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四国と渡来の氏族:カモ族の足跡Clans Assimilated into Japan

日本海側の山陰調査を終えて、一気に瀬戸内海を越えて四国に入りました。今回の調査旅では、先祖や民藝、さらには神楽の調査などを山陰で行い、途中で岡山県山間部にある高梁という地域で別の調査を行いました。そこから後半の調査目的で四国入りして、今日は主に讃岐国(現・香川県)の西部地域を調査して、先ほどから阿波国(現・徳島県)に入って調査を進めています。

四国調査の目的は古代氏族の謎についてです。日本には多くの古代氏族がいたのですが、渡来系氏族の多さに驚愕します。大半は中国・朝鮮からの渡来系氏族ですが、中には中央アジアや中東地域にまで及ぶ可能性があり、もっと広範囲の渡来系部族が帰化していた可能性を考える必要があるかもしれません。

今回の旅だけでも、石見国(現・島根県西部)には無数の渡来系部族の伝説が残っており、そのことは古事記や日本書紀の神話にも深く示唆されています。事実、土地の人々の話を聞いていると、海流の流れが朝鮮半島から直接石見国方面に至るため、かつて朝鮮半島を出立した人々の一部は、確実に石見国に流れ着いたと話します。実際に石見国の海岸を歩いていると、韓国から多くのゴミが流れ着いており、砂浜には韓国語で書かれたプラスチック製品などを大量に見ることができます。

しかし日本の歴史の語りでは、天皇の系譜の語りと結びつくことから、渡来の経路は九州北部に限って語られることが多く、他の海路の可能性はあまり取り上げられてきませんでした。これには複雑な理由があるのですが、天皇の系譜に直結するため、時機を見てお伝えしていきます。

さらに昨日もお伝えしたように、因幡国(現・鳥取県)の巫女・『ヤカミヒメ(八上比売)』のルーツは土地の伝承では渡来系部族です。こうしたことは一般的には語られることはない上、私も昨日土地の高齢の女性に神社で話を伺うまでは知りませんでした。しかし、詳細に調査を続けていると、古代日本の実態は誰もが想像できないほど多様な構成であった姿が見えてくるのが面白いところです。問題は、この可能性を受け入れるか否かでしょうが、日本人が受容するにはまだまだ歳月が必要です。

こうして調査を続けながら四国に入ったのですが、中でも徳島県を流れる吉野川流域は、西部地域と東部地域で文化圏が大きく異なります。この理由は、どちらも異なる渡来系部族によって開拓された古代史が関係しているからです。これを調査するには地名や神社、さらには祭神や信仰、そして伝承に至るまで多岐に及びますが、読者が意外に思えるかもしれない例として、徳島県西部に残るカモ氏の足跡があります。

これは日本特有だと思いますが、起源は定かでないものの、ある時代から『日ユ同祖論』と呼ばれる独自の説が語り継がれてきました。ほとんどの読者はご存知ないでしょうが、この地域はその語りの中心地の一つと位置付けられてきました。この説に触れるとき、手がかりになるのが地名です。日本では、地名が古層を語ります。

この地域に定着した古代の氏族は『カモ』と名乗っており、漢字では『鴨』『賀茂』『加茂』などと書きますが、この地名は日本各地に多く残っており、有名なところでは京都の上賀茂神社が挙げられます。つまり、八上比売のルーツである『ヤカミ族』同様、こちらは『カモ族』だったということです。この古代カモ族にとって重要な聖地として信仰されてきたのが、徳島県の剣山です。

剣山は峻厳な山岳地帯でありながら、今も奥地まで人が住んでいる特異な地域です。有名な伝承では、現在住んでいる大半の人々は12世紀後半に平氏が源氏に敗れた時に、土地を逃れて山深い剣山に隠れ籠ったと伝わり、様々な伝承地が残っています。しかしそれ以前の時代、このカモ族にとっての「隠れ里」と位置付けられ、隠れて彼らの信仰を継続したのが剣山の奥地です。実際、剣山にはカモ族に関わる多くの伝承が根付いており、山頂にはカモ族が祭祀を行ったと伝わる場所まで存在します。

それからカモ族は徐々に平野部の吉野川中流を開拓するのですが、この地は現在でも名残を残しており、『加茂地区』と地名が残っています。この地域で開拓した時に彼らは祖神を祀ったのですが、それが現在の鴨神社の起源です。この神社の主祭神は『ワケイカヅチ(別雷神)』であり、正式名称は『カモワケイカヅチ(賀茂別雷命)』です。この神は『雷』という漢字があてられていることからも自明ですが、雷神のことです。

雷神への信仰は、世界の古い信仰に広く見られます。カモ族が同地で奉祀したのは彼らの雷神であり、それが日本の信仰の中で日本の姿となって、今日の神社信仰に残っているのです。実際、この地を開拓したカモ族の一部は、後に平安京時代前後に京都へ移住しています。そこで彼らが京都の本拠地としたのが現在の上賀茂神社付近ですが、こちらも『カモワケイカヅチ(賀茂別雷命)』なる彼らの雷神を奉祀する古い神社です。

まず、平安京の都市設計は古代中国に由来する『奇門遁甲』を用いています。奇門遁甲は方位の吉凶を読む占術であり、古来から日本では僅かな人々が相伝する形で奥義として継承されてきました。平安京には陰陽師という重要な占術を駆使する集団が居たことなど、この奇門遁甲などを駆使して結界を構築し、京都の四方を魔物から守るために守護神を配置しています。

これは『四神相応』と呼ばれる古代中国の概念で、その守護には『青龍』『白虎』『朱雀』『玄武』が配置されます。平安京の東には青龍の賀茂川・八坂神社、西には白虎の山陰道・松尾大社、南には朱雀の巨椋池・城南宮、北には玄武の船岡山・上賀茂神社が配置されており、これらの地形構築が中国の四神に相応すると考えられました。京都に移住したカモ族に関連するのは玄武の上賀茂神社ですが、玄武は山と冬を司る蛇を身体に巻きつけた亀です。どう考えても、日本の信仰ではない外来信仰です。

さらに平安京は、陰陽道や風水の『鬼門』という鬼が出入りするとされる方角の北東には、延暦寺や鞍馬寺を配置して霊的な守護を固めています。実際、平氏を破る先鋒となった源義経(1159-1189)は、若い時に鞍馬山に出向いて天狗から武術を授かったなどの伝説があり、鬼に関する伝説も京都には多く残されています。

さらにカモ族は徳島から京都に限らず、さらに大和(現・奈良県南部)方面にも進出しており、こちらは後に京都・下鴨神社を建立するカモ族の拠点でした。カモ族の出自を一つに定めることはせず、日本に至るまでの地域(特に中国)で交わり重なった可能性も含めて見ていきたいと思います。信仰という観点では、雷神信仰を有して日本に持ち込んだカモ族が居たことは事実なのです。

カモ族のみならず、さらにはペルシャ系部族が日本に渡来していたことについても多くの指摘がなされており、以前も書いたように那智の滝の青岸渡寺はドラヴィダ人の僧侶が日本に渡来して建立した寺院です。さらに石見で古い伝承を踏まえて神楽を見ていると、秦の始皇帝が不老不死の霊薬を探し求める勅令を出し、徐福という家臣が3,000人を分散して日本の調査に訪れた伝承も考慮しなければなりません。事実、1982年には中国の江蘇省連雲港市で『徐福村』が発見されており、これが単なる伝説ではないことが浮き彫りになってきました。

徐福伝説の日本側に残る主な伝承地は、石見や和歌山県南部の新宮市ですが、石見で話を聞いていると、彼らは30人程度が乗る船を100隻使って渡来したと伝わっており、嵐などで航路が分かれて分散したと言います。

こうした好奇心を高める伝承の類は全国各地に残っているのですが、こうした話は土地の古老から聞き出す他ない部分も多く、そのためにも旅が必要となります。無数の渡来系部族が入り混じった古代日本の姿を想像しながら旅を続けていると、どうして今日の日本では、古代から変わらぬ一つの姿を前提にした見方が主流となったのだろうかと不思議でなりません。

そして私は今回、さらに別の渡来系部族の調査のために徳島に来たのですが、読者が驚くほど多くの渡来系部族が古代日本に帰化していた実態は、日本人である私自身も日々驚かされているほどで、全貌解明にはまだまだ時間を要するものの、少しずつでもアップデートした知見をお伝えしようと思います。