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上皇明仁と平成:象徴天皇の歴史Akihito's Heisei Era of Compassionate Unity

今日、上皇明仁が心筋虚血の可能性で東大病院に入院することになりました(上皇とは退位した天皇のことです)。日本では天皇ごとに『元号』が変わり、現在は『令和』と呼ばれますが、彼の時代は『平成』です(1989年1月8日から2019年4月30日まで)。平成は11,070日で30年弱も続き、歴代天皇の中では4番目の長さでした。私は1991年生まれですので、まさに上皇明仁の時代に生まれ、人生の大半を平成で過ごしてきました。上皇明仁は生前退位を行なったことから、現在は徳仁天皇の時代ですが、個人的に明仁天皇の時代は、長い天皇史の中で最も穏やかな時代だったのではないかと考えています。

日本の天皇と聞くと、第二次世界大戦敗戦以降の印象が強く、どうしても政治的実権を持たない象徴的な存在に思われがちですが、天皇史は極めて複雑な政治的陰謀渦巻くものでもあります。そもそも日本の天皇史を振り返ると、天皇が直接的な政治権力を握ることはほとんどなく、むしろ時代ごとの実力者たちによってその権威を利用されてきた存在と言え、実力者にとって天皇は極めて都合の良い権力の隠れ蓑として機能してきた側面もあります。 天皇は古来より武力や政治の統治主体というよりも、むしろ宗教的儀礼や文化的象徴としての役割が重んじられ、その統治権は常に名目上のものに留まりがちでした 。そのため、敗戦後に天皇の措置が戦勝した連合国軍によって決められ、天皇は象徴でしかないという決定が起きても、実は天皇はそれ以前から象徴的存在であったため、日本人は大きな抵抗心なく受容したと言えます。なぜなら、実際に天皇が政治的権限を支配していた歴史は、ほとんど皆無に等しいと言っても過言ではないからです。

古代に中国の唐を模倣した律令体制が日本で成立して以降、確かに天皇は形式上は統治者とされますが、実際の政務の大半は貴族・有力者に委ねられる傾向が強まりました。特に貴族の実権が高まる平安時代には、外戚関係を構築した藤原氏が摂政・関白となり、幼少の天皇を後見して権力を掌握した『摂関政治』と呼ばれる状態が行われます 。この摂関政治の時代、天皇自身は政治的実権を奪われており、その権威のみが利用される立場に置かれました。つまり表向きの実権を天皇として立てながら、実は天皇には何の政治的実権もなく、裏で藤原氏が権力を掌握していたのです。 11世紀末以降は退位した上皇が院政を敷き、一時は白河上皇や後白河上皇らが自ら政務を執ることもありましたが、今度は貴族ではなく鎌倉幕府など武士政権の台頭により、次第に皇室の影響力は後退します 。

1221年の乱で上皇勢力が武士勢力に敗北すると、以後は武士によって打ち立てられた幕府が朝廷を統制するようになり、天皇は政務の主導権を完全に失います。この天皇の政治的権力の喪失は、1185年の鎌倉幕府成立から江戸幕府が終わるまでの約700年にも及びます。その間、政治の実権は将軍などの武家の手中にあり、天皇が自ら政権を握る機会はほとんどありませんでした 。事実、徳川将軍による統治が続いた江戸時代など、天皇は京都に幽閉されてほとんど人々の注目を集めませんでした。

例外的に後醍醐天皇(在位: 1318-1339)が鎌倉幕府打倒後に親政を行った時期もありましたが、それも短期間に終わり、基本的に武家権力の下で天皇は形式的な君主として位置づけられ続けたに過ぎません 。特に江戸時代に幕府は朝廷(天皇勢力)の政治関与を禁じる措置を行い、儀式や継承など必要な場面に限って天皇の権威を利用するという棲み分けを確立しています。だからこそ当時、天皇は文化・儀礼上の存在として京都に存していたのです。この状態は第二次世界大戦後よりも影が薄く、象徴性も極めて限定的だったと言えます。

この700年程度も続いた武家による権力独裁に反発し、天皇の政治的権力の復権を高らかに主張して徳川家による統治を転覆する動きが19世紀後半に起きます。長く権力の座にあった武家政権が揺らぐ中で、『尊王攘夷』のスローガンのもとで倒幕運動が起こり、1868年の明治維新によって天皇親政が復活します。明治新政府による近代国家の建設期には、即位した明治天皇が国家元首として位置づけられ、大日本帝国憲法の下で天皇は統治権の全権掌握者として規定されました。しかしこれは、軍事クーデターで徳川体制を転覆させた新たな権力者による詭弁であり、実際には明治政府の実権はクーデターで活躍した元勲や内閣・議会が握っており、明治天皇はそれらの政策調整を行う「調停君主」という状態にとどまり、本質的には依然として「国家の象徴」でした。

明治以降も天皇自らが政治を主導することは稀で、ほとんどの期間は軍や官僚が天皇の名の下に権力を行使する悪用体制が続きます。特に昭和前期に入ると軍部が強烈に力を高める過程で、天皇の権威を戦時体制に悪用した事例があります。時の昭和天皇は権力が肥大化して暴走する軍部との緊張関係の中で、自らの意思を通そうとしましたが、軍部は一貫して天皇を自らの思惑に従わせて利用したことは事実です。このように戦前の近代天皇制においても、天皇は政治勢力の道具の側面が強く、その意思とは無関係に権威のみが独り歩きしていました。第二次世界大戦後に日本国憲法(1946年公布・1947年施行)によって天皇は「日本の象徴」に位置づけられ、政治的権能を一切持たないことが明文化されましたが、一体この措置に何の意味があったのかは疑問です。

むしろ戦後は、歴史上繰り返されてきた「象徴としての天皇」の姿が、近代的立憲主義の下で制度的に確定した形と言えるに留まり、占領期に定まった枠組みは、この長い歴史の延長に位置づけられることが見えてきます。そうした中、昭和天皇は終戦後の1946年に自ら『人間宣言』を行い、政治と距離を置く姿勢を明確に示しました。そして昭和天皇の崩御後、1989年に皇太子であった明仁親王が天皇に即位し、新たな象徴天皇の時代が幕を開けます。これが平成です。

つまりある意味、明仁天皇(現在の上皇)は日本国憲法下で初めて最初から「象徴天皇」として即位した初めての天皇だったのです 。その在位中、天皇は一貫して政治的中立を保ち、国民に寄り添う姿勢を貫きました。明仁天皇が模索し、体現した象徴天皇像の核心は、「常に国民の現実の苦楽に心を寄せ、共感と共苦を分かち合うこと」にありましたが、実際に彼の在位期間に及ぶ行動はそこを貫徹し、素晴らしい天皇として国民に奉祀されたと思います。例えば2011年3月11日の東日本大震災の時に限らず、明仁天皇は国内各地の災害被災地や慰霊碑を訪問し、ひざを屈して被災者や遺族に言葉をかけるなど、常に国民とともにある振る舞いを続けました。実は天皇が国民にひざを屈して言葉をかけるなど、これまでは考えられないことでした。しかも、政治家で誰一人としてこのようなことをした人物はいません。この天皇の姿は、権力者として統治する歴代天皇の姿とは全く異質で、国民統合の役割を果たすために甚大な労力を注いだことを象徴しています。

明仁天皇のもとでの平成は、政治権力闘争に天皇が担ぎ出されることもなく、元号こそ変われど、大きな政変や内乱も経験しない最も安定した時代となりました。天皇は憲法の定める範囲内で象徴としての務めに徹しつつ、その言葉や活動を通じて、日本人、さらには人類に対する尊さを静かに語りかけました。2016年8月のビデオメッセージでは、高齢による公務の負担を案じて「象徴としての務め」に言及する異例の発信を行い、後に退位への道筋を開きましたが 、これもまた政治的権力を伴わない形で制度を安定させるための決断でした。明治期や昭和戦前期の天皇が政治・軍事の権力を併せ持ち、強大な存在感を示したのに比べ、明仁天皇は非政治的な立場の中で強い統合力を発揮し、歴史上特筆すべき「強い象徴天皇」と評価されていることも同意できます。裏を返せば、権力ではなく、人格と行動によって国民の信頼を勝ち得た稀有な天皇だったと言えるでしょう。

以上のように、天皇は歴史的に見ると常に権力の座から距離を置かれ、その権威のみが様々な政治勢力に利用されてきた背景があります。その長い歴史の中で平成の時代は、天皇が純粋に人々のための役割を全うし、政治的陰謀や争乱とは無縁に、国民統合の象徴として機能した極めて穏やかな時代でした。上皇明仁が築いたこの安定した象徴天皇制の在り方は、日本の歴史においても特異かつ貴重なものとして記憶されることでしょう。