浮世絵受難の時代:寛政の改革と町人文化Art in Chains—Ukiyo-e's Darkest Era
今でこそ、日本の伝統文化として知られる『浮世絵』と『歌舞伎』ですが、かつてこれらの文化が酷く弾圧された時代があったことをご存知でしょうか?
時代は18世紀後半に遡ります。これまで徳川家の将軍による統治は非常に安定していたことから、執政に関わる人々も娯楽や放埒な生活が絶えなくなり、幕府の財政は急速に悪化していました。こうして第10代将軍の徳川家治(在任: 1760-1786)が着任すると、欲望のままに生きる父を反面教師として、質実に財政再建を図ります。彼は将棋が非常に得意であったことから、将棋由来の堅実な戦略によって、商業政策を積極的に促進します。これにより、大きく台頭したのが商業を営む町人です。それ以前の幕府は農業政策を中心に据える傾向が強かったのですが、ここで大きく転換を図ります。
そして徳川家治は、財政再建の要人として田沼意次(1719-1788)を登用。将軍の庇護を受けた田沼は、手腕を発揮して経済主義政策を加速させます。田沼は貨幣経済の促進、商業重視の政策、新田開発や紅山開発の促進、さらには外国との貿易拡大によって技術・情報を取り入れることを主導し、文化的にも大きな影響を及ぼしました。この時代の流れを受けて町人文化は勢いがつき、黄金時代が到来します。都市部(特に江戸)の庶民は経済的に豊かになり、自由な風潮を謳歌するのですが、この過程で勃興したのが浮世絵や歌舞伎といった娯楽です。しかし田沼には幕府内に一人の天敵が存在しました。それが第8代将軍・徳川吉宗の孫で、幕政の一翼を担っていた松平定信(1759-1829)です。
両者の衝突は、日に日に激化します。松平は田沼の執政を快く思っておらず、歳月をかけて失脚させることを画策。経済重視の政策は必然的に大きな格差を生み、さらに飢饉や浅間山噴火などが相次ぐ不穏の時代であったことから、人々の不安を利用して田沼失脚のプロパガンダを喧伝します。こうして田沼は賄賂によって利権を独占し、幕府の腐敗を増長した敵として評価が反転、1784年には江戸城の内部で自身の右腕でもあった子・田沼意知が殺害されたことで事態は急変します。
結果的に田沼は1786年に失脚、そこに登場したのが松平定信でした。邪魔者を追い払った松平は、1787年に老中(事実上の政治権領有)に就任して『寛政の改革』と呼ばれる厳格な政策を1787-1793年にかけて断行します。これによって田沼時代の文化勃興に暗雲が立ち込め、状況は一変しました。松平は田沼とは異なる財政再建の一環として、質素倹約と思想統制を掲げ、風紀を乱す出版物や芸能を規制する強硬策に出ます。これは不景気の原因は『人心の乱れ』にあると考えたからですが、本当に危機感を持っていたのは、財力をつけた町人主導による幕府の崩壊、つまり侍の時代の終焉でした。
松平は社会不安の原因は幕府ではなく町人側にあると主張し、強権によって文化弾圧に踏み込みます。この時、最大の標的となったのが、『戯作』(洒落本や黄表紙などの滑稽本と呼ばれました)や『浮世絵』です。この改革を装った表現統制により、庶民は厳しい管理下に置かれてしまったことから、暗黒の時代が始まります。それを象徴するように、当時は田沼時代が良かったというニュアンスの歌が江戸の庶民の間で大流行したように、改革への反発も強まります 。何しろかつてと違い、町人は従順な幕府の命令に従う状態を既に脱していたからです。そこで幕府は徹底した締め付けを実行し、浮世絵師や歌舞伎役者たちの活動に大きな影響を与えました。
松平の改革で標的となったのは、まず出版文化です。特に幕政批判につながる風刺や、遊郭を舞台にした淫らな男女関係の書物は全て発禁となり、作者や版元も厳しく処罰された上、店は破壊、作品は焼かれてしまいます 。たとえば、浮世絵師の山東京伝(1761-1816)は自宅に50日間の拘禁の刑に処され、彼の作品を刊行した版元の蔦屋重三郎(1750-1797)も、財産の一部没収や店の破壊などの罰を受けています 。この蔦屋重三郎こそが、浮世絵文化の勃興に欠かせない重要人物でした。
この極端な弾圧が人々の不安を煽ったことから、武士階級出身の浮世絵師は処罰を恐れて筆を折り、隠遁する者も続出しました 。また歌舞伎などの演劇も「風紀を乱す」贅沢として激しく規制され、劇場なども破壊されてしまいます。享楽的で派手な芝居は禁止され、脚本の内容も検閲の対象となりました。さらに奢侈を煽る豪華な舞台装置や衣装にも制限が加えられますが、この時代の劇作家たちは歴史題材を用いて風刺表現を試みる反動に向かいます。しかし、現代劇的な刺激の強い演目は上演自体が困難となり、歌舞伎は大きく低迷します。
ですが時代には面白い側面もあり、文化弾圧が強まれば強まるほど、表現は尖っていくものです。この暗黒時代で急速に頭角を現したのが、有名な浮世絵師の喜多川歌麿(1753-1806)です。歌麿は当初、黄表紙や洒落本の挿絵で才能を磨いていましたが、のちに前述の蔦屋重三郎と出会ったことが人生の転機となります 。蔦屋は歌麿の画才を見抜き、豪華な彩色摺の狂歌絵本や美人画の錦絵を次々と世に送り出します。歌麿が女性の半身を大きく描いた『美人大首絵』のシリーズは斬新で、町人の娘や遊女の表情美、さらには人間味を大胆にクローズアップしたその作風は大評判となり、歌麿は一躍時代の寵児となりました 。
しかし、改革による締め付けは、ついに歌麿にも及びます。松平定信自体は1793年に失脚したことから、改革自体は6年で終わりを迎えますが、この政略が町人の締め付けにかなりの効果を持ったことから、引き続き力を失った幕政の主要政策になります。そして1793年、幕府は「風紀が乱れる」ことを理由として、浮世絵に実在の町の娘や遊女の名前を記すことを禁じます 。つまり、絵の中に花魁の名を入れて人気を煽る手法(今でいうプロモーション)が禁じらたのです。歌麿は苦肉の策で、絵に複数の謎を隠して、見る者に誰を描いたか推測させる『判じ絵』と呼ばれる画法に転換しますが、この抜け道もすぐに役人に塞がれてしまいます 。そして1800年には、ついに歌麿の代表作であった『美人大首絵』が発行禁止になります 。事実、弾圧の影響で歌麿の描く題材は急速に制約され、美人画の発表点数が激減したとされています 。爛熟をきわめた浮世絵の美人画も、為政者には社会規範を乱す危険な贅沢品として捉えられたのです。
それでも歌麿は創作意欲を失うことはありませんでした。政治的な弾圧が強まるほど、彼は新たな題材に挑み、静かに幕府に挑戦し続けたのです。ところが1804年、豊臣秀吉とその側室たちを描いた錦絵シリーズ『太閤五妻洛東遊観之図』までもが発禁処分となり、ついに歌麿は自宅に50日間の拘禁の刑に処せられてしまいます 。歴史上の権力者を戯画的に扱ったこの作品は、「大名や武将を軽々しく描くのは不敬」と判断されたのです。表現の自由を奪われた歌麿は打ちひしがれ、刑罰から2年後の1806年に失意のうちにこの世を去りました 。後世に残る名作を次々と生み出した巨匠ですら、時の権力には屈せざるを得なかったのです。
そして浮世絵の表現が大きく制限をかけられて停滞する時代。名前を掲げて活躍した歌麿とは違い、自らの姿も出自も公表しないことで巧みに刑罰を逃れ、過酷な弾圧時代の僅か10ヶ月間に140もの作品を発表して、突如消え去り、江戸の人々を驚愕させた謎の人物が登場します。それが歌麿が強烈な刺激を受けながらも、今も正体不明の伝説の浮世絵師である東洲斎写楽だったのです。