去って戻らない神々の神話Departing Divinities of Ancient Japan
日本の古代神話には、神がこの世を去り、二度と戻ってこないという不思議なエピソードがしばしば登場します。これは別途書く予定の周期的に訪れる神を意味する『来訪神』とは、対照的な“一度去ったきりの神”についての物語です。先に『去る神』について理解することで、日本の重要な古代概念である『来訪する神』への理解が深まります。なぜ古代の人々は、このように「神が去る」モチーフを描いたのでしょうか。その背景には、神と『常世(とこよ)』や『黄泉(よみ)』などの神話に登場する他界との関係、そして神と人間界の距離感に対する古代日本人の独特な信仰観がうかがえます。本記事では古事記(712)や日本書紀(720)に記された代表的な「帰ってこない神」の神話を幾つか参照しながら、その意味を考察します。
中でも最も有名なのは、『国生み』と呼ばれる日本の創成神話において登場する女神イザナミが、『火神』を産んだ際に亡くなり、『黄泉の国(死者の国)』へと赴く説話です。イザナミが去ったことで夫のイザナギは嘆き、黄泉まで追いかけて「国づくりはまだ終わっていない、一緒に帰ろう」と呼びかけます。しかしここでイザナミは「黄泉国の食べ物を食べてしまったので、もう帰れません」と告げ、帰れるか否かを黄泉の神と相談すると言い残して姿を消します 。結局、イザナミは現世に戻ることはなく、二神の再会は叶いませんでした。
この神話が表象しているのは、「黄泉の食物を口にすると帰れない」という古代日本の禁忌であり、一旦死者の国に入ると、現世への帰還が不可能であることを語っています 。イザナミは文字通り、最初の「帰ってこない神」となり、以後は『黄泉津大神』として冥界にとどまったと伝えられています。まさに生と死の世界の断絶を複雑に示すこの物語は、古代人が死の不可逆性を察知し始めた時代の最初の記憶であると同時に、「神ですら一度死者となれば戻れない」という厳粛な世界観を表していると考えられます。
続いて、現在の島根県にある出雲大社に関連する『国譲り』として知られる神話では、天皇の皇祖神に位置付けられるアマテラスが、地上の世界を統治するオオクニヌシに国を譲ることを求めるため、天界(高天原)から使者を遣わします。しかし最初の使者、続く使者もオオクニヌシに心酔して使命を放棄し、彼らもアマテラスのもとに帰ることはありませんでした。こうした「帰ってこない神の使者」の存在は、神話世界においてすら、任務より地上の魅力を選ぶケースがあることを示しています。この説話は、天皇が既にかなりの政治力を獲得し、神話を編纂する8世紀初頭の政治的暗喩としても解釈されますが、表面的なストーリーとしては、「神ですら使命よりも情(なさけ)を優先し、帰還しないことがある」という、人間味ある神々の姿を描いていると言え、日本人にとって神と人間が分離されておらず、極めて近しい存在であった姿が彷彿とされます。
さらに、山と海に関連する兄弟の神が争う『ヤマサチ・ウミサチ』の神話では、海神の娘であるトヨタマヒメがヤマサチと結ばれ、やがて子を身ごもるのですが、トヨタマヒメは出産のために海辺に産屋を造らせ、決して中を覗かないよう夫に頼む説話があります。結果的に夫は好奇心に負けて覗くと、彼女はヤヒロワニ(八尋和邇)という大きな鮫の姿で出産していたことから、正体を見られたトヨタマヒメは深く恥じて、「二度とお会いできません」と赤子を妹に託し、そのまま海原へと帰って行ってしまいました 。この赤子が後の初代天皇として即位する神武天皇の父神にあたります。トヨタマヒメはその後決して現世に戻らず、夫婦の縁は断たれてしまいますが、この物語は「異界から来た妻が禁を破られて、姿を見られると去ってしまう」という、世界各地に見られる異類婚姻譚のパターンでもあり、神話に限らず日本の民間伝承などにも異なるパターンで無数に見られます。
神話におけるトヨタマヒメの姿は、海の彼方の「常世」に属する存在が現世に長く留まれないことを象徴しており、裏を返せば、古代の人々は海の彼方から来た神秘的な神が、ある条件が損なわれると去って戻らないことを信じていたとも解釈できます。この古い源流が後に日本民俗学の重要概念となる『客人(まれびと)』に繋がってきます。その他にも多くの同型の神話が残されており、古事記や日本書紀だけでもそうした信仰や観念が深く共有されて8世紀まで残っていたことが分かります。
そして何より、出雲大社の祭神であり、出雲神話の中心であるオオクニヌシ自身も、最終的には現世から姿を消す重要な神です。アマテラス率いる神との国譲りで敗れたオオクニヌシは、「自分は見えない所に隠れ住むので、代わりに立派な神殿を建てて祀ってほしい」と条件を出しました 。やがて国譲りが成立すると、オオクニヌシは約束通り幽界に退き、姿を隠してしまい、以後は常世や幽冥と呼ばれる世界に留まり、現世には直接姿を表さなくなりました。こうしてオオクニヌシは、出雲大社に魂のみ祀られる神となり、地上を去った神となったのです。これが出雲大社創祀の起源に関わります。
ここでは僅かな例を簡潔に挙げたに過ぎませんが、このように古事記や日本書紀には、一度この世を去った神は二度と戻らないという例が数多く見られます。上記の例だけでも、いずれも神が何らかの理由で現世から離脱し、そのまま復帰しない物語として語り継がれています。この神話における「帰ってこない神」のモチーフは、古代日本人の神観や世界観を反映しています。まず注目すべきは、他界観念との結びつきです。特に代表的な『黄泉の国』や『常世の国』といった他界は、一度入れば容易には戻れない場所と考えられていました。イザナミの黄泉国神話が語るように、食物禁忌はその典型であり、他界に属するものを口にすると現世に帰還不能となる古代のルールが示されています 。この時に鍵となるのは、山深い地域や海の地域ですが、その彼方の世界から神が来臨し、またその彼方の世界へ帰っていくと考えた節があります 。
民俗学者の折口信夫も、「海の彼方の常世の国から年に一度か数度この国に来る神」を『常世神』と呼び、日本の祖先たちがそうした来訪神信仰を抱いていたと述べています 。そして最も肝心なことは、折口が本来は海の彼方から来る神が信仰の原型で、それが後に山や空から来る神へと形を変えていったと指摘した点です。この説から見ると、古代神話の「去って戻らない神」は、来訪神的な神観念の原初的な表れとも言え、神は常世など異界から訪れ、一仕事を終えると自らの世界へ帰っていくということです。これは単なる神話以上に、海に囲まれた島国であり、中国や朝鮮と近い古代日本の歴史を示唆しているようにも思います。
ただし、古代神話に描かれる神の現世からの離脱は、後に民俗行事の来訪神として全国各地で語られるような、周期的な再訪を前提としたものはありません。ある意味、古事記や日本書紀の神話は、唯一無二の過去の出来事、特に天皇や有力氏族のルーツを正統化することを前提に物語をまとめたため、そこで去った神は「以後帰還しなかった」という形で語られることによって神格化が付与されたとも言えます。例えばトヨタマヒメは毎年海の彼方から戻ってくるわけではなく、夫との間の約束が破られたため永遠に去りました 。このように神話の文脈では、神の離去は取り返しのつかない喪失として描かれるのが特徴です。それは禁忌を破った人間側の過失への報いであったり 、あるいは新たな秩序確立のために古い在地の神が退場する必要性であったりするのですが、古代日本史を調査し続けている私自身も各地を巡る度に、太古の昔である縄文時代や弥生時代に、こうした神話の源流となる実際の出来事が起きたと考えています。
この「帰ってこない神」の神話は一見寂しげですが、古代日本人の世界観を雄弁に物語っています。逆に言えば神が去ってしまうからこそ、その土地の人々は祭りによって再来を願い、祈りや鎮魂の儀礼を行ってきた歴史が集積されたと言えます。そして神話で現世を去った神も、黄泉や常世、あるいは霊的な形でこの国を見守っていると信じられ、全国各地で多様な形で祀られています。たとえばイザナミは、和歌山の熊野や島根の出雲で祀られ、トヨタマヒメは各地のトヨタマヒメ神社に鎮まり、時に魂の性質を分化しながら、示唆的に分散して奉祀するようなこともしています。つまり帰ってこないように見えても、神は姿を変え、場所を変えて人々と関わり続ける、それが日本人にとって神との距離が極めて近い一つの理由かもしれません。
古代日本人にとって大切だったのは、神が常にそばに留まることではなく、適切な時に来訪し、また然るべき時に去ってゆくことでした。その循環によって自然と社会の調和が保たれると考えたのでしょう。これが後に、限られた特定の時期にだけ来訪する『来訪する神』になっていくのですが、ここで登場するのが『まれびと』という神の概念なのです。