平安貴族の黄金時代の源流:中臣氏から藤原氏へOrigins of Heian Aristocracy's Golden Age
平安時代の貴族の実像を理解できる紫式部の『源氏物語』に代表されるように、当時は日本史で唯一貴族による権力掌握が高まった時代です。この貴族政治の栄枯盛衰の潮流から、侍文化に繋がる武士の台頭が直接的に起きるため、この時代の理解は必須となります。では、どのようにして貴族は台頭したのでしょうか?武士の台頭同様、貴族の台頭にも興味深い歴史の動きが古代からあり、突然起きたものではありません。そして貴族勃興の契機は、たった一つの家系から始まります。それが藤原氏です。
歴史的には、飛鳥時代(592-710)から奈良時代(710-794)にかけて、皇室とゆかりの深い貴族として藤原氏が急速に台頭しました。日本の古代氏族から貴族への変遷は馴染みがなければ難しいのですが、この藤原氏の源流は中臣氏と呼ばれる古代氏族です。この『中臣氏→藤原氏』が同じ系譜であることをまずは理解して読み進めてください。中臣氏は神話時代よりルーツを持つ有力氏族の一角であり、古くから皇族と縁の深い一族ですが、特に天皇の祭祀に関わる職責を担っていました。
中臣氏の起源となる祖神は「アメノコヤネ(天児屋命)」です。アメノコヤネは古事記や日本書紀に登場する神で、天皇の皇祖神に位置付けられる「アマテラス(天照大御神)」の『天岩戸隠れ』という神話において、アマテラスが洞窟に隠れこもって世界が闇に包まれた際、外に出すために神々が祭祀を行うのですが、その重要な神事を行なった神です。注意が要されるのは『アマテラス=太陽の象徴』と見做される傾向は日本でも根強いのですが、そうした側面はあってもイコールではないということ、つまり多義的な信仰をアマテラスは含有している点です。厳密にアマテラスが太陽神に位置付けられたのは遥か後世のことであって、当時そのような一元的な信仰はありませんでした。
この神話時代以降、中臣氏はアマテラスの直系である天皇の系譜と深く関与しながら、朝廷の政治に参画する重要な要職を担います。しかし、Shitsuraeでも幾度か触れている激動の仏教伝来時代に入ると、大陸や朝鮮半島から渡ってきた人々とも結びついて勢力を拡大した新興氏族の蘇我氏の台頭により、事態が急変します。仏教伝来を巡って氏族は大きく『排仏派』と『崇仏派』に分裂、前者の代表格はこちらも古いルーツを有する神道の開祖的位置にある物部氏でしたが、中臣氏も事実上、こちら側に位置していたと考えられます。
当初、両派は天皇に仏教の受容・拒絶を求める激しい議論を繰り広げるだけでしたが、やがて蘇我氏は仏教問題と皇位継承問題を表向きに掲げ、千載一遇の機会と捉えて物部氏の本拠地に攻め入り、物部氏の当主・物部守屋を殺害したことで歴史が変動します。これは『丁未の乱(552-587)』と呼ばれます。これまで従来の朝廷の勢力図では、神道派と言える物部氏・中臣氏・大伴氏の三本柱が圧倒的な実権を握って天皇を動かしていたのですが、ここに至る以前の朝鮮半島の情勢変化と絡まり、大伴氏が朝鮮利権の賄賂を巡る問題で物部氏と衝突して失脚するなど、内輪揉めと呼べる権力闘争が行われて求心力が低下していました。
この闘争で有力な大伴氏を追い出し、実権を掌握した物部氏でしたが、今度は仏教伝来の追い風を受けた蘇我氏によって断絶します。こうして排仏派が一掃された影響で、中臣氏の実権も弱体化したと考えられます。そして蘇我氏の当主であった蘇我馬子(551-626)が長寿であったことも相まり、彼は朝廷での実権を何と54年にも渡って掌握する独裁時代が続きました。この間、仏教が急速に普及したことは言うまでもありません。
しかし渡来の人々とも結びつきの深い蘇我氏の覇権に対して、快く思わない物部系の残党が多くいたことも事実です。特に蘇我馬子は天皇を凌駕する権力を有しており、自らの実権に不満を抱いた第32代・崇峻天皇(在位: 587-592)を即座に暗殺するなど、周囲が不満を抱える要素も当然持っていました。一応、歴史的に天皇が暗殺されたのはこの時だけだとされています。蘇我馬子は不穏な話を聞けば即座に対応していたため、彼に対するクーデターを仕掛けることは不可能で、全く太刀打ちできませんでした。そのため、彼が没するまで時機を伺い、着実に蘇我氏独裁政権を転覆する画策が密かに行われていたと言えます。この源流が蘇我馬子没後頃から、露骨な動きとして現れてくるのが興味深いのです。
やがて626年に蘇我馬子が没すると、その実権は子・蘇我蝦夷(586-645)と蝦夷の子・蘇我入鹿(?-645)に引き継がれます。しかし絶大なカリスマ的政治手腕を持っていた馬子に対して、蝦夷・入鹿はあまりにも劣ったことから、蘇我氏権威を維持することができなくなり、徐々に混乱に陥ります。この蘇我氏衰退の兆しを見逃さず、新たな時代を作る動きが蘇我氏の本拠地のすぐ側で行われいました。
ではそのクーデターの秘密会合は、どこで行われたのでしょうか?それが今日の談山神社の奥地だと伝わります。これは地理的に見ると面白いのですが、蘇我氏の本拠地は現在の奈良県南部の飛鳥地方でしたが、談山神社は飛鳥から南東の山間部「多武峰(たのみね)」という地域にあります。つまり蘇我氏の本拠からそれほど遠く離れていない山奥で、蘇我氏に対するクーデターの秘密会合が活発に行われていたのです。ここで蘇我氏を打倒して、再び実権を天皇に取り戻そうとする動きが起きるのですが、この状況はまるで足利氏から徳川家の将軍政権時代を経て、天皇に実権を回帰させる政治体制を目指した明治維新と酷似します。こうして見ると、歴史が繰り返していることが分かります。
この談山神社に集った主要人物は二人いました。一人目が中大兄皇子(626-672)で、彼は後に天智天皇として即位する天皇の系譜です。そしてもう一人が中臣鎌足(614-669)、つまり中臣氏の末裔です。この皇統と中臣氏末裔が手を組み、再び実権を蘇我氏から引き戻すことを画策しました。こうして起きたのが645年の『大化の改新』です。このクーデターによって蘇我入鹿は暗殺され、それを知った蘇我蝦夷は翌日に自らの邸宅に火をつけて自害します。ここにもかなり複雑な政治的事情が関与しており、蘇我氏側にも「馬子ー蝦夷ー入鹿」の権威を快く思わない一部の者が居り、蘇我氏の内情を中大兄皇子・中臣鎌足に内通していました。
結果的に蘇我氏(本流)はここで朝廷の政治から排除されますが、この時に蘇我蝦夷が当時蘇我氏の保有する書庫など全てを焼き払って証拠隠滅を図ったことから、後代に多くの混乱が生まれて古事記制作が行われる理由にも繋がっていきます。
こうして中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターは成功しますが、奈良県南部には大陸や朝鮮半島から渡来した人々がかなり多く暮らしていたことから、その動きに配慮して中大兄皇子(天智天皇)はすぐに即位せず、表向きには別の天皇を擁立して裏で実権を握ることに終始します。ただ事実上、この大化の改新以降は天智天皇の時代と考えて構いません。そして中臣鎌足は最大の功績を認められて、天智天皇の腹心となります。
ここで中臣鎌足が亡くなる直前に『中臣氏』から『藤原氏』に改姓した時、藤原氏が誕生しました(つまり藤原鎌足)。そして鎌足が亡くなる時、彼の次男として生まれた子供はまだ11歳でした。しかも激動の時代は収まらず、天智天皇時代に朝鮮半島を巡る戦争で唐・新羅連合軍に大敗、さらに朝廷の皇位継承を巡って天智天皇没後になると、今度は別のクーデター(672)に起こったことで、時代は混迷を極めます。この時、クーデターで新たな天皇として即位した天武天皇は、この鎌足の子供が14歳であったことから特に処罰を行わなかったのですが、天武天皇は朝廷から藤原氏(中臣氏)を一掃する措置を取っており、後ろ盾を失ったこの若者は下級官人の立場からキャリアを始めなければなりませんでした。
しかしこの若者が、蘇我馬子に匹敵する政治的手腕の才能を持っており、後に藤原氏黄金時代を築く絶対的な存在になるとは、当時誰も思わなかったでしょう。
この人物こそ、藤原不比等(659-720)です。やがて藤原不比等は朝廷の実権を完全に掌握し、巧みな政治力を活かして天皇を取り込み、さらに彼の四人の息子たち(藤原四子)を分散して藤原氏黄金時代の創造することになるのです。