侍の官僚化と日本の近代官僚制Samurai Bureaucracy Fuels Japan's Seamless Modernization
昨今、脱官僚制国家への動きが各国で高まり始めていますが、今回は今後その流れを受けて、変動が生じるであろう日本の官僚制について独自の視座を示します。西洋諸国とは異なる歴史から生まれた日本の官僚制は、鎖国時代を終えた明治時代に入ると、不思議な形で樹立されたからです。従来の視方では、日本の近代官僚制は明治期の西洋諸国の影響を受けて、それらを複雑に模倣した結果形成されたという認識が強かったのですが、私はこの視方に懐疑的です。なぜならば、近代官僚制の樹立以前の江戸時代において、既に基礎は強固に形成されていたからです。一体、誰が江戸時代の官僚的性格を持っていたかと言えば、意外に思えるかもしれませんが侍(武士)です。
侍というと、どうしても戦に関係する武士のイメージばかりが先行するため、どちらかと言えば軍事階級と見做される傾向にあります。しかし江戸時代は侍の群雄割拠による戦乱を終えて樹立された長期的安定体制であり、支配権を握った徳川家康(1543-1616)に連なる徳川家は中央集権的な幕府を江戸に置き、朝廷を京都に残した状態で、各地の動きは藩に分散することで体制維持をはかります。そして江戸時代を通じて比較的安定していたため、戦はなくなりますが、ここで処遇が問題となったのが侍でした。侍は古くから朝廷、貴族、武将などの傭兵的性格を持つ人々でしたが、戦がなくなれば侍の活躍する機会はありません。さらに江戸時代は比較的身分の固定が特に上流階級で進んだため、徳川家康に深く関連しない侍の末裔は不遇となります。
しかし幕府は統治を緩やかに持続するべく、この侍を放置しておくわけにはいかず、江戸時代をかけて侍を飼い殺しにする諸政策を実施することで骨抜きにします。いわば一部の例外を除けば、江戸時代の大半の侍の実態は、ただ刀で武装した人々に過ぎませんでした。実際、生涯で一度も刀を使わなかった侍は大勢いたと伝わります。そうした中で侍は新時代の生存をはかるべく、有力な藩主などの護衛などを担う仕事に向かっていくのですが、「幕府ー藩」という高度な統治体制の中で徐々に官僚的性格を帯びてきます。ただし、血気盛んな人々が多い侍に対して、官僚的性格を持たせることは容易ではありません。そこで徳川家康が目をつけたのが、中国に倣った文治主義を体制哲学に採用し、強固に思想固めを行うことでした。
各藩では家老や奉行といった職制が整備され、武士階級が政治・行政の現場を独占して統治に当たりますが、これは侍が支配階級として官職(「役」)を世襲しつつ、行政実務を行う体制が既に確立していたということです。この侍による官僚統治を理念面で支えたのが、朱子学を中心とする中国由来の儒学思想でした。江戸時代はそれまで体制哲学の地位を占めていた仏教派を追い払い、神道も力を失っていたことから新たな哲学が要求されるのですが、ここで徳川幕府は儒教の中でも体制にとって都合の良かった『朱子学(南宋の朱熹の学派)』を統治原理に取り入れ、若干23歳の若さであった林羅山をイデオローグに抜擢し、以降は羅山に連なる林家を幕府の教授所(昌平坂学問所)の大学頭に据えて、体制のイデオロギーとしました 。この朱子学には『天は尊く地は卑し。人にも君臣の別あり』という上下身分秩序の原理(上下定分の理)を強調する性格があり、主従関係を正当化する思想としては最良のものだったのです 。
歴史的状況から見れば、朱子学は幕藩体制のイデオロギー原理として採用される必然性があったと言えます。仏教や神道、さらには他の儒学(例えば陽明学など)よりも、日本に適合した形に変換させた林家朱子学のほうが、支配者層のニーズに最も適合していたからです。事実、林家朱子学は幕府の官学となって隆盛しますが、注意が必要なのは幕府は幕藩に所属する有力な家系の人々には林家朱子学を徹底しましたが、他の町人や学者などの次元では学問の自由を広く認めていたことです(ただしキリスト教だけは禁止)。この林家朱子学はやがて『武士道』の精神的支柱として機能しますが、ここで日本の近代官僚制を知る上で最重要の人物が、山鹿素行(1622-1685)です。
特に彼の提唱した『士道』は、武士は勇敢さよりも道徳的な統治者として農工商を指導すべきと説き、武士階級の新たな社会的使命を位置づけたことに大きな特徴があります。即ち、侍は従来の軍事的役割に依存するのではなく、官僚的な統治者として幕藩に従属し、他の人々を管理することが職務だとすり替えたのです。こうした儒学思想の広がりによって、武士は軍事的性格に限定されていた従来の状態から、『文武二道』に秀でた官僚として自己規律と統治責任を自覚する独自の風土が醸成されたのです。これが『武士道』精神の根源です。
こうして「林羅山ー山鹿素行」以来、歳月をかけて侍は官僚的性格を強めるようになりますが、やがて幕府の統治が限界に達した時、新たな波が押し寄せます。その大きな潮流となったのが、長州藩(現在の山口県萩市地域)です。長州藩(萩藩)は、幕末維新で主導的役割を果たした藩の一つだったのですが、その内部の『武士の官僚化』は特に顕著でした。さらに長州藩は江戸中期から藩校による人材育成に力を注ぎ、1718年に開設した藩校・明倫館では、朱子学を中心とした教育が行われていました。明倫館の初代学頭となった小倉尚斎(1677-1737)と藩主・毛利吉元(1677-1731)が林家の門人であったことから、明倫館のカリキュラムは江戸幕府の昌平坂学問所を模範に朱子学を講じたからです。また長州藩では藩士の能力登用にも工夫が凝らされ、身分の低い者でも才覚があれば藩士身分に取り立てる独自制度も存在しました。これが可能だったのは、江戸や京都からかなり距離がある辺鄙な地域だったからです。つまり、地理的に監視の目が届きにくかったのです。
長州藩の試みは、当時の身分制度を緩和し、人材を広く発掘する先進的な試みであり、結果的に長州から有能な人材を多数輩出することになります。実際、長州出身で後に明治政府の中枢を担った伊藤博文(1841-1909)や品川弥二郎(1843-1900)らも、元は下級武士の家に生まれましたが、こうした教育制度や私塾を通じて才能を開花させた人々です 。ここで長州藩のイデオローグとして躍動した最重要人物が、吉田松陰(1830-1859)です。今も山口県では吉田松陰は神として崇められています。
萩市の長州藩士の家に生まれた吉田松陰は、前述の山鹿素行の創始した『兵学』の一派である『山鹿流』を養子先の叔父の元で叩き込まれ、やがて叔父が死去すると別の叔父が開いていた松下村塾で学び続けます。何と9歳の時に藩校・明倫館の兵学師範に就任し、11歳の時点で藩主に才能が認められて大抜擢されています。その後も基本的に兵学を熟知した松蔭ですが、ここに山鹿素行の官僚的イデオロギーが彼の中に入っていることを見逃せません。松陰が主宰した松下村塾でも、藩の意向を受けて身分問わず門戸を開き、下級藩士や庶民の子弟に政治などの学問を授けます。
この事実上の長州藩における身分撤廃状態の中でチャンスを得たのが、藩校への入学を許されない最下層の侍身分に生まれた山縣有朋(1838-1922)でした。当時、過激なイデオロギーに傾倒していた松蔭は、松下村塾を表看板にしながら、裏では幕府転覆のイデオロギーを若者たちに叩き込み、さらに得意な兵学を駆使して目的のためには邪魔者を始末しろという考えを浸透させます。つまり、事実上のテロリスト養育機関として機能していました。松蔭自体は危険思想から29歳の若さで処刑されますが、このイデオロギーを継いだ長州の若者たちは、松蔭を処刑した幕府に強烈に敵対し始めるようになり、やがて表向きに天皇の統治国家という理念を掲げて、倒幕運動を展開する首謀的存在の一つでした(徳川家の失墜)。つまり、この時点で長州系下級武士たちは官僚的性格に加えて軍事的性格を秘めており、やがて幕府が瓦解した後の近代政府の樹立において躍動する土壌ができていたのです。
そして近代政府と言える明治新政府の要職を牛耳った長州藩の役人たちの中で、初代内閣総理大臣として就任した伊藤博文以上に、現代日本にまで深刻な影響を与えることになる人物が登場します。それが前述の山縣有朋だったのです。実は、彼こそが日本の近代官僚制国家の樹立者です。
今回はこうした概観を見てきましたが、これだけでも日本の近代官僚制への移行がスムーズに行われた根本的な理由が、そもそも江戸時代の侍たちが官僚状態に陥っていたことが深く関係していることが見えてくるはずです。こうして近代西洋の官僚制を参照しながら、日本は独自の官僚制国家を形成していくのですが、この強固な官僚支配形態が後に様々な問題を引き起こす元凶となり、意外に思えるかもしれませんが第二次世界大戦後のヤクザ勃興と深く関わっていきます。
この辺りを今後、詳細に見ていきましょう。