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奈良朝廷における藤原氏の台頭Rise of Fujiwara Power in Early Nara Court

昨日の記事では、興味深い平安時代の貴族台頭を理解するために、重要となる古代氏族の朝廷における権力闘争について見てきました。おそらく現代日本が比較的安定した国という印象が強いことから、まさかここまで動乱の時代が貴族の黄金時代と関わっていたとは読者も思わなかったかもしれません。そこで今回はさらに深く掘り下げていき、仏教と絡み合いながら政治的陰謀が高まる時代について見ていきます。

昨日見た通り、中臣氏勃興の直接的な要因となった中臣鎌足が、645年の大化の改新という大きなクーデターにおいて同胞として戦い、後に即位した天智天皇から功績を評価されて藤原の姓を賜ったことから始まります。しかし藤原鎌足(中臣鎌足)の没後、再びクーデターが生じて新たに天武天皇が即位し、その時に藤原鎌足の子であった青年が若かったことから政治覇権を巡る処罰を免れて下級官人からキャリアを始めたことが藤原氏にとって救いとなります。こうして藤原氏による黄金時代を形成する藤原不比等(659~720年)が登場する土壌が整い、歴史は再び大きく変動して新たな時代を迎えます。

まず、684年に第40代・天武天皇(在位: 673-686)は統制を強める目的から『八色の姓』を制定します。これは氏族の地位・身分を明確に区別して位置付る試みですが、この時に天智天皇時代から改姓の始まった中臣氏一族にも、引き続き「藤原」姓の使用が許されます。やがて第42代・文武天皇(在位: 697-707)の698年になると、藤原不比等の権威が高まったことから、不比等の働きかけによって天皇から詔を出させることに成功し、不比等の系統のみが正式に藤原姓を継承することができると定められます。この時、藤原鎌足の弟・藤原臣麻呂らの系統などは藤原の姓を使用することを禁じられたため、再び以前使用していた中臣姓に戻って神事を司ることとなり、藤原氏は分裂します。この政策によって生まれた影響としては、藤原不比等の家系が藤原氏として政治権力を担い、中臣氏側は本来の職責である神祇官を中心とする祭祀を担当する形で明確化されます。つまり、政治的実権は藤原不比等の系譜以外の藤原氏は持つことができなくなったのです。

そして藤原不比等は、父・鎌足の遺志を継いで飛鳥末~奈良初期の朝廷で一気に頭角を現します。特に不比等は天武天皇時代にはそれほど主な功績はありませんでしたが、天武の皇后であり、天武亡き後に皇位を継承した第41代・持統天皇(在位: 690-697)の治世下で重用され、その政治手腕を存分に発揮します。この背景には様々な説が提示されていますが、一説には持統天皇と藤原不比等が密通関係にあったと言われています。真偽は不詳ながら、元々有力氏族の出自である不比等が権威を高める手法としては十分に考えられることであり、こうして持統天皇時代に一気に頂点に上り詰めたとも言えるでしょう。

事実、時代はクーデターに次ぐクーデターが起きて政変が頻出しており、さらに朝鮮半島の覇権を巡る動乱も激化していたことから、政治執行能力は従来以上に異端児が求められていました。この時代の荒波を乗り越えるには、天皇よりも政治手腕に長けた人物が躍進する最大の機会とも言え、この機を逃さずに不比等は迅速に藤原氏台頭の礎を築きます。中でも、彼は持統天皇の時代に行われた唐を模倣した国家作りである「律令国家」の確立に深く関与し、701年の『大宝律令』や718年の『養老律令』の編纂に携わるなど、奈良時代の律令政治の礎を築いた功労者としても知られています 。こうした圧倒的な執行能力を持つ不比等を、当時の天皇は重用する以外に方途はなかったのです。

そして持統天皇から文武天皇への皇位継承に際しても、不比等は幼い軽皇子(後の文武天皇)を即位させたい意思を持つ持統天皇を支援し、そのために表に裏に奔走して文武天皇として強行的に即位させています。そこから熟知している律令制度を通じて皇太子の制度を明文化、これによって皇位継承を安定させるなど、今日の天皇に繋がる不比等の影響力は極めて大きいものでした 。さらに不比等は未来を見据えて、自らの娘を皇族に嫁がせる外戚戦略を巧みに展開します。こうした政治才覚は、かつての蘇我馬子を彷彿とします。

たとえば、彼は娘の宮子を文武天皇の妃として嫁がせ、そこで生まれた首皇子(のちの聖武天皇)の外祖父となることで、藤原氏が皇室外戚の地位を獲得するまでに至ります。また別の娘・安宿媛(のちの光明皇后)を首皇子に嫁がせることにも成功、ここで藤原氏は皇統に深く食い込み、自らは裏で政治的実権を掌握する体制を続けます 。このように不比等は持統・文武天皇からの信任を受けて活躍し、同時に皇位継承に影響力を行使して一族繁栄の基盤を固めていきました。

この不比等の目論みは、彼の死後に大成します。ここで藤原氏の勢力は彼の四人の息子たち、いわゆる『藤原四子』によって引き継がれました。不比等には異なる妻との間に武智麻呂(たけちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)の四人の男子がおり、それぞれが後に南家・北家・式家・京家という四つの藤原宗家の祖となります。この四兄弟は奈良時代前期の政界で協力しつつも、勢力を競い合うことによって、藤原氏の影響力を最大限に拡大しました。

四子が本格的に台頭したのは、729年に起きた『長屋王の変』です。天武天皇の孫で皇族の長屋王は、当時から朝廷内で大きな権勢をふるっていましたが、藤原四子は長屋王が藤原氏の地位を脅かすことを恐れ、彼に対して謀反の嫌疑をかける策謀を共謀します 。その結果、皇族の長屋王が自殺に追い込まれ、事件後は武智麻呂・房前・宇合・麻呂の兄弟全員が太政官の公卿に列せられて政務を全体的に主導するポジションを占めます。ここで天皇含めた腹心たちは藤原氏を恐れるようになり、「藤原四子政権」と呼ばれる事実上の独自政権が樹立します 。これにより藤原氏は一族の中でも中枢を占める体制を築き、後の貴族台頭の契機を固めました。

さらに注目すべき点としては、四子が父・不比等譲りの外戚戦略を継続したことです。不比等の娘で彼らの異母妹にあたる光明子を729年に第45代・聖武天皇(在位: 724-749)の皇后に立てると、藤原氏は皇族との姻戚関係を一層深める過程で政治的発言力が強まります。つまり、政治のみならず皇室にも介入したことによって藤原氏の黄金時代が到来したということです。しかし、このまま絶大な影響力が続くかと思われた矢先、思わぬ出来事によって事態は急展開を迎えます。それが天然痘の流行です。

737年に当時の政治中枢地であった奈良一帯で天然痘が流行し、ここで武智麻呂・房前・宇合・麻呂が相次いで病没したことで、藤原氏は一時的に大きな打撃を受けます 。その後、しばらくは皇族出身の橘諸兄(684-757)が政権を主導する時期もありましたが、この期間に藤原氏に匹敵する勢力が登場しなかったことから、やがて藤原北家系統(房前の子孫です)などによって8世紀後半には再び藤原勢力が台頭します。そして794年に天皇と政治機能が京都に移行する平安京遷都が起きると、そこから始まる平安時代に藤原氏が政権の中枢に戻っていくことになります。もう一度言っておくと、平安時代は貴族の台頭時代です。

また異なる視点から見ると、藤原不比等と藤原四子が政治的に優れていたもう一つの側面があります。それは当時、朝廷の大きな問題であった仏教勢力との関係です。前回も伝えた通り、藤原氏の祖である鎌足は、元々は神道祭祀を司る古代の中臣氏出身です。しかし、中臣氏は蘇我氏打倒後も仏教そのものを否定する強い態度を取らず、むしろ国家の安定に仏教を活用する姿勢を維持します。これは神道派の権威を有していた物部氏が仏教への否定態度を堅持した結果、失脚して以降、二度と再興することはなかったことも関係していると思われ、そうした時勢を冷静に読み解いた鎌足の政治的均衡をはかる態度が藤原氏勃興の重要なファクターになったと考えられます。つまり、神道か仏教かという従来の選別ではなく、政治的に利用できるものは利用するという態度に新時代の鍵があったのです。そこを多くの氏族は理解することができませんでした。

実際、鎌足の子の不比等自身も、藤原氏の氏寺である奈良・興福寺の発展に寄与しており、仏教経典の編纂や寺院建立にも理解を示しています。興福寺は元々鎌足の妻が発願して創建した山階寺を前身とし、藤原氏の庇護のもとで奈良の都に移されて隆盛した寺院です。現在はかなり小規模な寺院となりましたが、かつては奈良で最高の権威を誇りました。そして不比等の時代には、他にも薬師寺や大安寺などの国家鎮護を掲げる有力寺院の整備も進められ、これによって仏教は政治と深く結びつくことになります。つまり事実上、日本仏教史の観点から見ると、仏教を促進した蘇我氏を継承する形で、仏教を根付かせたのが藤原氏だと言えます。これは単に『中臣氏=神道』と見ると見誤るということです。信仰よりも政治の側面から見る必要があります。逆に言えば、仏僧が宗教以上に政治・武力にまで関与する平安時代以降の流れもここに生まれています。

不比等が台頭した聖武天皇の治世は、藤原氏と仏教勢力の協調関係が頂点に達した時期です。ある意味、一度没落したかに見えた藤原氏の台頭は、著しい勢力拡大の途上にあった仏教勢力を味方につけることで実現されたと言えますが、これは両者ともに利害関係が一致していたからです。さらに不比等の娘・光明皇后は深く仏教を信仰しており、夫である聖武天皇のもとで仏教による国の安定を積極的に支援しました 。これが仏教が大きく躍進した最大の理由です。つまり、日本において仏教浸透の真相は、信仰の側面が優れていたからではなく、政治的に利用価値が高かったことが深く関係しています。そうした一般的に語られない事実は、実は蘇我氏から藤原氏の台頭の歴史から読み解くことで理解できるのです。