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出雲大社参拝と三日間の肉断ちSacred Purity Through Three-Day Meat Abstinence

神社参拝は気軽に行きたい時に行くものではなく、しっかりとした準備が必要だということをご存知でしょうか?今では日本人もこうした古来の作法を忘れてしまいましたが、今回の旅で島根県の出雲大社を参拝するにあたって、私は「ある準備」をして今朝参拝してきました。それが『三日間の肉断ち』です。このように聞くと、読者は仏教的影響を想起するかもしれませんが、実は神道にもこうした作法がありますので、今回は実体験を踏まえてここを見ていきます。

最古の神社の一つである出雲大社周辺では、神社参拝に際して事前に身を清めるための習俗がいくつか伝わります。その一つが「参拝の三日前から肉食を控える」という教えですが、具体的には出雲大社にお参りする前の三日間は、肉を食べないようにし、質素で精進な食事を心がけるというものです。この『肉』とは特に『四つ足の獣』と位置付けられており、古くから出雲の人々はそれを守ってきました。

神道において肉食は動物の命を奪う行為に通じ、その血や死に間接的に触れるため、神の前に立つにはふさわしくない『穢れ』をもたらすと信じられました。日本の神道においては『穢れ』と『忌(いみ)』という概念が重要な役割を果たしてきたのですが、ここを理解するだけでも神社参拝は大きな効果を得ることができます。

まず「穢れ」とは、不浄な状態や心身の汚れを指し、精神や生命力が弱まった状態を指します。典型的な例が死にまつわる穢れです。例えば、家族の死に直面した遺族は深い悲しみによって「霊力(生命力)」が「枯れ」てしまった状態になると考えられました 。これは日本では『気が枯れる』という意味を有する『ケガレ(穢れ)』として知られています。しかも穢れは人に伝染する見えない力があると古くは考えられたため、神道では一定期間、遺族は外部との接触を断ち、静かに身を慎んで霊力を回復する『忌中』という習慣が生まれました。この忌中の間、遺族は神社への参拝や祭りへの参加を控え、身を清めることに専念しなければなりません。これは死による穢れを他者や神に持ち込まないための配慮であり、共同体を維持するための重要な習俗でした。

一方で「忌」とは、特定の期間や状況において、穢れを避けるために行動を慎むことを指します。忌は個人や共同体が自発的に設けるタブーであり、身の回りの行為を制限することで清浄さを保とうとするものです。共同体を喪失した現在では、「忌」は個人が自発的に設けるタブーとしての側面を強く有しています。前述の忌中も広義の「忌」ですが、日常生活においても、祭礼の当番が祭の前に不浄を避ける生活を送るといった例が各地に伝わります。祭礼においては、当事者が『斎戒』を怠ると神罰や不吉な出来事が起こると信じられてきました。神道の世界観では、穢れは一時的に人につきまとうネガティブな「気」の状態であり、それを祓うには一定の忌と清めのプロセスが必要だと考えられてきたのです。

ここで重要となる概念が、『精進潔斎』です。これは肉食や酒、淫欲などを断ち、沐浴や祓いによって心身を清める神道の行いを指します 。もともと「精進」と「潔斎」は別の概念でしたが、平安時代末頃には意味が近いことから併せて用いられるようになりました 。この概念の背景には、古代からの神事に伴う『斎戒』と、仏教由来の『戒律』の双方があります。つまり、これらの習俗は神道と仏教の『神仏混淆』から生まれた独自概念として現代に継承されたのです。

実際、日本では古代律令制の下で『神祇令』に神事の前後に守るべき斎戒の規定が定められていました。そこでは祭事の重要度に応じて斎戒の期間が定められており、『大祭』には1ヶ月間の斎戒、中程度の祭には3日間の斎戒、小さな祭には1日間の斎戒が必要とされました 。つまり出雲大社周辺に伝わる上記の説話は、この中の中程度の斎戒として捉えることができます。

では、なぜ特に「肉食」を断つことが出雲では重視されたのでしょうか。その理由は、前述のように肉食が「穢れ」に直結すると考えられたためです。動物の肉を食べるには屠殺が伴い、血を見るため、これが直接的に穢れを招く行為とみなされました。また肉食は身体に生臭い気を帯びさせるとされ、清浄を尊ぶ神前にはそぐわないのです。中でも四つ足の獣として『牛・馬・猪・鹿』などの肉は、生活の仲間を殺める行為でもあり、忌の重要な対象と捉えられてきました。

個人的には、日本人にとって四つ足の獣の最古の表象は鹿と猪だったと考えています。これは牛や馬が縄文時代や弥生時代には存在しなかった動物であることや、さらに縄文人は猪、弥生人は鹿を祭儀の際に神への供物として捧げる習俗があったと考えているからです。おそらくその後に仏教伝来の影響で牛の神聖化が行われ、牛肉を食べることが禁忌されますが、その源流にあったのは猪や鹿であり、一概にこうした神道の習俗が仏教の影響だと私は考えていません(ただし、こちらが一般的な考えです)。むしろ仏教伝来以前から、こうした習俗の源流は日本に流れており、それが仏教によって厳密に体系化されたのが正しい視点に思えます。

出雲では基本的に参拝前三日間の四つ足の獣を避けることが語られていますが、より徹底した人々は魚(特に生魚)や酒なども慎む場合があり、ここから『精進料理』と呼ばれる動物性食材を使わない献立で数日過ごすことも行われました。こうした精進料理の文化は、本来は仏教の戒律に由来すると考えられがちですが、神道の世界でも「身を清める食事」として受容されていきました。神社で神に対する供物を捧げる光景を頻繁に見ますが、その供物の内容や配置、さらには重要性などを見ていると、意外とこの習俗はかなり古い時代に起源を持つように思えてなりません。だからこそ、私たちは神社参拝をもっと歴史的側面から考え直し、古来の作法に基づいて可能な限り準備を行うことが重要だと考えます。

要するに、参拝前の肉断ちは身体的な浄化であると同時に、自らの精神的なケジメでもあるということです。肉を絶つという行為は、自らに対し「これから神聖な行為に臨む」という覚悟を促します。こうして日常の欲を断ち切ることで、敬虔な心持ちを高め、神へ向き合う姿勢を整える狙いがあることは事実です。現代では一般の参拝で事前に肉食を控える習俗はなくなり、人々は好き勝手に食事を行い、かつ自分たちのタイミングで神社に訪れますが、こうした古い風習が伝える精神性は今なお意義深いものであり、守らなければ神社参拝は効果がないどころか、むしろ悪影響を与えかねません。

そこで今一度、古来の作法に基づいた出雲大社参拝を行うために、私は参拝前三日間は四つ足の肉食を避け、さらにこの期間は神聖な湧き水を飲んで過ごし、心身の状態を整えた上で早朝に参拝しました。出雲大社自体は何度も参拝していましたが、確かに作法に基づいた参拝方法を行った今日、いつもとは異なる強い神の霊力を感じました。これは自分自身が神と向き合う準備ができたからであり、逆に言えばそのようなことをせずに神社に出向いたとしても、大きな効果は得られないということです。

この発見は個人的に重要で、神道信仰の側面を多角的に見直す鍵となります。現代ではほとんど無視されていますが、神道は以上のように「穢れ」を「清める」準備を行なってから、初めて神に祈りを捧げることができます。神道に限らず、様々な宗教における信仰にも同様のことはあるでしょうが、信仰というのは中々言語化することが難しいため、現代のような情報社会に生きる人々には中々理解されることはありません。

しかし、神に向き合う態度を改めた時、初めて神と向き合うことができるという経験は、今後の私の調査にも深い影響を及ぼすであろうことを確信した出雲大社参拝でした。