新世代の若者によってデモクラシー運動の原動力となり、やがて『大正デモクラシー』と呼ばれる時代に突入します。この時代の西洋礼賛はかなり一方的であったことから、逆に右翼勢力が勃興する踏み台となってしまったのです。大正時代は15年と短い時代でしたが、今度は新たな昭和時代が始まり、遂に日本は欧米への対抗を掲げる時代を迎えて他国への侵略を強めていきます。この時代を見るだけでも、私は素直に日本人が外来文化を受容したなどとは到底思えず、必ず強烈な反動が長期的に起きている点を忘れてはならないと思います。

この昭和に息を吹き返したのが陸軍でした。中でも陸軍の一つとして統制のない関東軍と呼ばれた無法集団が、1931年の決定的事件『満州事変』を引き起こしたことで転機を迎えます。この勢力は満州のアヘン、鉄道などの様々な利権を掌握して莫大な財力を有し、この財源を通じて日本の政界に強い影響を与えて陸軍の絶対的権力を樹立する原動力となったのです。ここでアヘン利権を掌握して暗躍したのが岸信介、戦後に米国CIAの庇護のもとで首相となり、戦後日本社会を大きく歪めた人物です。

こうして暴走した陸軍を誰も止められなくなり、西洋諸国との徹底抗戦を主張する陸軍の主張が通る時代を迎えます。天皇すら動かす力を持っていた陸軍によって、太平洋戦争末期の日本側の敗戦が誰の目にも明らかだった時代でさえ、様々な停戦提言を無視して陸軍の戦争続行主張だけが強固に掲げられてしまい、結果的に各地で敗戦して領土を失い、最後には日本各地が焼け野原となり、沖縄侵略の惨劇、原爆投下という事態を生みました。

つまり、日本人にとっては米国以上に、陸軍暴走の結果が第二次世界大戦の敗戦を生み、戦後の連合国軍総司令部(GHQ)による占領統治が始まったと言えます。ここで新たに日本社会は外圧による劇的な変革を経験することを強いられます。GHQは日本を非軍事化・民主化し、今後は米国の脅威とならないことを目論み、平和国家へ転換するため数々の改革を断行して日本精神を骨抜きにしていきます。

焼け野原で物資も不足していた戦後、武装解除された人々は占領下の統治になす術がなく、しかも敗戦直後の混乱で治安が極度に悪化したことから、社会が立ち行かなくなる強い危機が芽生えます。この混乱に立ち上がったのは政府でも警察でもなく、人々の懇願を受けて引き受けた地域のヤクザ組織でした。ここから台頭したのが後に全国制覇を実現する山口組です。つまり表向きには日本は過去の軍国主義体制を一掃し、平和と民主主義を基調とする国家へと生まれ変わったなどと美化されていますが、それは日本を知らない人々の御伽話であって本質は大きく異なります。

今回は重要な歴史の出来事を参照しながら大きな流れを見てきたに過ぎませんが、これを素直に『受容のリミックス力』と呼び得るかは疑問が残るところです。確かに、新たな文化を受容した勢力が最初は力を持つ傾向はありますが、この潮流は常に表面的であることから即座に反動勢力の台頭を許しており、結果的に見ればいつの時代も反動勢力が後に保守化している傾向が見えてきます。この観点から見ると、日本は他国の文化を素直に受容しているという従来の考え方よりも、むしろそれは表層的に留まっており、いつも深部には外来への強烈な抵抗を有していることから、表立って排斥・排撃とはならない不思議な調和を生み出しているとも言えます。逆に言えば、この深部の外来に対する抵抗の層こそが日本の文化の仕組みの核と言え、この層は今も社会の底に流れ続けているように思えます。

同時に島国であり、長い村落社会を生きてきた日本人にとっては、外来の脅威に表立って反抗することは生存戦略の観点から見ても無謀であったため、現実的な側面では他国の文化を受容した素振りを見せながら、精神的な側面で強い日本意識が歴史を通じて育まれたことが見えてきます。これが日本の文化の根源的な仕組みではないかと私は考えていますが、今後も多面的な考察を行い、この不可思議な能力について読者に開示していきます。